りん×くう! 5/古明地さとり
2010.02.22 Monday | category:東方SS(お燐×おくう)
新しく居を構えることにしたのは、うち捨てられた地獄の片隅だった。
僅かな炎だけが、くすぶるように燃え続ける灼熱地獄。その上に佇むその建物は、かつては灼熱地獄に送られた亡者たちを収監する施設だったらしい。
『こいし』
その建物を見上げながら、さとりは手を引く妹を振り返った。
妹は虚ろな顔で、言葉を発することもなく、ゆっくりとこちらを見上げた。
その表情に、かつてそこにあった朗らかな、無垢な笑顔はない。
――自分たち姉妹は、その力が故に、忌まれ、疎まれ、嫌われた。
そのことに妹は、何度も深く傷ついて――笑うことを忘れてしまった。
だけどここには、妹を傷つける者はいない。
うち捨てられた地獄の片隅で、自分と妹と、ふたりきり。
寄り添って生きていけば、きっと妹はまた、昔のように笑ってくれるはずだ。
そのために、さとりは地上を捨てて、この地底に流れてきたのだ。
『ここが、私たちの新しい家よ、こいし』
その建物を振り仰いで、さとりは言った。
こいしの目は、ただガラス玉のように何の感情も映さず、建物を静かに見つめている。
『今日から、ここで私と、ふたりで暮らすのよ』
精一杯に微笑みかけて、さとりはこいしの手をきつく握る。
弱々しく握り返してくる、こいしの細い指。
その感触こそが、今のさとりの守るべきものなのだ。
建物の中は、ふたりで暮らすには少々広かった。
窓は割れ、埃が積もり、壁や床は色褪せている。それでもまだ、掃除をして修繕すれば暮らしていく分には不自由しなさそうだった。
『ほら、こいし。掃除すれば、きっと立派な家になるわよ』
そう声をかけても、こいしはやはり返事もせず、ただ俯いたまま。
ため息を噛み殺して、さとりは廊下を抜け、突き当たりの広間から中庭を除く。
中庭の片隅に、地下へ続く階段があった。――あそこが、灼熱地獄への入り口か。
地獄のスリム化で、切り捨てられた灼熱地獄。今も僅かな炎が燻っているらしいそこに入ってみようと思ったのは、ただの思いつきだった。
『下りてみましょう、こいし』
妹にそう声をかける。返事はない。構わず、さとりはこいしの手を引いて、階段を下りた。
暗い階段を、ゆっくりと下りると――ほどなく、広々とした寂れた空間が広がった。建物の下、広い空洞になったその空間は、かつては一面が灼熱の炎に覆われていたのだろうが、今は片隅に僅かな炎が、悪あがきのように揺らめいているだけだった。
寂しい場所だ、とさとりは思う。
けれどそれも、逃げてきた自分たちにはお似合いなのかもしれない――。
『……あら?』
そんな、炎を失った灼熱地獄の片隅に、生きるものの気配があることに、さとりは気付いた。
視線を向ければ、黒い小さな影がふたつ、温め合うように身を寄せ合っている。
――近付いてみると、それは一匹の猫と、一羽の鴉だった。
灼熱地獄に住み、亡者の屍肉を喰らうという妖怪、火焔猫と地獄鴉。おそらくはそれだろう。一匹と一羽は、すっかり弱っているようで、近付いてきたさとりたちから逃げるでもなく、ただ猫の方が顔を上げて、――にゃあ、とすがるように鳴いた。
『……あ』
そのとき、さとりの背後から声がした。
驚いてさとりが振り向くと、ずっと俯いたままだったこいしが、顔を上げていた。
ガラス玉のように何も映さなかったその瞳が、確かな焦点を結んでいた。
その視線の先にあるのは、寄り添う猫と鴉。
『こいし……?』
握っていた手を離して、こいしはゆっくりと、一匹と一羽に歩み寄った。
その場にしゃがみ込んで、火焔猫に手をかざす。
――にゃあ。
火焔猫がまた鳴いて、こいしの指先を舐めた。
こいしは驚いたように、自分の指先を見つめた。
その姿に、さとりは。
『……弱っているようね。何か、食べさせてあげましょう』
こいしが、この地底に来てから初めて、自分から何かをしようとした。
感情らしいものを、見せてくれた。
それだけで、ここに来ただけの甲斐はあったと、そう思った。
こいしの傍らにしゃがみ込んで、猫と鴉を抱き上げる。ぐったりとした一匹と一羽の重さは、これからこいしと暮らしていく生活の、始まりを告げる重さだった。
◇
お燐がくれたゆで卵を、安楽椅子で黙々と食べながら、さとりはほぅ、と息を吐き出す。
膝の上に広げた本に視線を落としてみたが、内容はもう頭に入ってこなかった。
最後の一口を飲みこんで、剥いた殻を片付け、本を閉じる。立ち上がるとさとりは、窓の向こう、中庭の方を見やった。
中庭に、仲睦まじく寄り添う、ペットの姿がある。
火焔猫燐と、霊烏路空。ふたりは身を寄せ合って、幸せそうにゆで卵を頬張っていた。
――目を閉じると、いつかこの屋敷にやって来たときのことが浮かぶ。
あのとき自分は、炎の消えかけた灼熱地獄の片隅で、お燐と空を拾ったのだ。
切り捨てられた地獄の片隅で、喰らう屍肉を失って、飢えて弱っていた火焔猫と地獄鴉。それにご飯をあげて、そのまま自分たちのペットにした。
ふたりとも人の形をとれる妖怪だったのには驚いたけれど、どちらも自分によく懐いて、そしてこの地霊殿で自分が与えた仕事をきちんとこなしてくれた。
それから、飼うペットも増えて、ずっとこの地底の片隅で、自分たちは穏やかに生きていた。
――そのはずだった。
『こいしさまは? いないの?』
空の問いかけが甦り、さとりは胸の前でぎゅっと手を握りしめる。
もちろん、空に他意がないことなど解っている。空は純粋で、無知で、無邪気だ。その言葉はただの純粋な疑問で、そこに悪意など介在しないことは解りきっている。
だから、その言葉に痛みを覚えるのは、ただ自分の罪の証でしかないのだ。
――思い出す。あのとき、お燐と空を拾ったとき。
こいしは、何者への興味も失っていたはずのこいしは、お燐と空の姿に表情を変えて。
引かれるままだった自分の手を離して、触れようとしたのだ。
そう、そのとき自分は思ったはずだった。
ここでなら、こいしはまた笑ってくれるはずだ、と。
誰からも嫌われて、心を閉ざしてしまった妹。
嫌われることを受け入れてしまえなかった、優しい妹は。
この場所での新しい暮らしで、笑顔を取り戻してくれるはずだった。
自分が、妹の笑顔をここで取り戻させる、――そのはずだった。
どうしてだろう?
どうして、こんな風になってしまったのだろう?
どうして自分は、こいしのことを――。
『参ったなぁ……お姉ちゃんに見つかっちゃうなんて』
そう言って、こいしは自分を見つめた。
ついこの前のことだ。無意識に身を置いて、さとりにすらその姿を見せなくなったこいしが、その姿を現していたのを、自分は見つけた。
もちろん、その姿はまた見えなくなってしまったのだけれど――。
こいしはずっと隠れている。無意識の中で、誰にも姿を見せることなく、認識という網の外をふらふらと歩き回っている。
今も、あるいはこいしは、この地霊殿の中にいるのかもしれない。
さとりのすぐそばを、歩いているのかもしれない。
けれど、それをさとりは認識できないから――こいしを、見つけられない。
――あのとき、こいしはどうして姿を現していたのだろう?
不意に、そんな疑問が浮かんだ。
そう、こいしは確かに姿を見せていた。――その場にいた誰かに、言葉をかけていた。
『またね、お姉ちゃん。ばいばい、嫌われ者の誰かさん』
こいしはそう言っていた。その場にいた誰かに向けて、そう言った。
それは一体、誰だっただろう?
あのとき、こいしが姿を見せていた相手。
――考えてみたけれど、何故かどうしても、その姿が思い出せなかった。
そこだけ記憶に霞がかかったように、その誰かの姿が薄れる。
あれは一体、誰だったのだろう――。
――カラン。
思考を遮ったのは、来客を告げるベルの音だった。
さとりは振り返る。この地霊殿に来客とは珍しい。つい数日前にも人間の巫女がやって来て、勝手に空を懲らしめて帰っていったが、こんな短期間に来客が何度も――。
何度も?
そんなに頻繁に、地霊殿に来客があっただろうか。
「……どうぞ」
聞こえていた足音が、リビングの扉の前で止まった。さとりは振り向いて声を掛ける。
ゆっくりと扉が押し開き、そこに現れた姿に、ああ、とさとりは心の中で頷いた。
「お邪魔するよ」
無造作に伸ばした金髪と、額に屹立する赤い角。大柄なその姿は、この地底の中心、旧都の統率者である鬼。語られる怪力乱神、星熊勇儀だった。
――ああ、そうだ。彼女だ。勇儀が少し前、この地霊殿を訪れていたのだ。
けれど、それは何のためだっただろう?
確か、そのとき勇儀の傍らには、もうひとり誰かが居た気がする。
それが誰だったのかが、やはり記憶に霞がかかって、思い出せない――。
「勇儀さんですか。――旧都で何かありましたか?」
そんな疑念はとりあえず思考の隅に置いて、さとりは勇儀に問い返す。
瞬間、勇儀の心に微かな失望と諦観が浮かんだのが、さとりの第三の目に映った。
「いや――大した用件じゃないんだ」
勇儀はゆっくりと首を振り、ひどく力ない笑みを浮かべて、さとりを見つめた。
そんな勇儀の表情に、さとりは目を細める。――彼女は、こんな顔をする鬼だっただろうか。
星熊勇儀とは、常に豪放磊落として、楽しげに酒を呑みながら笑っている、そんな存在ではなかっただろうか?
「なあ――さとり」
けれど、今の勇儀はひどく弱々しく、すがるように言葉を重ねる。
「パルスィを、知らないかい」
――パルスィ?
それはいったい――誰だっただろう?
記憶を手繰ってみるが、その名前に心当たりはなかった。
ただ、何かが思考に引っかかっている気はした。
何かを忘れてしまっているような、小さな違和感――。
「いいえ……存じ上げませんが。ひと探しなら、お燐に訊ねましょうか?」
問い返しつつ、さとりは第三の目を細める。
勇儀の心には、はっきりとした失望と、どうして、という疑念が渦巻いていた。
「そうかい……いや、済まないね。何でもないんだ、忘れてくれ」
勇儀はゆるゆると首を振って、手にしていた杯をぐっと傾けた。
普段なら豪快なその仕草も、今はどこか、自棄になっているようにしか見えない。
――パルスィ、という名前。それが勇儀の心の、大きな部分を占めているのが見える。
この鬼に、それほどまでに心を占有させる存在がいたのか、とさとりは軽く驚いて。
また何か、思考に違和感を覚えた。
――パルスィ。パルスィ? ……記憶にない。ない、はずだ。
「済まんね、それだけなんだ。お邪魔したよ」
勇儀はため息を噛み殺すようにして、踵を返した。向けられた背中に、さとりは目を細め、
「……勇儀さん」
立ち去ろうとした勇儀に、そう声をかけていた。
勇儀が足を止め、ゆっくりと振り返る。その顔に浮かぶのは、すがるような表情。
旧都の統率者、地底で最強の妖怪、星熊勇儀にはあまりにも――似合わない、表情。
――妹を、こいしを知りませんか。
その問いかけは、口の中だけで空回りして、言葉にならずに消えた。
今の勇儀に、それを問いかけることは出来なかった。
勇儀も自分と同じなのだ、とさとりは思う。
何か、大切なものを見失ってしまっている。
それを見つけられなくて、どうすればいいのかも解らなくて――。
けれど、心のどこかで、諦めきれないまま、何かにすがろうとしている。
何に?
自分は、何にすがろうとしていたのだろう?
「すみません。……何でもありません」
首を振ったさとりに、勇儀はただ、無感情に目を細めた。
勇儀に、自分の心が読めるはずもないのに、何もかも見透かされている気がした。
自分の弱さも、卑怯さも、何もかも――。
「……お邪魔したね」
勇儀は再び背を向けて、高下駄を鳴らし、その姿は扉の向こうに消える。
カラン、とベルが、ひどく間抜けに鳴り響いた。
それを見送って――さとりはただ、俯いて呟いた。
「こい、し」
――見失ってしまった、妹の名前を。
自分は、どうすべきなのだろう?
見失ってしまった妹を――どうすればいいのだろう?
答えなど、何度己に問いかけても、出るはずはなかった。
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