りん×くう! 1/火焔猫燐
2010.02.10 Wednesday | category:東方SS(お燐×おくう)
『あんた、じゃないよ。うつほ、だよ』
その少女は、地獄には存在し得ないその表情を浮かべて、そう言った。
笑顔。その顔がそう呼ばれるものであることを、自分は咄嗟に思い出せなかった。
傷が痛み、顔をしかめる。『大丈夫?』と、うつほと名乗った少女は、心配げに背中をさする。その手に身を任せて――目を閉じた。
何かが、記憶の片隅にこびりついている気がした。
それが何だったのか、今の自分には思い出せない。
ただ、この少女の笑顔を見たとき――とても大切なことを、忘れている気がしたのだ。
何を、自分は忘れてしまっているのだろう。
傷とともに疼く、この身体の奥の熱は何だろう。
それが解らない。解らないから、ただ痛む身体を丸めて、じっと耐える。
『――あなたのなまえは?』
不意に、少女はそう問うた。はっと自分は顔を上げた。
こちらを覗きこむようにして、少女は長い黒髪を揺らし、首を傾げた。
『おなまえ、何ていうの?』
無邪気に、――あまりにも無邪気に、少女は、うつほは問いかける。
何なのだろう。この少女は一体、なんなのだろう。
あらゆる苦痛と怨嗟と憎悪が渦巻くこの地獄の底で――彼女はどうして、笑っているのか。
どんな痛みも哀しみも知らないような、幼子のような無邪気な顔をして。
傷ついた火焔猫を手当てし、名前を問うようなことを、するのか。
『あたい……は』
ひりつくような唇を震わせて、自分は呟いていた。
名前。――自分の名前。何だっただろう。思い出せない。
この地獄で、屍肉を喰らい、亡者を火焔に突き落とし、――ただそれだけを繰り返していた。
そんな暮らしに、己の名前を問う者など、いるはずがなかった。
――りぃん、と。
澄んだ音が、脳の奥に響いた。
『――――ッ』
ひどい頭痛がして、頭を抱えて呻く。『うにゅ、いたいの? だいじょぶ?』とうつほはまた、心配そうにこちらを覗きこむ。苦痛を堪えて、顔を上げると、
――だいじょうぶ? いたくない?
目の前にある少女の顔に、何かが重なったような気がした。
その面影はあまりに朧で、水の中の月のように不定型なまま、どんな形も為さずに拡散する。
けれど――けれど、ひとつだけ。
ひとつの言葉だけが、自分の記憶の片隅に、焦げ付いていた。
――りん。
『……りん。火焔猫の、りん』
口にした瞬間、何かがすとんと、胸に落ちてきた気がした。
それは――安堵という感覚だったのかもしれない。
りん。口に馴染んだ、耳に馴染んだ、その響き。
どうして忘れていたのだろう。そうだ――それが自分の名前だ。
『りん? なまえ、りんっていうの?』
繰り返す少女に――うつほに、りんは緩慢に頷き返した。
ひどく眠かった。苦痛に喘ぐ意識は、疲労から睡眠を求めていた。
『じゃあ――おりんだね』
瞼が落ちる。おりん――おりん。歌うようにうつほが口にする響きは、地獄に響く子守唄のように、優しく自分の身体を包んで、
――そこで、意識は途切れた。
◇
天窓から放射される灼熱地獄の熱で、地霊殿の近くはいつも暖かい。
けれどその熱も、離れるに従って薄まっていき、旧都に至る頃には冷たい地底の風が吹くようになる。その寒暖差は何度行き来しても、なかなか慣れるものではない。
「へぷちっ」
殊に、ほとんど地霊殿から出歩いたことのない空ならば尚更だった。
「大丈夫かい? おくう」
「うにゅ……寒い〜」
大げさに身を竦め、空は左手に息を吹きかける。マントの中で首をすくめる親友に、お燐はやれやれと肩を竦めた。確かに普段、あの灼熱地獄の暑さに慣れている空には、冬の旧都の寒さは辛いかもしれない。普段から出歩いているお燐は慣れているからいいが、風邪でも引いたら大変だ。
――いや、空は風邪は引かないだろうけど。
「地上はもっと寒いよ? 雪が降ってるからさ」
「ゆき?」
「ああ――おくうは見たこと無いか」
首を傾げる空に、お燐は目を細める。火焔猫と地獄鴉、同じ地獄に生きる者。今の旧都は地上から追われた者たちが多いけれど、元からこの地獄に住んでいる者には雪は馴染みが無いだろう。
「白くて、ふわふわして、冷たいものだよ。それが頭の上からひらひら降ってくるんだ」
「うにゅ? んー……」
空は目をしばたたかせて、それを想像しようとしているようだったが、イメージが上手く浮かばないようだった。見たことのない者に、雪というものは想像しづらいかもしれない。
「それが地面に積もって、あたり一面が真っ白になるんだよ」
「まっしろ?」
「そう、真っ白。ぜーんぶ真っ白けさ」
ほへー、と感心したように声をあげて、「まっしろけー、まっしろけー♪」と空は調子外れの歌を口ずさむ。そのリズムに合わせて、右手がぶんぶんと揺れた。――物々しい、六角形の棒がはめ込まれたその右手が。
その姿に、お燐は目を細めて――それからひとつ首を振る。
「雪、見たい!」
目を輝かせて言う空に、お燐は大仰に肩を竦めてみせる。
「いいけど、雪が降ってるところは、ここよりもっと寒いよ? 寒がりなおくうは、かちんこちんに凍りついちゃうかもしんないよ?」
「う、うにゅ……」
声を低めてそう言うと、空は尻込みするように呻いた。そんな姿に、お燐は笑う。
――何も変わらない。昔から、空はいつだってそうだ。
驚くほど純粋で、ものを知らなくて、大したこともない何かに大げさに驚いて、目を輝かせて、怯えて――そのたびに、こう言うのだ。
「へ、へーき! ――お燐がいっしょだから、へーきだもん」
その言葉に、不意に泣き出そうになる自分がいることに、お燐は気付いていた。
そんな風に、空が自分を必要としてくれることが。
空が、自分の隣で無邪気に笑っていてくれることが。
――こんなにも、幸せなのだ。
「ん、じゃあ行くよ、おくう」
お燐は右手を差し出して、空の左手を握りしめた。右手は制御棒に塞がれているから、いつもお燐が握りしめるのは、空の左手。右手と左手を、きつくきつく、指を搦めて。
「うにゅ、うんっ」
頷く空の手を引いて、お燐は旧都の街並みの中を歩き出す。
火焔猫と地獄鴉は手を繋いで、妖怪たちのざわめきに満ちた旧地獄街道を歩いていく。
肩を並べるその姿は、どんな風に見えるのだろう――と、お燐は思った。
友人か。種族が違いすぎるから姉妹に見られることは無いだろうけど。
――恋人同士に、見えたりはするだろうか?
「んにゅ?」
隣の空の顔を見つめていると、視線に気付いて空が振り向く。
赤くなった顔を逸らして、なんでもない、と足を速めた。
握りしめた手の感触が、地獄のものとは違う熱を、お燐の胸に伝えていた。
◇
旧都を抜け、誰もいない橋を渡り、地上へ通じる縦穴を上る。
かつては封じられていた縦穴も、数日前の間欠泉騒動――すなわち、ここしばらくずっとお燐を悩ませていた、霊烏路空の問題が一応の解決を見たあの事件をきっかけに、封印は解かれたらしかった。もっとも、地底の妖怪は基本的に地底社会を気に入っているし、地上の妖怪がわざわざ地底に来るような理由もないから、相変わらず行き来はほとんど無いらしい。
実際、縦穴に他の妖怪の姿は無かった。お燐の顔見知りの土蜘蛛の少女、黒谷ヤマメなどはこのあたりでよく遊んでいるらしいが、今日はその姿も見当たらない。
「うにゅ〜……さむい〜」
地上が近付くと、一際冷たい風が吹き抜けてくる。その寒さに顔をしかめて、空は肩を震わせた。「だから寒いって言ったじゃんか」とお燐が言うと、「うにゅうぅ」と情けない声をあげて、空はぎゅっとお燐にしがみついてきた。
「ちょ、おくう!?」
「んー、えへへ、お燐はあったかいね〜」
「こ、こら馬鹿――」
「ばかじゃないよ、うつほだよ」
縦穴の途中、満面の笑みで「ぬくぬく〜」とお燐に抱きつく空。その身体の柔らかさとか、首筋にかかる吐息とか、さらさらとした黒髪の感触とかに、お燐の心臓は激しく脈打つ。
「お、おくう――」
「うにゅ?」
目の前に、触れあいそうなほどの距離に、空の顔がある。
吐息の混ざり合う距離で、空の赤みががった瞳に、お燐は見入ってしまう。
その瞳に映る自分の顔が赤らんで見えるのは――きっと。
「お燐、顔真っ赤だよ? どしたの?」
瞳の色のせいだ、と思おうとしたら、全力で否定されてしまった。
「な、なんでもない、なんでもないって」
ぶんぶんと首を振ると、「んにゅ」と空はひとつ唸り、それから背中のマントを広げて、お燐の身体にかぶせた。ふわり、と黒い布に包まれ、お燐は目をしばたたかせる。
「おくう?」
「お燐もさむいんだよね? これでぬくぬくだよ」
ぴたり、マントの中で身を寄せ合って、空は無邪気に笑う。
その翳りのない笑顔は、陳腐な表現だけれど、地底を照らす太陽のようだとお燐は思った。
「あ、あたいの心配なんていいからさ」
「いいのいいの。えへへ〜、お燐はいつも、あったかいね」
――おりんは、あったかいね。
炎のほとんどを失った、捨てられた灼熱地獄の底で。
ふたり、身を寄せ合って生きていた頃のことが甦った。
地獄が切り捨てられ、僅かな炎だけが残った、灼熱地獄跡で。
喰らう屍肉もなく、生きる意味もなく――ぼんやりと過ごしていた時間に。
ただ、この温もりだけがいつも、傍らにあったのだ。
――うつほも、あったかいよ。
そうだ。あの頃の自分は、おくう、ではなく――うつほ、と。
その名前で、彼女を呼んでいた――。
うつほ。――空。くう。――おくう。
そう呼ぶようになったのは、今の暮らしが始まってから。
古明地さとりという主と、出会ってからだ。
「あ、なんだろあれ、まぶしい……」
頭上を見上げて、空が不意に呟く。お燐も顔をあげて、「ああ」と声に出した。
「あれが地上だよ。地上の光だ。太陽の光――空から降り注ぐ、光だよ」
「そら?」
「そう、空。……おくうの名前と同じ字で書く、頭の上に広がる、真っ青な――」
言いかけて、けれど言葉は途切れてしまう。首を傾げた空に、お燐は首を振った。
そら、というものを、どんな言葉で表現できるだろう。
その青さ、その広さ、その果てしなさを――見たことのない空に伝えるだけの言葉を、お燐は持ち合わせてはいなかった。
「見た方が早いや。ほら、行くよ」
「うんっ」
しがみつかれたまま、お燐は宙を蹴って、空とともに縦穴を飛ぶ。
やがて光は強く、大きくなり、冷たい風が耳元を掠めて、吐息は真っ白になって、
――視界に、まばゆい光が満ちて、お燐は目を細めた。
うにゅう、と空が呻いて、そして――空気が入れ替わる。
淀んだ地底の空気から、澄んだ地上の空気へ。
「……わ、あ」
一面の銀世界だった。
地面も、立ち並ぶ樹木も、遠くに見える山麓も全て、真っ白に染まっていた。
景色に溶けそうな息を吐いて、お燐は空を仰ぐ。蒼天は凍りつくように澄んで、眩しい冬の光を地上に降り注いでいた。
「すごい、すごいすごい、まっしろー!」
はしゃいだ声をあげて、空が駆け出す。あ、とお燐が制止の声をあげようとしたときには、もう遅かった。
ずる、ぼすん。
盛大に足を滑らせて、吹き溜まった雪の中に、空は大の字に倒れ込む。積もっていた雪がぼふんと舞い上がり、人型に雪を凹ませた空の身体に降りつもった。
「お、おくう、大丈夫かい?」
おそるおそる声をかけると、少しの沈黙の後。
「ひゃっこい!」
がばっと、跳ねるように身体を起こして、ぷるぷると顔を振って空は顔についた雪を飛ばす。そして世紀の大発見でもしたかのように、もう一度「ひゃっこい!」と叫んだ。
「お燐、ねえお燐お燐、すごいよ、ひゃっこいよ!」
雪を左の手のひらですくって、空はこちらに差し出してみせる。ふわりとした粉雪は、空の手のひらの上でじわりと溶けて、水滴に変わっていった。
それをきょとんと見下ろして、空は瞬きする。
「……なくなっちゃった」
「溶けちゃったんだよ。こいつは、元々は水なんだ」
「みず? あ、ほんとだ」
手のひらに残った水滴を舐めて、ほへー、と空はまた感心した声をあげる。
「お燐はものしりだね!」
「……それほどでもないって」
むしろ、空がものを知らなさすぎるだけである。
でも、ただの雪景色にもいちいちはしゃいで、雪が溶けたというだけのことにも感心する、そんな空の姿を見るのが、お燐は好きだった。
いつだって、無邪気に笑っている空を見ているのが、自分は一番好きなのだ。
「ゆーきー、ゆきー、まっしろけー、まっしろけー♪」
また調子外れの歌を口ずさんで、空はあたりを駆け回り、ぼふんと雪の上に倒れ込む。
今度は仰向けに倒れた空は、その目に青空を映していた。
「……まぶしい」
「あれが、そらだよ」
その傍らで、お燐ももう一度空を見上げた。
「そら」
「――綺麗なもんだろ?」
「うん」
ぼんやりと声をあげる空の傍らに腰を下ろす。空は身体を起こして、「ひゃっこい……」と情けない声をあげて、お燐にもたれてきた。
その肩を抱いて、「そりゃ、冷たいに決まってるじゃないさ」とお燐は笑った。
白い吐息が混ざる。すぐ近くにある、空の温もり。
――触れてしまいたい、と思う。
貪ってしまいたい、と思う。
だけど――その瞳に映る自分の姿が、いつもそれを諫めるから。
お燐は、お空の黒髪についた雪を払って、その頬に触れた。
「うにゅ」
「おくうは――あったかいよ」
「……ん」
心地よさそうに目を細める空の、安らかな顔。
それを一番近くで見ていられるということ。
きっと自分は、それだけで満足すべきで。それ以上は望むべきではないのだ。
自分自身にそう言い聞かせるように、お燐は胸の中で何度も繰り返した。
――おくうはあたいの、一番の友達。それでいいじゃないさ、と。
◇
ひどく有り体な言葉を使えば。
火焔猫燐は、親友の地獄鴉に――霊烏路空に、恋をしていた。
何もかも、それだけの話でしかないのだった。
BACK|NEXT
⇒ こじたん (11/17)
⇒ 浅木原 (11/16)
⇒ こじたん (11/16)
⇒ 時の番人 (11/14)
⇒ 置き石 (10/14)
⇒ 葉月 (09/19)
⇒ ろっく (05/17)
⇒ 六仁祝 (08/27)
⇒ はまなす (06/20)
⇒ 橘 奏 (08/10)