ゆう×ぱる! 46 / 「星熊勇儀と、水橋パルスィ」
2009.12.17 Thursday | category:東方SS(勇儀×パルスィ)
風が吹いていた。
地上から地底へと吹き抜ける、冷たい風が通り抜けていた。
彼女は目を細めて、遠い遠い光を見上げた。
この場所からずっと見上げていた、遥か彼方、地上の光。
自分を追い立てた、妬ましかったその輝きに、彼女は手を伸ばした。
虚空を掴むだけの指先は、ひどく白い。
透き通るように――いや。
彼女はぎゅっと手を握りしめる。その手の感触を確かめるように。
震える唇が、微かに何か、言葉を紡いだ。
それは、愛おしいひとの名前だった。
けれどその声は、風の音にかき消されて、地底のどこにも届くことはなく。
彼女はただ、そこにいた。ひとりきりで――その橋の上に。
◇
走っていた。
勇儀はただ、旧地獄街道の雑踏の中を、必死に走り続けていた。
その目は、すれ違ういくつもの影を何度も振り返る。
けれど求める姿は見つからず、唇を噛み締めて走り続ける。
履いた下駄のたてる音が、ひどく甲高く耳に響く。
乱れる呼吸と動悸が、それ以上に煩かった。
「パルスィ……!」
叫ぶように、吠えるように、呻くように、勇儀は雑踏の中、その名前を呼ぶ。
振り返る影は無い。足を止める影もない。
旧都のざわめきは色を失って、立ち止まった勇儀の傍らを通り過ぎていく。
その中に、あの金色の髪は、緑の眼は、どこにも無い。
「おい、パルスィを――橋姫のパルスィを見なかったかい!?」
通りがかった顔見知りの妖怪を捕まえて詰問するが、相手はわけがわからないという顔で首を振るだけだった。
すまん、と首を振って、再び勇儀は旧地獄街道を走りだす。
この旧都は、果たしてこんなに広かっただろうか。
パルスィの姿は、この広々とした旧都のどこに消えてしまったのか――。
「姐さん。そんなに急いで、どうしたんだい?」
からからと骨の鳴る音に、勇儀は足を止める。そこに、狂骨の姿があった。
「旦那――」
すがるように駆け寄ると、狂骨は不思議そうに首を傾げた。
「旦那、パルスィを見かけなかったかい」
「……ぱるすぃ?」
勇儀の問いに、訝しげに狂骨は問い返した。
「パルスィだよ。橋姫の――私の嫁の水橋パルスィだ」
何を問い返すことがある。苛立たしく勇儀が言葉を重ねると、狂骨は意外そうに鼻を鳴らす。
「なんだい姐さん、いつのまに所帯なんか持ったんだい?」
「――――」
何を。
狂骨が何を言っているのか、勇儀には理解できない。
「おい、旦那。――冗談だとしたら、ちっと趣味が悪いよ」
「いやいや。姐さんにいい相手がいるなんて初耳だね」
「何を――パルスィだよ、橋姫の水橋パルスィだ、旦那が知らないはずないだろう!?」
身を乗り出した勇儀に、驚いたようにのけぞって、狂骨は首を捻る。
「……誰だい、そのぱるすぃってのは」
ぐらりと、足元が揺らいだ。
地震かと疑ったが、震えているのは勇儀だけだった。
「旦那、あんた――」
「あれ、姐さんじゃん。旦那となにしてるのさ?」
馴染んだ声に、勇儀は振り向く。ヤマメが、キスメの桶を抱えてそこにいた。
――こんにちは、勇儀さん。
ぺこりと頭を下げるキスメと、ヤマメの不思議そうな顔に、勇儀は目を細め。
「ヤマメ、キスメ……なあ、パルスィを見かけなかったかい」
そんなはずはない。
皆が、パルスィのことを忘れてしまったはずがない。
パルスィは昨日まで、確かにここにいたのだ。
勇儀の隣で、微笑んでいたのだ。
それなのに。――それなのに。
「ぱるすぃ……?」
ヤマメは訝しげに目を細め、キスメを覗きこんで「知ってる?」と訊ねた。
キスメは、ゆるゆると首を横に振った。
「ごめん、姐さん。パルスィって、誰だっけ」
それは、趣味の悪い冗談などではないと、勇儀にも解ってしまった。
ヤマメもキスメも、心底から不思議そうに、勇儀を見つめている。
パルスィを友達と呼んだそのふたりが――パルスィを、知らないと言う。
これは何だ? 何かの悪い夢か?
そうであればいいのに――握りしめた拳は、痛みを脳に伝えている。
「パルスィは、パルスィだよ。――水橋パルスィだ。橋姫だよ。ヤマメ、キスメ、お前さんたちの友達じゃないか。うちに遊びにきて、パルスィと仲良くしてくれたじゃないか」
誰か。
誰かこれは、出来の悪い冗談だと言ってくれ。
引っかかった? と笑い飛ばしてくれ。
これが嘘でも、怒らないから。
今だけは、嘘をついていても怒ったりはしないから。
だから――。
「……何の話?」
けれど、現実はどこまでも現実でしかなく。
ヤマメとキスメは、どこか心配そうに勇儀を見つめる。
「姐さん、なんか変だよ。調子でも悪いの?」
労るその言葉は、ヤマメらしい優しさに満ちていた。
一片の曇りもなく、星熊勇儀を心配する言葉だった。
それ故に――あまりにも、残酷だった。
水橋パルスィという少女の記憶は、勇儀以外の誰にも残っていない。
「――――ッ!」
悲鳴のように呻いて、勇儀はその場から駆けだした。
ヤマメと狂骨が声をあげたのが聞こえたが、もう振り向かなかった。
何だこれは。何故だ。何故こんなことになっている?
どうして、どうして――パルスィの記憶が皆から消えなければいけないのだ?
「パルスィ、パルスィっ、――パルスィいいっ!」
叫びながら、勇儀は走る。何事かと足を止める妖怪がいるが、その中に求めた姿はない。
彷徨わせる視線に、作りかけの雛壇が道端に放置されているのが見えた。
それは、数日後に行われるはずだった式で、広場に置かれるはずだった壇だ。
勇儀とパルスィは、そこに上って、生涯を誓い合うはずだったのだ。
残っている。パルスィがここにいて、勇儀と暮らしていくはずだった、その証はあちこちに残っているのに。勇儀の記憶の中に、鮮明すぎるほどに残っているのに。
皆の記憶からは、その存在そのものが消えている。
ただ、水橋パルスィという少女の存在だけが、抜け落ちている。
「はぁっ、はぁっ――パル、スィ」
気付けば、旧地獄街道の端まで辿り着いていた。勇儀は振り返る。旧都のざわめきが、楽しげな笑い声が――地底の楽園の光が、遠くまで広がっている。
視線を旧都の外へ向けた。暗く深い闇に沈む道の先は――地上へ続く縦穴。
その下には、あの場所がある。
星熊勇儀が、水橋パルスィと出会い、言葉を交わし、触れあった場所。
いつも彼女はひとりきりでそこにいた。――あの橋の上に。
逡巡は一瞬だった。勇儀は再び走りだす。旧都の外へ。地上へ通じる縦穴の方へ。
そこでまた、彼女が待っている気がしたから。
あの頃のように、ひとりきりで、緑の眼を遠くへと細めて――。
◇
どうして自分は、今までこの世に在り続けたのだろう、と考える。
人を棄て、生きながら橋姫となったのは、その嫉妬の心が故だった。
その嫉妬を晴らしてなお、自分はこの世に在り続けた。
肉体が滅びることもなく、心が嫉妬を忘れることもなく。
手当たり次第に、あらゆるものを妬んで――橋姫は存在し続けた。
何故? 何故そうまでして、妬ましいこの世に執着してきたのか。
今は、そんなことももう分からない。全ては遠い遠い過去の彼方。
だけど、確かなことはひとつだけあった。
それは、自分がこの地底に流れ着いて、ここでひとりきりで過ごしていた理由。
この場所で、遠い光を妬みながら、きっと自分は待っていたのだ。
――彼女のことを。
自分を心の底から愛してくれた――彼女のことを。
その名前を呟いてみる。声は、やはり風の音にかき消される。
だけど、幸せだった。
彼女の顔を、声を、温もりを思い出すだけで、どうしようもなく満たされていた。
もう他に何もいらなかった。だから――だから。
「――パルスィ!」
解っていた。
ここにいたのは。今、またこの場所にひとりきりでいたのは。
待っていたのだ。彼女が、あの頃のように、ここに来るのを。
自分の姿を求めて――ここに来てくれるのを。
これが、最後だから。
「……勇儀」
最愛のひとの名を、確かめるように口にして。
水橋パルスィは、ゆっくりと振り向いた。
――星熊勇儀は、泣き出しそうな笑顔で、そこにいた。
◇
いた。パルスィがいた。確かに、そこに存在していた。
見間違えるはずもない。あの金色の髪、緑の瞳――遠くを見つめる横顔。
何度もここに通った。ここで彼女の横顔を見つめた。
水橋パルスィは、あの頃のように、橋の上で欄干にもたれて、地上の光を見上げていた。
「――パルスィ!」
勇儀は叫んだ。ありったけの声で、最愛の彼女の名前を呼んだ。
そして、パルスィはゆっくりと、こちらを振り向いて。
「……勇儀」
ひどく儚く――今にも消えてしまいそうな笑みを、こちらへと向けた。
「パルスィ――」
彼我の距離は僅かだった。すぐにでも駆け寄って、抱きしめられる距離だった。
その距離をゼロにするために、勇儀は足をただ前に踏み出して、
「勇儀」
静かに、微笑んだまま、パルスィが声を上げた。
勇儀の足が、止まった。
「ありがとう」
笑顔。星熊勇儀が心から愛した、水橋パルスィの優しい笑顔が、そこにあった。
それを見たくて、それを守りたくて、勇儀はずっと、パルスィのそばにいたのだ。
「私のことを、好きになってくれて、――ありがとう」
なのに。
その笑顔が、ひどく遠く、霞む。
まるで蜃気楼のように、伸ばしても手は届かない――。
「勇儀がいたから、私は幸せになれた。勇儀は私に、たくさんの幸せをくれた」
満たされたパルスィの微笑みが、少しずつ、少しずつ、薄らいでいく。
「だから――」
そして、胸元にそっと手を当てて、パルスィは。
「私はもう、何も妬ましくないの」
その言葉の意味を。
いつか、この場所でパルスィが口にしたその言葉の、本当の意味を、勇儀は悟った。
悟ってしまった。
「パル、スィ……まさか、そんな」
愕然と目を見開いたまま、勇儀はかぶりを振る。
そんな馬鹿な。そんな馬鹿な話があるか。
信じたくなかった。信じられるはずもなかった。
――だが、今まで目の前にあった全ての事実が、それを示しているのだ。
橋姫の緑の眼が相手を狂わせるのは、橋姫自身の嫉妬の心が故。
だから勇儀は、パルスィを幸せにしてやらなければと、そう思ったのだ。
パルスィが満たされて、何も妬む必要がなくなれば、緑の眼が他者を狂わせることはない。
そうすれば、パルスィは旧都で生きていける。
自分と一緒に、地底の楽園で生きていけると――そう信じて、勇儀は。
けれど。
橋姫は、嫉妬の心によって生まれた妖怪。
その存在自体が――嫉妬心によって繋ぎ止められていたものだとすれば。
パルスィが幸せになり、何も妬むことが無くなるということは。
橋姫という存在は、その存在の定義を失ってしまう。
つまり。
水橋パルスィは、何かを妬んでいなければ存在することができない妖怪だった。
――それだけの、話だった。
「嘘だ……嘘だといっておくれよ、パルスィ!」
叫んだ。勇儀は恥も外聞も捨てて叫んだ。
幸福になったことで、満たされたことで、パルスィが消えてしまうのだとしたら。
自分のしてきたことは、一体何だというのだ。
星熊勇儀が、水橋パルスィを愛したということそのものが。
それが幸福であればあれあるほど――その幸福そのものが。
パルスィにとっては、死に至る病だったと、そう言うのか。
「私は――私はっ、」
頭を抱え、震えながら叫んだ勇儀に、しかしパルスィは。
「――勇儀」
優しい声に、勇儀は顔を上げる。
パルスィは笑っていた。どこまでも静かに、まっすぐに、笑っていた。
「私は、幸せだから。その幸せは、勇儀がくれたものだから」
胸の奥の温もりを抱きしめるように、そう囁いて。
「――ありがとう、勇儀。私を愛してくれて」
どうして。
どうして、そんな風に笑っていられるのだ。
パルスィの影が、パルスィの気配が、風に流されるように薄らいでいく。
水橋パルスィという存在そのものが――霞んでいくのに。
「馬鹿を言ってるんじゃないよ、パルスィ!」
凍りついた足を、勇儀は一歩、前へ踏み出した。
「これからじゃないか! これから、もっともっと幸せになるんじゃないか!」
一歩、もう一歩。
「結婚するんだよ! 花嫁衣装、出来上がるって言われただろう!? それを着て、式を挙げるんだよ! そうして、私と一緒に暮らすんだ、この旧都で、ずっとずっと!」
パルスィとの距離を、必死に、勇儀は詰めていく。
「その幸せは、これから一生かけて、ふたりで積み重ねてくんだろ、パルスィ!」
だけど。――だけど。
手を伸ばせば届きそうな距離で、勇儀の視線を受け止めて、パルスィは。
否定も肯定もせずに、笑っていた。
――それはもう、パルスィ自身にも、どうすることもできないのだ。
「だったら――だったら、パルスィ!」
何か。何か無いのか。パルスィを、その存在をここに繋ぎ止められるものは。
「そうだ――そうだよ。妬むんだ。私を妬みなよ!」
胸元を叩いて、勇儀は掠れた声で叫んだ。
「パルスィがいなくなったら、私は浮気するよ! パルスィのことを忘れて、勝手に幸せになっちまうよ!? 妬ましいだろう!? だから妬みなよ、私を妬んでおくれよ、パルスィ――」
必死に、絞り出すように、勇儀は叫んだ。
パルスィは――ただ。
「……嘘つくの、本当に、下手なんだから」
笑ったまま、そう言った。
――全身の力が抜けて、勇儀はその場に膝をついた。
嘘つきになってもよかった。パルスィがここにいてくれるなら、嘘ぐらいいくらだってつくつもりだった。
だけど、勇儀は嘘をつけなかった。
生涯、ただパルスィひとりだけを愛し続けるという、あの約束を。
決して破ることはできないほどに――勇儀はパルスィを愛してしまっているのだから。
だからパルスィは消えてしまう。
勇儀がパルスィだけを愛していることを、解っているから。
パルスィにはもう、妬むべきことは、なにひとつ存在しないのだから。
「ぱる……すぃ……パルスィ!」
呆然と膝をついて、見上げたパルスィの顔が。
風に揺れた蝋燭の炎のように――朧に揺らめいて、薄らぐ。
消えていく。
水橋パルスィという存在が――消えていく。
「勇儀」
パルスィが、名前を呼んだ。
勇儀は立ち上がった。
残り数歩の距離に、手を伸ばした。
――パルスィの細い身体は、まだ確かにそこにあった。
それを、勇儀は必死に、その両腕で抱きしめた――。
「愛してる。……ずっと、勇儀だけを、愛してるから」
星熊勇儀の腕の中で。
水橋パルスィの姿が、ゆっくりと、透き通っていって。
「――泣かないで、勇儀」
その指先が、頬に触れた気がした。
緑の眼を細めて、パルスィがとびきりの笑顔を、浮かべた気がした。
次の刹那。
ひときわ強く、地上から冷たい風が吹き抜けた、そのときには。
勇儀の腕の中には、もう何も残っていなかった。
温もりさえも、冷たい風に吹き流されて。
水橋パルスィが存在した証は――どこにも、残されていなかった。
「パル――スィ」
虚空をかき抱いた両腕を見下ろして。
崩れ落ちるようにその場に膝をついて、勇儀は。
「――――――――――――――ッ!!」
その慟哭は、長く永く、地底の風の中にこだまして、消えた。
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