りん×くう! 9/古明地さとり
2010.03.25 Thursday | category:東方SS(お燐×おくう)
『お前さんたちが、ここに暮らそうって妖怪かい?』
その日、地霊殿を訪れたのは、額に赤い角を生やした鬼だった。
星熊勇儀と名乗ったその鬼は、酒で満たされた杯を手にしたまま、さとりを見下ろす。
『ええ、そうです』
『そうかい。もうここは棄てられた場所だ、誰のもんでもない。ここにまだ残ってる奴らがいいってんなら、好きにするといい』
杯を傾けて、勇儀は酒臭い息を吐いた。さとりは第三の目を細める。
――どうやらこの鬼、こちらに対して敵意は無さそうだ。言葉以上のものは、さとりの目にも読み取れない。鬼というのはそういう生き物か。嘘をつかない、隠し事をしない。
ただ、この鬼の考えている計画が、さとりには見えた。
『貴女は――この地底に、街を作ろうと?』
『ん? 誰かから聞いたのかい?』
『いえ――』
さとりが第三の目を撫でると、勇儀はそれに眉を寄せて――『ああ』と頷いた。
『お前さん――』
『古明地さとり、と言います』
『――なるほど、《覚》か』
『ええ』
覚。心を読む妖怪。なるほどねえ、と勇儀は唸り、杯をぐっと空にする。
『お前さんも、呑むかい?』
『……結構です』
『そうかい』
差し出した杯を残念そうに引っ込めて、勇儀はひとつ肩を竦めた。
『お前さんも、地上から逃れてきたクチかい』
『……ええ、そうです。――地上で忌まれた妖怪を受け入れようと?』
『あんまり読まないでくれないかねえ。なんかむずがゆいよ』
苦笑して、勇儀はひとつ肩を竦めた。
『地上は、妖怪と人間の共存関係が崩れ始めている。人間たちが分不相応に力をつけてきたせいだ。個々は弱くとも、集団の敵意が向けられちゃあ、私ら妖怪だってただじゃ済まない。そして人間はそのことを知りつつある。――自分たちがいずれ、妖怪を駆逐することすら出来るってね』
ひとつ嘆息し、勇儀は杯に新たな酒を注いで飲み干した。
『遠からず、忌まれて地上に居場所を失う妖怪たちが大勢出てくるはずだ。そういう奴らのために、新しい居場所を作ってやりたいんだよ。この地底にね』
その内心に目を細めてみたが、そこにはどんな打算も見当たらなかった。
この鬼は純粋に、自分たちと同じように地上から逃れてきた妖怪たちのために、何かをしてやりたいと――そう考えている。
どんな打算も無く、見返りも求めず。
そのことに、さとりは軽く目を伏せて、小さく息をついた。
『容易いことではないでしょう』
『しかし、私ら鬼には、そんな連中でもまとめていけるだけの力はある』
拳を握って、勇儀は言った。それは奢りではない、純粋なる自負だった。
『まあ、そういうわけだ。これからちょいとばかり地底が騒がしいかもしれないが、申し訳ないが見逃しておくれよ。――街が出来たら、お前さんも来ておくれ。歓迎するよ』
『……考えておきます』
それだけを言い残し、鬼は去っていった。その背中を見送り、さとりは思う。
――忌み嫌われた者たちの、居場所を作る。
自分たちもそうだ。地上で忌まれ、この地底に逃れてきた。
心を読む、この目。相手の考えを見透かしてしまうこの目は、皆に怖れられた。
どんな邪な内心も、不埒な考えも、隠し事も見透かされてしまう。
誰からも好かれない恐怖の目。そう呼ばれた。
――そして、だからこそ、妹はその目を閉ざしてしまった。
嫌われることを怖れて。心を読まなければ、誰にも嫌われないだろうと。
だけど、傷つくことを怖れた妹は、結局は目と一緒に、心も閉ざしてしまった。
――居場所を作る。勇儀と名乗った鬼はそう言った。
そんなことが、本当に出来るのだろうか?
自分やこいしが、嫌われることなく、そこに居ることの出来る場所。
そんなものが、作れるというのだろうか――。
『……こいし?』
不意に背後から物音がして、さとりは振り返った。
いつの間にか、背後にこいしが立っていた。ぼんやりとした目で、こちらを見つめている。感情の薄くなった、こいしの顔。言葉を発することも、もう少なくなった。心を閉ざしてしまったこいしは、何かに心を動かすこともなくなってしまった。
いつかは、『おねえちゃん』と無邪気に笑ってくれた、大切な妹。
もう一度、こいしに笑ってほしい。さとりはそう願って、ここに来たのだ。
もう一度こいしが、あんな風に笑ってくれるなら、私は――。
にゃあ、と声がした。足元を見下ろすと、火焔猫がさとりの足元に身をすり寄せていた。
先日拾った、お燐というペット――ではない。別の火焔猫だった。どうやらお燐と空の他にも、あの灼熱地獄に残っていた火焔猫がいたようだ。
さとりがその火焔猫を抱き上げると、不意にこいしの視線が揺らいだ。
こいしは――さとりの抱き上げた火焔猫を、見つめていた。
――まただ。こいしが、何かに興味を示している。
お燐と空を拾ったときもそうだった。こいしは、火焔猫に反応している。
『こいし。……抱いてみる?』
さとりは、抱き上げた火焔猫を、妹へと差し出した。
こいしは、躊躇うようにその火焔猫を見下ろして――おずおずと、手を差し出した。
火焔猫の重みが、さとりの手から、こいしの腕に移る。
おっかなびっくり、こいしは火焔猫を腕に抱いた。こいしのぎこちない抱き方に不満なのか、火焔猫が、みゃあ、と鳴いた。その声に――こいしの表情が、ほんの少し、変わった。
それは、さとりでなければ気付かないほどの微かな変化だったけれど。
ほんの少しだけ、微笑んだように、さとりには見えた。
変わっていける。そう思った。
ここでならきっと、自分とこいしは変わっていける。
こいしの無邪気な笑顔を、取り戻すことができる。
――火焔猫を抱いたこいしの姿に、さとりはそれを確信していた。
そのときは、そう、信じていられたのだ。
そのときは――まだ。
◇
安楽椅子でうつらうつらとしていたさとりは、悲鳴のような声に目を開けた。
「……?」
かぶりを振り、目を擦る。今のは――誰の声だ? お燐、だろうか。
何かあったのだろうか。廊下の方から聞こえてきたような気がしたが――。
「お燐?」
椅子から立ち上がり、さとりは廊下へと出る扉を開け放つ。
――その光景は、すぐに視界に飛び込んできて、
それが意味するものが、さとりには咄嗟には理解できなかった。
乱暴に破かれた服を押さえて、身を縮こまらせた空と、
その前で、呆然と座り込んでいる、お燐。
「お燐? 空? ――何が」
何があった? 誰かに襲われたのか? ――この誰も訪れない地霊殿で、誰に?
さとりは慌てて声をかける。その声に、びくりとお燐が怯えきった顔で振り返った。
――第三の目に、千々に乱れたお燐の思考が流れ込んで、さとりはたたらを踏んだ。
「あ、あたいは、あたいは――ッ」
逃げるように後じさり、そしてお燐は弾かれたように立ち上がると、そのまま走りだす。
玄関を飛び出していくお燐の背中を、さとりは呆然と見送って――それから、座り込んだままうなだれている空に歩み寄った。
「空。……何があったの?」
「うにゅ……」
顔を上げた空は、ただ困惑の表情だけを浮かべてさとりを見上げる。
第三の目を細めれば、空の思考がさとりへと流れ込んできて――そして、さとりは理解した。
「お燐が……?」
こくり、と空は頷いた。
――お燐が、空を襲ったのだ。
空の服を引き裂いて、その肌に唇を這わせて――獣の目で空を見つめ、陶然とその胸元をまさぐるお燐の瞳が、目の前にあるようにさとりにも見えて、さとりは唇を噛む。
「さとりさま……」
弱々しく声をあげた空の髪を撫でながら、さとりは小さく首を振った。
――どうして、こんなことに。
解っていた。お燐が空に向けている好意が、友情以上のものであることは。
そして空が、そういう感情を理解しておらず、お燐の気持ちも解っていないことも。
それを放っておいたのが間違いだったのだろうか?
お燐と空は、自分に拾われる前からの親友だ。お燐が空を好きで、空がそれをよく解っていないのだとしても、それは当人たちの間の問題。さとりとしては、ペットには幸せであってほしいと思うから、お燐と空が好き合うならば、黙って見守るつもりだった。
――まさか、こんなことになるとは思いもしなかった。
しかしそれも言い訳か、とさとりはため息をつく。この間の間欠泉騒ぎもそうだ。自分は少し、このふたりを放っておきすぎたのかもしれない。心が読める自分が、あまり他人の関係に口を出すのは望ましくないという建前を言い訳に――。
「……うにゅ」
はだけられた上半身をマントで隠させると、空は悲しげに顔を伏せる。空のそんな顔を見たのは初めてのことで、さとりは何と声をかけたらいいのか解らなかった。
ただそれは――乱暴されたこと、それ自体に対する悲しみではない。
第三の目で見透かした空の心にあったのは、ただ戸惑いだった。
お燐の行為も、うわごとのように囁かれた「好き」という言葉の意味も、空は解っていないのだ。ただ、お燐がいつもと違う、怖い顔をして自分を組み伏せた、空はそのことに怯えて、
そして、自分が怖がったことで、お燐を傷つけてしまった。
空はそのことを、心配していたのだ。
ぐるぐると、空は考え続けている。お燐はどうしてしまったのか。自分が何か悪いことをしたのだろうか。自分はお燐に嫌われてしまったのだろうか。お燐のすることを怖がったのがいけなかったのだろうか――。
「……空」
「うにゅ?」
その髪を撫でて、さとりは目を細めた。
「大丈夫。……私が、お燐を連れて戻るから」
「おりん……」
「だから、その服は着替えて、向こうで待っていて。ね?」
さとりがそう言い含めると、空はこくんと頷いた。
――普段、この子たちに自分は何をしてやれていただろう、とさとりは思う。
仕事を与え、任せ、――それきりにしてばかりいた。
先日の間欠泉騒ぎで、空のことをお燐が自分に相談しなかったのも、結局のところ、自分は主として、本当の意味で信頼されてはいなかったのだ。
ならば、せめて今は、主らしいことをしなければいけない。
お燐だって、こんな展開を望んでいたはずはないのだ。
今まで通り、ふたりには笑っていてほしいのだ。さとりだって。
空の背中をぽんと叩き、さとりは立ち上がる。お燐はどこへ向かっただろう。旧都か、あるいはその先――地上だろうか?
「じゃあ――行ってくるから」
座り込んだままの空に声をかけ、さとりは屋敷の外に足を踏み出す。
頭上を振り仰げば、ただ地底の仄暗い闇があるばかりだ。
見つけられるだろうか。妹の姿すら見つけられない自分が、逃げ出したお燐を。
――いや、自虐するのは後からでいい。今は、お燐を探すことだ。
さとりは走りだす。――遠い、旧都の灯りの方を目指して。
◇
いつか、こいしの寝顔を見つめた夜。
あどけないその横顔に触れて、いとおしいその名前を囁く。
――こいし。
美しいその三文字を口にするだけで、ほうっ、と胸の奥があたたかくなる。
それがたぶん、古明地さとりにとっての幸せというものだった。
『ん……』
こいしがむずがり、寝返りを打つ。
起こさぬよう、そっと毛布を掛け直して、さとりはそれから、第三の目を細めた。
――けれどやはり、こいしの心は蜃気楼のように茫漠として、読み取れない。
あれからずっとそうだ。閉ざされてしまったこいしの心は、自分の第三の目でも読み取れなくなってしまった。
昔は、互いに何を考えていても、その目で通じ合っていたのに。
こいしが好き、と考えれば。
お姉ちゃんが好き、とこいしが応えてくれた。
誰にも聞こえない、第三の目での睦言。
――どうしてそれを、こいしは拒むようになってしまったのだろう。
にゃあ、とさとりの足元で火焔猫が鳴いた。お燐とは別の、あの火焔猫だ。
さとりはその火焔猫を抱き上げ、毛並みを撫でた。火焔猫は気持ちよさそうに目を細めた。
『あなたは……こいしのペットになってくれない?』
さとりはそう、火焔猫に囁きかける。
『私の妹。可愛いこの子のペットに――』
みゃあ、と火焔猫が鳴いた。それは肯定の意思表示だった。
さとりは微笑んで、こいしの枕元に火焔猫を下ろす。
火焔猫はその場に丸まって、こいしに寄り添うように瞼を閉じた。
それを見つめて、さとりは微笑む。
少しずつでいい。こういう触れ合いで、こいしの心を溶かしていければ――。
◇
旧地獄街道は今日も活気に満ちて、雑多な喧噪が満ちあふれていた。
さとりはその中を、第三の目を閉ざして歩く。そうしているとさとりは、多くの妖怪の中に埋もれる小さな少女でしかない。
雑踏は苦手だ。個々の思念自体は、目を開いていてもよほど強くなければ勝手に流れ込んではない。しかしそれが集合体となって不意に押し寄せてくることがある。ある意識が伝播して、暴力的な意識の波になってさとりの心に襲いかかる――そういうことが、雑踏の中ではたまに起こる。さとりが旧都から離れた地霊殿に居を構え続けているのは、それも理由のひとつではあった。
駆ける者、ゆっくり歩く者、立ち止まり店先に目を留める者、それぞれが思い思いに行き交う旧地獄街道。星熊勇儀が作った地底の楽園。
誰もが楽しげに、笑いながら行き交っている。
――不意に、取り残されたような気分になった。
いや、自分はずっと取り残されているのだろう。
旧都が発展する前から、あの地霊殿に住み着き、そして旧都の興隆を傍目に、あの場所に留まり続けてきた。封じられた怨霊の管理は勇儀から頼まれた仕事だったが、それを引き受けたのも結局はあそこに居座るための口実だった。
そうやって、自分はずっと、あの地底の片隅に取り残されて――。
雑踏の中で、だけど自分はひとりだ。
さとりは立ちすくんで、闇に包まれた頭上を見上げる。
旧都の喧噪に囲まれて、雑踏の中に身を置いて、けれど古明地さとりは孤独だった。
知った顔は無い。通りすがる全ては自分と関わらない記号でしかない。
こうして佇んでいるだけならば、誰もさとりを意識しない。
――こいしは、常にこんな気持ちでいるのだろうか?
すれ違う妖怪たちの姿に目を細めながら、さとりは思う。
無意識に身を置いて、誰にも気付かれない妹は、
大勢に囲まれていても、きっと絶対的に孤独だ。
――どうして、そんな孤独を、妹は選んだのだろう?
自分は、どうしてそんな孤独を、妹に選ばせてしまったのだろう――。
「お、さとりちゃんじゃないか。会合でもないのにこっちに来るとは珍しいね」
不意に声をかけられ、さとりは振り向いた。
道端の屋台、その暖簾の向こうから、蕎麦屋の狂骨が顔を出して笑っていた。
「ああ――どうも」
さとりはぺこりと頭を下げて、それから小さな違和感を覚える。
そういえば、この狂骨と最近、何か大事な話をしたような気がする。
けれどその話の内容が何だったのかも、記憶に霞がかかって思い出せなかった。
「食べていくかい?」
「いえ……すみません、お燐を見ませんでしたか」
「ん? お燐ちゃんかい?」
ふむ、と狂骨は骨を鳴らして首を傾げた。
「ああ――そういやさっき、猫が一匹駆けてったねえ。お燐ちゃんだったのかね、あれ」
「どちらへ?」
「向こうの――そうさね、縦穴の方に向かってたが。どうかしたのかい?」
縦穴。お燐は、地上に向かったのか。
「すみません、ちょっと野暮用でして。――ありがとうございました」
「おう、今度は食べに来ておくれよ」
カラカラと骨を鳴らして狂骨は笑う。さとりはぺこりと頭を下げて、縦穴の方へ足を速めた。
旧地獄街道の終わりは、そのまま旧都の終わりでもある。
その先は細く狭く入り組んだ地底の道。その一本は、地上へ通じる縦穴へ繋がっている。
旧都の灯りを通り抜け、さとりはそちらへ足を向けていた。
縦穴の方へ自ら足を向けるなど、地底に来て以来かもしれない。
追われた地上に戻るなどという考えは、とっくに失っていた。
――地底の闇に慣れすぎた今の自分は、地上の光の眩しさに耐えられるのだろうか?
そしてお燐は……地上に逃げ場を求めたのだろうか。
どこへ行こうというのだろう。お燐に、地霊殿以外の居場所など、あるのだろうか。
……いや、それは自分の傲慢か、とさとりは首を振る。お燐はいつもあちこち出歩いているし、我が家以外に居心地のいい場所のひとつやふたつ、きっと持っているだろう。
それでも、――それでも。
お燐が、空を置いてどこかへ消えてしまうことだけは、ないはずだ。
だから、見つかるだろうという予感はあって。
そして、予感は的中する。
「……お燐」
縦穴の下、誰が架けたかも定かでない、細い川に架かる橋。
その欄干にもたれ、地上の光を見上げる、火焔猫燐の姿があった。
欄干に手をかけ、さとりは呼びかける。
お燐は振り返らない。気付いていないはずは無い。だがお燐は、地上の光を見上げたまま。
「お燐――」
さとりは声を高くあげて、そして第三の目を開いた。
乱れたお燐の思考が流れ込んできて、さとりは小さく眉を寄せる。後悔と自己嫌悪と、絶望と諦念と、葛藤と――不定形の心はただ、ひどく寂しげな塊となって、
「――止めてください、さとり様」
振り向かないまま、お燐はゆっくりと首を振った。
「あたいの心――読まないで、ください」
震える声に、さとりは首を振って、第三の目を一度閉じる。流れ込む思考が止まる。そのことに、さとりは小さく安堵の息をついて、
「お燐」
三度目の呼びかけに、お燐は振り返った。
お燐は――笑っていた。
顔は笑顔の形に歪んでいる。けれどそれは、あまりにも、絶望的な笑み。
ただ――笑み以外の表情を失ったために生まれた、何の感情も伴わない、機械的な笑み。
「駄目なんです、あたい、もう」
ゆるゆると首を振って、お燐は目元を覆う。
「あたい、もう、おくうを――おくうの……」
火焔猫燐は、霊烏路空に恋をしてしまった。
それは間違いだったのだろうか、とさとりは目を細める。
――誰かを好きになることが、間違いだったなんてことが。
親友同士、誰よりも分かり合っていたふたりが――。
「……それでも、お燐」
悲しげな、寂しげな空の顔を思い出して、さとりは口を開いた。
主として、ペットと交わした約束は、果たさなければいけない。
お燐を、空のところに連れて戻るのだ。
「空は、貴方のことを」
「だからッ――」
さとりの言葉を遮るように、お燐は叫んだ。血を吐くような叫びだった。
「だから、あたいは――おくうの、そばには、戻れないんです」
「お燐……」
「あたい、このままじゃ――あたいが、おくうを、壊しちゃう、傷つけちゃうから」
自嘲するように、お燐はまた痛々しい笑みを浮かべた。
さとりは目を細めて、首を振る。横に振る。
「空は、そんなに弱い、脆い子じゃない。――お燐、貴方だって本当は」
第三の目を見開く。伝わってくる、どうしようもなく痛切な、お燐の願い。
空のそばにいたい。ずっと空を守っていきたいという願いが、確かにある。
それが、さとりの目には見える――。
「読むなああああああああああああッ!!」
お燐が吠えた。その足が橋を蹴って、お燐はさとりに飛びかかった。
さとりの胸元に開く第三の目に、お燐は手を伸ばす。
咄嗟に身を翻したさとりに、のしかかるようにお燐は覆い被さり、
「さとり様に何が解るんです! あたいの、あたいの何がッ――」
さとりの細い首に、お燐の手がかかった。
爪が白い肌に食い込んで、赤い線を一筋、描く。
「お、燐――」
息苦しさの中、見上げたお燐の顔から――ぽたり、と雫が落ちた。
ひどく冷たいその雫に、さとりは息を飲んで、
「そんな目で、あたいの気持ちが、あたいの心が全部解ってたまるかぁっ! ――あたいの心はあたいのもんだっ! あたいの気持ちも、おくうの気持ちも、さとり様なんかに決めさせるもんか――ッ」
脳髄を直接殴られたような衝撃に、さとりは呼吸を忘れた。
叩きつけられたお燐の叫びが、頭の中で幾度となく木霊する。
第三の目に映る心の色が――薄れていく。
見えない。心が……目の前にいるお燐の心が、見えない――。
「……すみ、ません」
さとりの首から手を放して、お燐は半ば呆然と、そう呟いた。
のしかかる体重が消えて、だけれどさとりは起きあがれなかった。
地底の闇を見上げたまま、死体のようにその場に横たわっていた。
「おくうに……ごめんって、伝えて、ください」
それだけを言い残して、お燐の姿は視界から消えた。足音が遠ざかっていく。
起きあがることも、追いかけることも出来ないまま。
「私、は――」
どうしてだろう。
何も見えない。
目は見えているのに。
何も――何も見えない。
真っ暗だ。
何もかも――真っ暗だ。
さとりは、虚空に手を伸ばした。
自分の手は、そのふたつの目にはっきりと映っているのに。
――さとりの視界は、第三の視界はどこまでも、闇に包まれたままだった。
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