りん×くう! 17/古明地こいし
2010.05.29 Saturday | category:東方SS(お燐×おくう)
『こいし』
姉がそう、名前を呼んでくれること。
『こっちにいらっしゃい、こいし』
そう手招きして、寄り添うことを許してくれること。
『こいしったら、甘えん坊なんだから』
そう、優しく髪を撫でてくれること。
その胸元に頬をすり寄せて、『お姉ちゃん』と甘えること。
それが、古明地こいしの幸福だった。
愛し、愛しと言う心。
恋し、恋しと請いし心。
ただそれだけが、古明地こいしのかけがえのない、宝物だったのだ。
要するに。
古明地こいしは、姉のことが、古明地さとりのことが好きだった。
言葉にしてしまえば、全てはただ、その一点のみに集約される。
こいしは、さとりが好きだった。世界で一番、誰よりも好きだった。
――どうしようもないほどに、さとりだけを愛していた。
全ては、それだけのことでしかなかったのだ。
◇
どうしてだろう、とこいしは、自分にすがりつくように膝をついた、その姿を見下ろす。
ぎゅっと、こいしの背中に腕を回して、彼女は何事かを繰り返し、呟いている。
――ごめんなさい、こいし、と。
どうしてだろう、とこいしは、ぼんやりと考える。
どうして、見つかってしまったのだろう。
自分は、姉にだけは決して、見つかることはないはずだったのに。
第三の目に見つからないように、心を閉ざして。無意識を彷徨って。
誰にも認識されることのない世界で、ただ、自分は――。
「こいし……ごめんなさい、ごめんなさい――」
姉は、さとりは、自分にしがみついたまま、そう繰り返す。
どうして、――今さら、そんな風に謝るのだろう。
姉はもう、自分を探してなどいないのだと、そう思っていた。
無意識を彷徨う自分のことを、探そうともしてくれなかったから。
どれだけ自分が近くにいても、気付いてもくれない。解ってくれないから。
だから、もう、自分は――。
「……私が、あなたを孤独にしたのに、ずっと見つけられなくて――ごめん、なさい」
今さらだ。そんなのは本当に、今さらなのだ。
自分はずっとひとりで、ひとりきりで、誰にも気付かれない孤独を彷徨い続けて。
もうそんなことにも、すっかり慣れきってしまっていたのに。
――どうして今さら、そんな風に、自分のことを――。
「こいし――私は、私はっ……」
さとりは、そして、顔を上げた。
その眼に今、自分の顔が映っているのかも、こいしには解らない。
解らないけれど、さとりの瞳は確かに、古明地こいしを見つめていた。
無意識の世界に消えていたはずの妹の姿を、見つけていた。
「今でも――貴方のことが、好き」
どうして。
どうして、今さら。
そんなことを――言うの。
「貴方が好きなの。――それは、あの頃から、ずっと、何も変わってないから――」
そして、さとりは笑った。かつてのように優しく、こいしに微笑みかけた。
その笑顔に――こいしの中で、何かがさざめいた。
水面に小石を落としたように、波紋が、ゆっくりと広がっていって――。
「……おねえ、ちゃん」
こいしは、呟くように、そう口にしていた。
◇
――むかしむかし、あるところに、仲の良い姉妹がいた。
姉はさとり、妹はこいし。ふたりはとても仲睦まじく、幸福に暮らしていた。
けれど、その仲の良い姉妹を、周りの妖怪たちは疎んじ、忌み嫌っていた。
それは、彼女たちが《覚》という種族であるが故。
その第三の目が、他者の心を見通してしまうがために、ふたりは世界に疎んじられた。
それでも、古明地こいしは幸せだった。
姉がそばにいてくれるから。大好きな姉が自分のことを解っていてくれるから。
それだけで、こいしは満たされていた。
『おねえちゃん』
心の中だけで、姉にそう呼びかける。
『こいし』
くすぐったそうに、姉はそう心で答えてくれる。
そんな、ふたりだけの心の通話をしているだけで、こいしは幸せだった。
『おねえちゃん、だいすき』
そう甘く囁くと、『私も、こいしが好きよ』と姉は答えてくれる。
――それさえあれば、他に何もいらなかった。
世界でふたりきり、誰よりも分かり合っている、心を通じ合わせている姉妹。
さとりとこいしは、ずっとそう在り続けられるはずだった。
それだけで、こいしは幸せだったのだから。
――けれど。
『こんにちは。――ほら、こいしもご挨拶なさい』
それが誰だったのかなんて、もう覚えていない。
ただ、姉は自分以外の誰かに対して、優しく笑いかけていた。
そのことだけが棘のように、こいしの心に突き刺さって抜けないまま。
『こいし、ほら』
疎まれたとはいえ、自分たちに近付いてくる者がいないわけではなかった。
そうした者に、さとりは愛想よく応対していた。心を読まれても、自分たち姉妹を疎んじないでいてくれる存在を、大切なものだと姉の心は認識していた。
――それが、こいしには理解できなかった。
どうして?
どうしてお姉ちゃんは、私以外にも優しく笑うの?
私は、お姉ちゃんだけいればいいのに。
お姉ちゃん以外に、誰も、何にもいらないのに。
私はこんなにお姉ちゃんが大好きで、お姉ちゃんが一番なのに。
お姉ちゃんにとって、私は一番じゃないの?
私以外に、お姉ちゃんに大切なものがあるなんて、
お姉ちゃんが私以外の誰かに優しくするなんて――そんなの、嫌。
そんな心を姉に向けると、さとりは困ったように目を細めて、こいしの髪を撫でるのだ。
違うのよ、こいし。私だって、こいしが一番好き。
でもそれは、こいし以外の誰も嫌いっていうことじゃないの。
――姉はそう諭すけれど、こいしにはやっぱり、理解できないのだ。
さとりはそうして、知り合った妖怪をこいしに紹介する。
けれど、さとりには優しく接するらしいその妖怪も、こいしのことは避けるようになる。
当たり前だった。こいしの方が、それらを拒絶していたのだから。
こいしはますます、誰からも疎んじられた。そのたびに、こいしは悲しくなった。
さとりはそれを、嫌われることを悲しんでいるのだと誤解していたけれど。
こいしはただ、姉が自分の気持ちを解ってくれないことが、悲しかった。
さとり以外のものなど、何もいらないのに。
たださとりだけがそばで笑っていてくれれば、自分はそれで良かったのに。
そうするうちに、こいしは姉の第三の目から、自分の心を隠す術を覚えた。
心を隠すと、姉は以前よりも自分のことを強く気に掛けるようになってくれた。
誰からも嫌われて、心を閉ざしてしまった可哀想なこいし。
姉は自分をそう理解していた。それは誤解だけれど、姉が自分を想ってくれることが、こいしは嬉しかった。だからずっと、姉から心を隠したままでいた。
心で『好き』とは伝えられなくなってしまったけれど。
姉が自分のことを気に掛け、自分を心配してくれる。
自分のことだけを考えてくれることが、こいしは幸せだった。
そうして姉とともに、地上を離れて地底へと移り住んだ。
地獄から切り捨てられた地底で、ふたりきりで暮らすのだと、姉の心は囁いた。
ふたりきり。姉はずっと自分だけを見てくれる。
嬉しかった。幸せだった。
それなら、心をもう隠さなくてもいいかもしれないと、そう思った。
――それなのに。
『……弱っているようね。何か、食べさせてあげましょう』
移り住んだ地底でも、姉は自分以外のものを気に掛けて、優しく微笑んでいた。
『おりん、うつほ。――貴女達、私のペットにならない?』
拾った火焔猫と地獄鴉に名前を与えて、ペットにして、愛情を注いでいた。
――そのことが、辛かった。悲しかった。……許せなかった。
私はこんなに、心を隠してしまうぐらいお姉ちゃんが好きなのに。
お姉ちゃんだって、私のことを好きって言ってくれるのに。
いつまで経っても、お姉ちゃんは私以外のものを見て、私以外のものに笑う。
『こいし。……抱いてみる?』
ペットの一匹を私に差し出して、お姉ちゃんは微笑む。
お姉ちゃんは、私がその火焔猫に興味を示していると思っているけれど、それは違う。
私は、みんな大嫌いなのだ。
お姉ちゃんが興味を示す、お姉ちゃんが笑いかける、私以外の全てが――。
だから、壊してしまおうと思った。
姉が優しくする、自分以外の全てのものを。
全部壊してしまえば、お姉ちゃんはまた自分だけを見てくれる。
自分だけに、優しく微笑んでくれる――。
だから、壊した。
姉が自分に近づけようとしたあの火焔猫を、引き裂いて、壊した。
溢れだした血潮の匂いにむせながら、これでお姉ちゃんは解ってくれると思った。
このまま、お燐という火焔猫も、うつほという地獄鴉も、壊してしまおうと思った。
そうすれば、お姉ちゃんは私のもの。私だけのもの――。
それなのに。
『おねえちゃんのこと、だいすきだよ』
そう、言葉にして伝えたのに――姉は、さとりは。
『――駄目えええええッ!!』
自分を、怖れた。拒絶した。理解できないものとして、否定した。
信じたくなかった。姉だけは、自分を拒絶しないと、そう信じていたのに。
だけど姉は、古明地こいしという存在に怯えて、その手を振り払ったから。
――その瞬間、こいしの第三の目は、完全に閉ざされたのだ。
姉が自分を嫌うなら、もう誰の心も読む必要が無かった。
姉に嫌われてしまったのなら、もう誰にも自分は必要とされていなかった。
自分はもう、誰にも見えなくていい存在になった。
そうしてこいしは、無意識を彷徨う存在になった。
心を閉ざし、目を閉ざし、無意識の孤独を、ずっと彷徨い続けていた。
何の意味もなく。何の理由もなく。何の意図もなく。ただ、ずっと。
世界の全てがのっぺらぼうの平板な書き割りになっても、どうでもよかった。
何も感じない。何も聞こえない。恋し心は殺された。
後に残ったのは、透明な少女の抜け殻だけだった。
――それなのに、どうして。
どうして自分は、消えてしまうこともなく、ここに存在し続けているのだろう。
それはただ、たったひとつだけ、残った心があったからだ。
たとえ嫌われてしまっても。たとえ見つからなくなってしまっても。
古明地こいしは、古明地さとりが好きだった。
孤独に摩耗して起伏を失った心の中にも、ただその気持ちだけがぽつんと残されていて。
だから、うつほが力を手に入れたと知って、山の神社に行ってみたりしたのだ。
その力を自分も手に入れてみたかった。使いたかったわけじゃない。それを手に入れれば、自分は姉に見つけてもらえるだろうかと、そう思ったのだ。
いや、そう思ったのかどうかも、やっぱりよくわからないけれど。
――そこで出会った、奇妙な人間にやっつけられて。
古明地こいしという透明な存在が、微かにまた、揺らいだ。
揺らいだまま、地底に戻ってくると、地霊殿に姉の姿はなくて。
うつほが飛び出していったのをぼんやり見送って、またふらふらと外に出ると、誰かに姉がおぶわれてこちらにやって来るのが見えた。
――お姉ちゃんに優しくするなんて、許せない。
誰かに優しくされるお姉ちゃんも、許せない――。
たぶんそのとき、自分はそう思ったのだと思う。
だからその誰かに手を出した。けれど敵意を返されて、自分は逃げ出して――。
どうして。
どうして今さら、姉が自分を追いかけてくるのだろう。
自分のことを決して見つけられないはずだった姉が、自分を追いかけて。
この手を捕まえて、すがりついているのだろう。
――こいしには、今も、何も解らないのだ。ただ、
「貴方が好きなの。――それは、あの頃から、ずっと、何も変わってないから――」
姉のその、微笑みとともに告げられた言葉に。
こいしの心が、また小石を投げ込まれた水面のように、さざめいて――。
◇
「おねえ、ちゃん」
そしてこいしは、目を開けた。
途端、世界のあらゆる情報が洪水のように流れ込んで、こいしはたたらを踏む。
色の無い世界が急に色彩を取り戻したように、無音の世界が急に喧噪を取り戻したように、溢れかえる、あらゆる《視えるもの》の奔流の中で、こいしは狼狽えて、
「こいし――」
その身体を支えるように、優しく抱きしめてくれる腕があった。
世界を理解しきれないこいしの目に、はっきりと映る微笑みがあった。
瞬きして、こいしはその微笑みを見上げる。
くしゃくしゃの顔で、今にも泣き出しそうに微笑んだ、姉の顔。
古明地さとりの、優しい微笑み。
古明地こいしが何よりも大好きだった、世界で一番大切な姉の笑顔――。
「ごめんなさい、ずっとひとりにして、ずっと貴方を見つけられなくて」
こいしを抱きしめて、さとりは囁く。
その胸元の第三の目を見やって、こいしは目をしばたたかせる。
姉が、第三の目を閉じていた。
第三の目を閉じたまま、だけどさとりは、こいしを見つけて、抱きしめていた。
「どれだけ貴方を傷つけて、悲しませたのか、私には解らないけれど、でも――」
世界は相変わらず混沌とした情報で溢れかえっていて、その無数のノイズの向こうに、姉の姿が霞む。姉の微笑みも、よく見えなくなってしまう。
――だからこいしは、もう一度目をゆっくりと閉じた。
「だけど、これだけは信じてほしいの」
世界が再び色を失い、静寂に閉ざされる。何も見えなくなる。何も感じなくなる。
それなのに、たったひとつだけ、どうしようもなく確かなものがある。
それは、自分を抱きしめてくれるさとりの温もりと、言葉と、微笑み。
あまりにも、それだけがはっきりと、こいしを包み込んでいたから。
――ずっと孤独だった無意識の世界で、こいしは今、ひとりではなかった。
「こいしが、好き。私はこいしのことが、ずっとずっと、大好きだから――」
第三の目を閉ざして、互いの心と心はもう見えないのに。
かつて心で囁き合っていた頃よりも、何かが伝わり合っている気がした。
とくん、とくんと、さとりの鼓動が胸に伝わってくる。
とくん、とくんと、自分の鼓動の音が共鳴する。
その心地よい律動に身を任せて、こいしは――その手を、さとりの背中に回して。
「……お姉ちゃん」
はっきりと、そう口にした。
お姉ちゃんが好きだ。
どれだけ嫌われても。拒絶されても。見つけてもらえなくても。
古明地こいしは、古明地さとりが大好きだった。
だから自分は、消えてしまうこともなく、無意識の世界に繋ぎ止められていたのだ。
ただ、その想いが故に。
恋し、恋しと請いし心が故に。
道端の小石のように、誰にも気付かれることが無くなっても、
乞い求め、請い願い、恋しく思い続けるがために、そこに在った。
古明地こいしを繋ぎ止めていたのは、古明地さとりだった。
全てはただ、たったそれだけのことだったから。
「だいすき、だよ。お姉ちゃんが――大好き」
こいしは、そう答えた。
その言葉が、さとりに伝わっているのかは、解らなかったけれど。
抱きしめてくれる腕の力は、あまりにも確かだったから。
きっと、世界中の誰よりも今、こいしとさとりは分かり合っていた。
心を、通じ合わせていた。
◇
見えなくても、解るものがある。
見えていても、解らないものがある。
それを伝え合うために、言葉があり、触れあうための腕がある。
それはきっと、《覚》であっても同じことだった。
心を読めるさとりとこいしが、言葉を持ち、その両腕を持つのは、きっと。
それで触れ合い、囁き合うことで。
心を見つめ合うよりも、もっともっと、解り合うことが出来るから。
そうすることで、伝え合える大切なものが、そこにあるからだった。
ふたりの、閉じたままの第三の目が。
ゆっくりと、その固く凍りついた瞼を、震わせようとしていた。
BACK|NEXT
⇒ こじたん (11/17)
⇒ 浅木原 (11/16)
⇒ こじたん (11/16)
⇒ 時の番人 (11/14)
⇒ 置き石 (10/14)
⇒ 葉月 (09/19)
⇒ ろっく (05/17)
⇒ 六仁祝 (08/27)
⇒ はまなす (06/20)
⇒ 橘 奏 (08/10)