りん×くう! 12/古明地さとり
2010.05.14 Friday | category:東方SS(お燐×おくう)
暗闇だった。漆黒の闇が、さとりの視界を覆い尽くしていた。
けれどそれは、視覚的な、物理的な闇ではない。地底は薄暗いが、旧都の街並みから漏れる光は、旧地獄街道を活気ある光で満たしている。行き交う妖怪たちの雑踏だって、さとりの両目にははっきりと見えている。
けれど、その視界は真っ暗闇に閉ざされていた。
さとりには、何も見えない。この目には何も映らない。
この――第三の目には、何も。
胸元の目に触れる。その瞼は、きつく凍りついたように閉ざされている。
閉ざされてしまえば、どうやってその瞳を開いていたのか、思い出せなかった。
暗闇。一点の光も無い完膚無きまでの漆黒の闇。
閉ざされた第三の目には、もう何も映っていない。
今まで見えていた全ての《心》が見えない今は、紛れもない漆黒の闇だった。
ふらふらと、おぼつかない足取りで、さとりは旧地獄街道の雑踏を彷徨っている。
そんな姿も、やはり気に留める者はいない。さとりに関わらない無数の記号は、ただその周囲を通り過ぎていく。どこまでも、古明地さとりとは無関係に。
いや――周囲が無関心であるということすら、今のさとりには解らなかった。
周りにいる全ての存在が、のっぺらぼうにしか見えない。
その感情が、心が読み取れない今、さとりには何も解らなくなっていた。
目の前を通り過ぎている妖怪たちが、どんな表情をしているのかも。
聞こえてくる声が、どんな感情を伴っているのかも。
世界は平板だった。手応えのない、底無しの穴のような、闇だった。
つまりそれは、さとり自身が、どれだけ第三の目に寄りかかっていたかという、その証だ。
心が読めなければ、さとりには何も解らないのだ。
目の前の誰かが、どんな顔をして、どんな感情で自分を見ているのかも。
第三の目が閉ざされて、そんなことに、初めて気付いた。
――誰からも好かれない恐怖の目。
そう言われ、この目のおかげで忌み嫌われていることを知りながら。
自分は、この目が与えてくれる《心》しか、見ていなかったのだ。
無数ののっぺらぼうたちが、目の前を行き交っていく。
何も見えない。ただそこにあるものが、無機質な記号としてしか認識できない。
喜びも、悲しみも、怒りも、嘆きも、倦怠も、愉悦も、幸福も――不幸も。
全ては平板な闇に塗りつぶされている。インクをぶちまけたような、何の起伏も無い闇に。
だとすれば、自分は今まで、何を見ていたのだろう?
全てを知っていると、そう思っていた。
周囲の者たちが何を考え、どう感じているのかを。
この目で見つめるものが抱える《想い》を、《心》を、《感情》を、自分は全て見通して、理解しているのだと、――さとりはずっとそう、何の疑いもなく思っていた。
けれど、今、さとりの目の前にあるこの平板な世界は。
これが、第三の目を持たない者の見ている世界なのだとすれば。
皆は、こんなのっぺらぼうの世界に、どうやってあんな《心》を見いだしていたのか。
見えない《心》を、どうやって通わせ、理解し合っていたというのか。
解らない、解らないからこそ、さとりはただ、雑踏の中心で絶望するしかない。
『そんな目で、あたいの気持ちが、あたいの心が全部解ってたまるかぁっ!』
ペットから投げつけられた言葉が、破鐘のように頭の中で響き渡る。
『――あたいの心はあたいのもんだっ! あたいの気持ちも、おくうの気持ちも、さとり様なんかに決めさせるもんか――ッ』
血を吐くようなお燐の言葉が、さとりの心臓に氷の刃のように突き刺さる。
――自分が今まで見ていた《心》は、《想い》は、《感情》は。
この第三の目が見透かしていたはずの《心》は。
果たしてそれは、――真実、《心》と呼べるものだったのだろうか?
こののっぺらぼうの世界に、覚らない全ての者が、自らの《心》で影を刻むのならば。
それすら出来ない《覚》の視る《心》は――本当に、《心》と呼べるものなのだろうか?
解らない。解らない、解らない、解らない。
ただ確かなのは、目の前にある顔のない命たち。見えない無数の心たち。
盲目の世界に、さとりは我知らず、悲鳴のように叫ぶ。
のっぺらぼうの何人かが、足を止める。旧地獄街道の真ん中で立ちすくみ、悲鳴を上げる少女に視線を向ける。
けれど、その視線にある心が、感情が、さとりには解らない。
悲鳴をあげるさとりを心配しているのか。訝しんでいるのか。
五月蠅い、と疎んじているのか。奇妙なものを見つけた好奇の目で見ているのか。
関わり合いたくないと嫌悪の目で見ているのか。――解らない。解らないのだ。
だから叫ぶ。金切り声をあげてさとりは泣き叫ぶ。
なんという孤独だ。
なんという恐怖だ。
なんという――絶望だ。
誰かが手を差し伸べる。けれどその手の意味すら、さとりには解らないのだ。
それが善意の手なのか、悪意の手なのかすらも。
盲目の世界では、判断のしようがないのだから――さとりは、拒絶するしかない。
そしてさとりは隔絶する。全ての他者から、世界そのものから、拒絶される。
理解できないものとして。
理解し合えないものとして。
さとりは、雑踏の真ん中で、この地底の全てから見捨てられている。
見捨てられたまま、泣き叫んでいる。
その絶望のただ中で、さとりは知る。知ってしまう。
これが、これこそが――こいしの世界なのだ。
この絶対的な孤独が、世界から隔絶されたこの恐怖こそが。
無意識に身を置く、古明地こいしの世界。
誰にも認識されない、心を閉ざしてしまった妹は。
こんな絶望の中を彷徨っているのだ。ずっと、ずっと。
それを、自分は――自分は。
さとりは嗄れ果てた喉で絶叫する。その顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして、血が滲むほどに両手で掻きむしりながら、虚空を見上げて叫び続ける。
誰も助けてはくれない。
助けの手がさしのべられても、さとりにはそれが理解できないから。
世界から拒絶されるということは、そういうことだ。
絶対的な、圧倒的な、《解らない》という孤立。
何ひとつとして認識できない暗闇に、さとりの心はただ、沈んでいく。
それはあるいは――狂気という、拒絶の果ての最後の逃げ道へ――。
「……さとり!?」
声が、した。さとりには聞こえるはずのない、他者の声がした。
その声が、その言葉の意味が――《心》が、さとりには理解できた。
驚き、そして、心配。
さとりは顔を上げる。のっぺらぼうの世界に、漆黒に塗りつぶされた世界に、ひとつだけ。
ひとつだけ――陰影を刻んだ、表情の見える、姿がある。
「おい、どうしたんだい!? こんなところで、お前さん――」
自分の肩を掴んで、乱暴に揺さぶるその影は。
ただはっきりと、古明地さとりという少女を案じる表情を、さとりに向けるその影は。
「……ゆう、ぎ、さん」
星熊勇儀。
星熊勇儀だけが、この世界でただひとり、表情を持っていた。
第三の目を閉じたさとりに、理解できる存在だった。
「さとり――」
ぐらり、と世界が傾ぐ。
そのままさとりは、勇儀の胸に倒れ込むように顔を埋めた。
勇儀の柔らかさと温もりだけが、盲目の世界の中で、どうしようもなく確かで。
さとりはただ、すがりつくようにその背中に腕を回して――意識を、手放した。
◇
『おねえちゃん』
妹が、こいしが、目の前に佇んでいる。
『ねえ、おねえちゃん――』
妹は笑っている。
自分に向けて、満面の笑みを浮かべている。
『私ね――』
その、妹の笑顔に染みついた色は。
錆びたような深紅。鮮血の色。――命の色。
『おねえちゃんのこと、だいすきだよ』
足元に、血溜まり。
妹の傍らに、無惨にひしゃげた――命の残骸。
さとりは、絶叫する。
◇
「……大丈夫かい?」
前髪をかきあげる大きな手の感触に、さとりは閉じていた瞼を開けた。
第三の目は相変わらず閉じたままで、世界はどこか平板なままだったけれど。
「落ち着いたかい」
額に置かれた、少し冷たい手のひらの感触と。
自分を見つめる、その鬼の穏やかな表情だけは、やけに鮮明だった。
「……勇儀、さん」
さとりはゆっくりと身体を起こす。相変わらず視界はぼやけて、さとりの目は世界を上手く認識できなかったけれど、どうやらここは勇儀の家らしい、ということは何となく理解できた。
「ほれ、飲みなよ」
差し出された小さな杯には、透明な液体が満たされていた。
それを茫然と見下ろしていると、勇儀はひとつ苦笑する。
「酒じゃないよ、水だ」
杯を受け取り、傾けた。冷たい水が、喉を通り抜けて身体を冷ましていく。
勇儀はそんなさとりの様子を、目を細めて見つめていた。
「ありがとう……こざいます」
掠れた声でそう呟く。「気にするこたぁ無いさ」と勇儀は笑った。
――どうしてだろう、と、胸元の閉ざされたままの第三の目に触れて、さとりは思う。
どうして星熊勇儀だけは、あののっぺらぼうの世界の中で、表情を持っていたのだろう。
そして今も、その表情が、その感情が、目を閉ざしたさとりにも解るのだろう。
勇儀が自分を案じてくれていること。
その横顔に、安堵と寂しさが入り乱れていること。
第三の目を閉ざしてしまった今でも、それがさとりには見えていた。
それは勇儀が、嘘をつかない鬼だからだろうか?
裏表の無い鬼だから、その心がそのまま、表情や仕草になって伝わるのだろうか。
ぼんやりと、さとりはもう一度部屋の中を見回す。寝室らしい部屋の中に、布団はさとりが寝かされていた一組だけのようだったが、隅に置かれた衣装棚が目に留まった。半分開いたその戸から、普段勇儀の身に纏っているものとは明らかに毛色の異なる衣装が覗いていた。
さとりの視線に気付いたか、勇儀は衣装棚に目をやり、気まずそうにその戸を閉める。
――その衣装に、見覚えがあったような気がして、さとりは小さく考え込む。
誰の着ていたものだっただろう。勇儀でないことだけは、確かだ。
勇儀の隣に――勇儀のそばに、その衣装を身につけた誰かがいた気がする。
だけどやはり、それが誰なのかが、さとりには思い出せない。
「……なあ、さとり。お前さん――」
不意に、勇儀が訝しげに眉を寄せて、さとりを見つめた。
その視線は、さとりの顔ではなく、その胸元の第三の目を見つめている。
瞼を閉ざしてしまった、第三の目を。
「これは――きっと、罰なんです」
さとりは、その目を隠すように手で覆って、そう答えた。
「視るだけで、何も理解していなかった、私への――」
ああ――そうだ。自分は何も理解などしていなかったのだ、とさとりは悟る。
全てを見通したつもりになっていて、結局は何も見えていなかったのだ。
火焔猫燐が、その想いで己も、大切なものも傷つけようとしていたことも。
霊烏路空が、親友の想いの意味を理解できないままに、無邪気に笑っていたことも。
見通してはいたけれど、理解してはいなかったのだ。
ただ《心》の形を視ているだけで、自分は決して触れようとはしなかったのだ。
いつだって遠巻きに眺めているだけで、自分は誰の心にも近付こうとしなかった。
――誰からも好かれない恐怖の目。
自分を拒絶したのは、本当に周りの世界だっただろうか?
本当は、自分自身こそが――全てを遠ざけていたのではないだろうか?
そう、きっと、こいしのことさえも――。
『おねえちゃん』
不意に、脳裏に甦る、妹の声。
『おねえちゃんのこと、だいすきだよ』
妹はそう言って、笑っていた。
――鮮血にまみれて、笑っていた。
「あ――――」
さとりは愕然と、凍えたように震えた声を、虚空に発した。
呼吸が止まった。心臓だけが痛いほどに打ち鳴らされて、脳髄にその鼓動が響き渡る。
思い出した。
思い出してしまった。
あのときのこと。こいしの姿が見えなくなった――その瞬間のこと。
こいしは、嫌われることを怖れて、心を閉ざした。
だから自分は、こいしの閉ざされた心を癒すために、この地底に逃れてきて。
こいしとふたり、地霊殿で暮らすと決めたときに、誓ったのだ。
世界中のあらゆる拒絶から、この子を守るのだと。
誰がこいしを嫌っても、自分だけはこいしを肯定し、好きで居続けるのだと――。
『駄目――』
だから。
『こいし――駄目』
こいしが、消えてしまったのは。
『――駄目えええええッ!!』
自分が、こいしを、拒絶したからだ。
たったひとりだけ、この世界で古明地こいしを肯定しようとした、古明地さとりが。
あの瞬間。ひしゃげた命を投げ捨てて、鮮血にまみれて笑ったこいしに――恐怖したから。
こいしのいびつな想いを、狂気のような恋し心を、さとりが否定したから。
唯一の拠り所さえも失って――古明地こいしは、姿を消した。
この世界の全てから拒絶されて、無意識の孤独へ沈んでしまったのだ。
古明地さとりが、こいしを孤独にしたのだ。
彼女の最後の絆を、彼女の伸ばした手を、振り払ったのだ――。
「さとり? おい、さとり、大丈夫かい!?」
髪を掻きむしって震えたさとりの肩を、勇儀が強く揺さぶる。
その手の感触すら不確かになっていく、勇儀の存在すらも平板な闇に沈んでいく。
今度こそそれは、絶対的な孤独だ。
誰からも、自分からすらも、古明地さとりという存在は理解されない。
こんな存在は――最早、誰にも必要とされていない――。
ただひとり、妹すら、守ることが出来ずに。自分から、その手を振り払って。
そのことすらも忘れて、妹の絶望に目を向けすらせず、安穏と生きてきた。
なんという罪だ。なんという傲慢だ。なんという――醜悪さだ。
そんな存在に、何の意味がある。
滅べ。
消えてしまえ、古明地さとり。
誰からも好かれない、いや、誰からも愛される資格など無い。
自分が、こいしの心を殺したのだ。
ならば、自分も死ねばいい。
妹と同じ、完全なる拒絶という絶望の底で、のたうち回って死ね。
死んでしまえ――。
「さとり――――」
勇儀の声が、すっと遠ざかった。
さとりの視界が、焦点を失い、全てが闇に閉ざされていく。
もう、何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。何も――。
そして、さとりの目から光が消えた。
あとにはただ、物言わぬ少女の抜け殻だけが、その場に前のめりに倒れ込むだけだった。
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Comment
迫力の筆致、最後まで一気に拝読しました。
人間が急に光を失ったら、確かにこのくらい絶望するでしょうね。しかし本当に恐ろしいのは、「覚」という種族にとってここまで主要な感覚器官である第三の目を自発的に閉ざしてしまったこいしの狂気でしょう。続きを瞑目して待ちたいと思います。
人間が急に光を失ったら、確かにこのくらい絶望するでしょうね。しかし本当に恐ろしいのは、「覚」という種族にとってここまで主要な感覚器官である第三の目を自発的に閉ざしてしまったこいしの狂気でしょう。続きを瞑目して待ちたいと思います。
Posted by: 貧乏蟷螂H |at: 2010/05/15 12:48 AM
真の絶望を垣間見ました。
Posted by: ハムビー |at: 2010/05/15 1:23 AM
一度ニコ生を捕捉して後半の辺りをフライングで読ませてもらいましたが、やっぱりこう一気に読めると感想が違ってきますね……文章書きはその「一気に読める状態」を「少しずつ」書いていくんだよなぁ……やっぱりすげぇ特殊技能。
Posted by: くらん |at: 2010/05/15 4:28 AM
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