りん×くう! 15/古明地さとり
2010.05.23 Sunday | category:東方SS(お燐×おくう)
その夜、さとりが目を覚ましたのは、甲高い猫の鳴き声によってだった。
身体を起こし、瞼をこする。ペットの火焔猫の鳴き声か。ぼんやりした頭のまま、さとりは何度か首を振った。自分が目を覚ますほどに、うるさくペットが鳴くなんて今まであっただろうか。
耳を澄ませるが、それ以上猫の声は聞こえなかった。さとりは喉の渇きを覚えて、寝間着のまま部屋を出る。
何か、悲鳴のような鳴き声だった。
部屋を出た途端、不意にそんな考えが頭をよぎる。
どうしてそんな風に思ったのか、とさとりは自分自身を訝しみ、そして鼻をついた臭いに、その理由を悟った。
血の、臭い。
どこからか、ひどく生臭い鉄錆の臭いがする。
ぞくりと、さとりの背中を悪寒が駆け巡った。
何だ、この臭いは。どうして地霊殿の中から、鮮血の臭いが漂ってくる?
誰か、怪我でもしているのか。さっきの火焔猫の鳴き声の原因は、この血の臭いと関係があるのか?
「お燐?」
それとも、別の火焔猫か。さとりは血の臭いに誘われるように、ふらふらとそちらへ足を向ける。
そして、たどり着いた場所は、その部屋の前。
ドアに掛けられたプレートには、さとりの文字で『こいし』と、そう記されている。
血の臭いは、確かにこの部屋の中から漂っている。
ごくり、とさとりは唾を飲んだ。
このドアの向こうに何があるのか、さとりの理性はおそらく理解していた。ただ、脳がそれを受け入れようとしないだけで。
今夜も、こいしの傍らで、あの火焔猫が眠っていたはずだ。あの悲鳴が、その火焔猫のものだとしたら、
『――こいし?』
意を決して、さとりはドアをノックし、呼びかけた。
返事はない。息を吐き出し、さとりはノブに手をかける。
『何かあったの? ――入るわよ』
ドアを押す。軋んだ音をたてて、その扉は開かれる。
次の瞬間、生臭い血の臭いが鼻をついて、さとりは顔をしかめ、
――そこにあった、半ば予期していた光景に、それでもただ、呆然と目を見開いた。
火焔猫が、死んでいた。
床の上に鮮血を散らして、完全に息絶えていた。
首が、胴が、四本の足が、あり得ない方向にひしゃげていて、引き裂かれた毛皮から、臓物がはみ出して床の上に散らばっていた。
ちぎれかけた首の、白目を剥いた瞳が、静かに虚空を見上げている。
その視線の先にあるのは。
ひしゃげた命を見下ろしているのは、鮮血に染まった影。
その微笑みを、どす黒い赤に汚して。
その両手を、滴る生臭い赤に濡らして。
古明地こいしは、ゆっくりと振り返った。
『おねえちゃん』
こいしは笑っていた。
足下で死んでいるのは、あの火焔猫だった。
こいしに懐いていた、こいしの友達になってとさとりが願った、あの火焔猫。
名前も無いその猫は、名を与えられることもなく、こいしの足下で肉の塊になっていた。
『こいし――』
どうして。
どうして、こんなことになっている。
こいしが殺した。あの火焔猫を。それは確かだ。
そしてこいしは、笑っている。
鮮血にまみれて笑っている。
『――どうして、こんな』
こいしは、こんなことをする子だったか。
違う。こいしは、こいしは哀れなぐらいに優しい子だった。
相応の子供らしい残酷さは、確かに持ち合わせていたかもしれない。だけどこいしは――嫌われることを恐れて、自分の心を閉ざしてしまうような、弱い子だった。自分が他人を傷つけることを恐れて第三の目を閉ざしてしまう、優しい子だったはずだった。
だからこそ、自分はずっと、こいしを守ろうと、
この世界の全てのものがこいしを嫌っても、自分はこいしを守り続けようと、
そう誓って、この地底にやってきたのに。
『死んじゃった』
ぽつりと、足下の死骸を見下ろして、こいしは呟いた。
何の感情も抑揚もない、平板な声。
『でもいいの。わたし、いらないから』
何を。
こいしが何を言っているのか、さとりには解らない。
『おねえちゃんも、いらないよね』
どこまでも淡々と、何一つ起伏のない声で、こいしは続ける。
さとりには理解できない言葉を、続ける。
『殺しちゃおう』
それが、お燐や空へ、さとりのペットへ向けられた言葉なのだと、さとりには解った。
こいしの心は、さとりには見えない。
けれど解った。解ってしまった。
こいしは、足下の火焔猫の死骸にはもう目もくれず、ふらふらとさとりの方へ足を向ける。
『殺しちゃって、いいよね?』
こいしは笑った。
感情を忘れた顔で、さとりへ笑った。
それは、さとりの好きだった、優しい笑顔ではない。
酷薄さすらも存在しない、無感情な笑顔。
貼り付けただけの、能面のような笑顔。
『――駄目』
理解できなかった。
さとりにはどうしても、理解できなかった。
なぜ、こいしがこんなことをするのかも。
なぜ、こいしがこんな顔で笑うようになってしまったのかも。
何がいけなかったのか。
自分は、自分はこいしに、何を、
『駄目、こいし――』
解らない。
誰よりもわかりあっていたはずの、妹の心が。
大切だったはずの妹の姿が、今はまるで、――恐ろしいものにしか、さとりには見えない。
『駄目ええええええッ!!』
さとりは叫んだ。
悲鳴のように叫んだ。
それが拒絶だった。
守ろうとした、守りたかった、大切な妹への。
何よりも雄弁な、拒絶の言葉だった。
――次の瞬間。
こいしの瞳から、光が消えたのを、さとりは見た。
いや、光だけではない。
こいしの瞳が、顔が、身体が、まるで蜃気楼のように、目の前で薄らいでいく。
こいしの気配が、こいしの存在が、霞んでいく。
それをさとりは、呆然と見送って――。
『おねえちゃん』
最後に、こいしが自分のことを呼んだ気がした。
けれど、そのときには、もう。
古明地こいしの姿は、その場のどこにも、見あたらなかった。
◇
世界が、水の中のようにゆらゆらと揺れていた。
視界はただ、色のない世界を映している。モノクロームですらない、白と黒の区別すらない、のっぺらぼうの、透明な世界。身体の感覚もひどく曖昧で、ふわふわと漂っているような感覚だった。
耳に届くのは、静かなノイズ。ざわめきのような、意味を為さない音の集合体。
どこまでも、さとりの世界は茫漠としていた。
――ああ、これが、孤独の世界か。
ぼんやりとした思考で、さとりは思う。
これがこいしの世界。心を閉ざした、無意識に身を置くこいしの孤独な世界なのだ。
なんて、静かなのだろう。
なんて、安らかなのだろう。
なんて――優しい世界だろう。
誰も、さとりの存在に気づかない。
誰も、さとりの存在を認識しない。
隔絶された世界の姿は、フィルターを通したように曖昧なカタチをしている。
これなら、怖くない。
どんな悪意も。どんな敵意も。どんな畏怖も。
――どんな拒絶も、自分には届かない。
だから安らかだった。さとりは、孤独な世界で目を閉じて、ただ静かに漂っていた。
最初から、自分たちはこうあるべきだったのかもしれない。不意に、そう思う。
誰からも好かれない恐怖の目。
そう呼ばれて、誰からも遠ざけられ、恐れられ。
それなら、最初からひとりでいれば良かったのだ。
こんな安らかな孤独の世界を漂っていれば、誰も傷つけることも、嫌われることもないから。
ああ、だからこいしも、心を閉ざしたのだ。
今ならそれが解る。この安らかな孤独の中でなら、きっと自分も、穏やかにあれるだろう。
――これで、こいしとおそろい。
きっと、これで、またこいしとわかりあえる――。
『さとり――さとり、聞こえてるかい――』
声が。
孤独な世界のノイズの中に、紛れ込む声があった。
その声の主が誰だったのか、さとりには思い出せない。
『ほら、着いたよ。お前さんの家だ。地霊殿だ』
優しく、声は語りかける。
――優しく。
『なあ、お前さんに何があったのか、私は知らないが』
色が。
無色透明だった世界に、ほのかな色が差す。
『いつか、お前さんは私に言っただろう。自分の楽園は、この地霊殿だって』
優しい声。優しい色。――あたたかな、いろ。
その色が、光のように、さとりの瞼を貫く。
『だったら、お前さんは笑っていておくれ。ここは、楽園なんだ。この地底に生きる者たちの』
さとりは、手を伸ばした。
ゆっくりと、その色に、光に、手を伸ばした。
『私のようには、ならないでほしいんだ――』
そして、笑顔が見えた。
星熊勇儀の。火焔猫燐の。霊烏路空の。
笑顔。それが笑顔というものだと、さとりは知っている。
笑顔というものに、込められた心のカタチを、知っている。
『さとり』『さとり様』『さとり様ー』
親しい者たちの、大切な者たちの声が、聞こえる。
泣きたくなるほど、あたたかい、笑顔。
それは心だ。かつてさとりに向けられていた心。優しい、愛おしい、古明地さとりという存在を大切に思ってくれる者たちの、心のカタチだった。
第三の目に映る《心》ではない。
きっとそれは、この両目だけでも知ることのできる、心の――。
「あ――」
さとりは、それを見ようと――瞼を、開けた。
◇
「誰だ――!?」
瞼を開けて、さとりが最初に聞いたのは、怒気をはらんだ誰何の声だった。
相変わらず視界は焦点を結ばず、世界はひどくのっぺりとしていたが、誰かの肩越しに自分は地霊殿を見上げているのだということは解った。そして次に、自分が誰かに負ぶわれているのだということも。
「ちっ、姿を隠してとは穏やかじゃないね」
その声と、頬に触れる長い金髪に、さとりはそれが星熊勇儀であるということを悟る。
自分は勇儀に負ぶわれて、地霊殿まで運ばれたのだ。
たったそれだけのことを理解するのも、ひどく時間がかかった。緩慢な思考のまま、さとりは力なく顔を上げ、
「誰だか知らないが――今は相手をしてる場合じゃないんだ。手合わせが希望なら姿を現しな。それも出来ない腰抜けなら、黙って見送ることだね。――次は無いよ」
勇儀が、怒気を隠さず何者かを威圧している。
怒気、とその感情が、さとりにはやはり、理解できる。
勇儀の顔を見れば、その頬に血が一筋伝っていた。その赤さに、さとりは身を竦め、
「――ちゃん、なんて」
その微かな声に、さとりは目を見開いた。
のっぺりとした視界の中に、さざ波のような揺らぎを、さとりは見た。
意味を失った世界の中で、確かに感じる、見えない気配。
その揺らぎは、かつて第三の目で見つめていた《心》に、とてもよく似ている気がした。
その心は。《感情》は――。
「だい、きらい――」
こいし。
こいし、だ。
その声は。その色は。その――気配は。
目には見えないけれど、その揺らぎは確かに解る。
古明地こいしの、誰よりも大切な妹の《心》の色。
「こい、し」
さとりは掠れた声をあげた。その手を伸ばした。目に見えない気配の方へ。
「さとり、お前さん――」
驚きの声をあげた勇儀に構わず、身を乗り出すようにさとりは叫んだ。
「こいし――」
バランスを崩し、さとりは勇儀の背から転がり落ちる。地面に叩きつけられるが、漠然とした身体の感覚は痛みを伝えてこない。勇儀が慌てて駆け寄ってくるが、それももうさとりの視界には入っていなかった。
さとりが見ているのはただ、走り出した見えない気配。
平板な世界に揺らぐ、妹の気配――。
「――こいし!」
勇儀の手を振り払って、さとりは身を起こし、走り出した。身体に、失っていた力が戻ってくる。それは意志の力だ。さとりが一度手放した、意志という力。
妹を、逃げ出した妹を追いかけて捕まえるという、明確な意志。
今その手を掴めなければ、今言葉を届けられなければ、もう自分は二度とこいしに触れられないだろうという、確信があった。そんな予感に突き動かされて、さとりは走り出した。
ほの暗い地底の闇の中――旧都の雑踏へと向かって。
目の前を、のっぺらぼうの影がいくつも通り過ぎていく。
理解できない存在たち。その無数の影に、今のさとりは怯えることも忘れていた。
いや、むしろその雑踏は、さとりに対してあまりにも雄弁だった。さとりの知りたいことは、今は通りすがる誰の心でもない。ただ――こいしがどこへ向かっているのか、それだけだった。
通りすがる妖怪たちは、無意識に何かを避けていく。
その避けていく通り道を、揺らぐ気配が走っていく。
第三の目を開いていたら、無数の《心》に惑わされて、その気配に気づけなかっただろう。
目を閉ざしたからこそ、見えるものがある。
世界が平板だからこそ、見えないこいしの存在が、はっきりと感じられる。
こいしはそこにいる。手の届く距離にいるのだ。
盲目ではない。第三の目を閉ざしても、この目は世界を見、この身体は何者かに触れられる。
だからさとりは、無意識に何かを避けていく雑踏の流れを辿りながら、手を伸ばして、叫んだ。ざわめきの中にも響く声で、その名前を呼んだ。
「――こいし!」
気配が揺らぐ。躊躇うように、気配が足をゆるめる。
さとりの手が――見えない何かを、掴んだ。
それが、最愛の妹の手だと、さとりには解った。
何も理解できない孤独な雑踏のただ中で、見えないその手の感触だけが、あまりにも確かだったから。
「つかまえた――やっと、見つけた」
だからさとりは、笑いかけた。
その気配に。そこにいるはずの妹に。
「こいし」
名前を、呼んだ。
恋し、恋しと請いし心を、その三文字の響きに乗せて。
「……おねえ、ちゃん」
姿が。
ずっと見えなかったその姿が、その場に現れる。
リボンの結ばれた帽子。少し青みがかった銀色の髪。あどけない顔に、こちらを見つめるその瞳――。
その顔を見て、さとりは知る。
――本当に、自分は妹のことを、何も解っていなかったのだということを。
目の前に見つけた、こいしの顔は。
通り過ぎていく妖怪たちのような、のっぺらぼうではない。
確かに、古明地こいしの顔をしている。
その表情に込められた感情は、読みきれはしないけれど、それは普通のことなのだ。
第三の目が見えなくても、さとりには解る。
そこにいるのが、大好きな妹だと。
こいしは心を閉ざしてしまったのだと、ずっとそう思っていた。
第三の目で、その《心》が見えなくなってしまったから。
だけど、こいしは本当は、心を閉ざしてなどいなかったのだ。
だって、《心》が読めなくても、さとりにはこいしの表情がずっと見えていたから。
のっぺらぼうなどではなく、古明地こいしとして、理解できていたから。
こいしはずっと、さとりに心を開いていたのだ。
自分の、心を読めるという思いこみが、傲慢が、それを見えなくしていたのだ――。
「――ごめん、なさい」
さとりはぎゅっと、妹の身体を抱きしめた。
妹の両手は、抱きしめ返してはくれなかったけれど。
その髪からは、ふわりと懐かしい匂いがした。
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