ゆう×ぱる! 41 / 「水橋パルスィの幸福」
2009.12.07 Monday | category:東方SS(勇儀×パルスィ)
夢にも、見たことなどなかった。
いや、自分はずっとそんな幸福に焦がれていたはずだった。だからこそ、妬ましかった。
だけど同時に、そんな幸福は自分に訪れるはずもないと理解していたのだろう。
水橋パルスィという橋姫を、ただ一途に愛してくれる者がいて。
この忌み嫌われた緑の眼を前にしても、変わらず笑いかけてくれる、友達がいる。
そんな、この世にありふれた幸福など、嫉妬の化身である自分には縁のないもの。
どれだけ妬んでも、決して手に入るはずのないものだと、そう思っていた。
嫉妬狂いの緑の眼の怪物。
その眼の輝きが、妬みの炎を灯さぬことなど、あり得ないのだ。
――そう、自分自身で決めつけていた。
だからこそ、自分はずっとひとりきりで、周囲に嫉妬を振りまいていたのだ。
◇
トンテンカン、と大工作業の音が、新居に響いている。
「……手伝わなくて大丈夫?」
「力仕事だ、鬼に任せておきなよ」
天井の穴に板を打ちつけながら、勇儀はパルスィを見下ろして笑った。
そう言われてしまえば、自分に出来ることは何もない。小さくため息をついて、パルスィは椅子に腰を下ろしたまま、ぼんやりと大工作業に精を出す勇儀の姿を見上げた。
オニオンリングを食え〜、と妙な歌を口ずさみながら釘を打つ勇儀の方は楽しそうだった。怪力無双の鬼には、やはり力仕事は性に合っているのだろう。
天井に空いた穴を塞いだり、柱や梁の補強をしたりといった大工作業は、確かにパルスィの出る幕ではない。しかし、ぼんやりと眺めているだけというのも退屈である。
「……妬ましいわね」
そんなことを呟いてみるけれど、やはりその言葉はただ言葉の形を取るだけだ。
――自分の中から、嫉妬という感情が薄れていっている。
胸元に手をあてて、パルスィは目を伏せる。
それが良いことなのかは、よく解らない。自分は今まで何もかもを妬んできた。妬むことこそが自分で、そうでない自分など思い描いたことすらもない。
けれど、確かなことは。
今、胸の奥はほのかにあたたかいということで。
それがきっと、星熊勇儀のくれた幸福なのだ、ということだ。
「勇儀」
「うん?」
ふと呼びかけてしまって、勇儀が手を止めてこちらを見下ろした。
特に何を言おうと思ったわけでもなかった。パルスィはひとつ唸って、「……なんでもない」と呟く。勇儀は目をしばたたかせて、それから照れくさそうに笑った。
「参ったね、パルスィ」
「何よ?」
「――そんな顔見せられたら、作業止めて抱きしめちまいたくなるよ」
金槌を置いて笑った勇儀を、「……馬鹿」とパルスィは睨む。
そんなの、そりゃもちろんパルスィだって望むところではあるのだけど。
――そんなことばかりしていたら、新居の補修はいつまで経っても終わらないのだ。
「仕事しなさいよあんたは、仕事」
「ぬぅ、冷たいねえ」
睨んでやると、渋々といった様子で勇儀は金槌を再び手に取る。
そんな姿に目を細めて、パルスィは付け足すように口にした。
「……終わったら、好きにしていいから」
聞こえないように言ったつもりだったけれど、やっぱり勇儀は耳聡く聞きつけたようだった。
「よっし、全速力で終わらせるかね!」
「最初からそうしなさいよ、馬鹿」
ふん、とパルスィが口を尖らせると、そりゃそうだ、と勇儀は呵々と笑った。
新居に来客があったのは、それからほどなくだった。
ドアをノックする音に、パルスィは思わず小さく身を竦める。結果的に色々と丸く収まったとはいえ、何しろあの狂骨の来訪からまだ昨日の今日なのだ。
――いや、とパルスィは首を振る。怯えることなど何もない。妬むことなど何もないのと同じように、今は勇儀がそばにいてくれるのだから。
「ん? 誰だろうね」
勇儀も手を止める。パルスィはひとつぎゅっと手を握りしめて、それから立ち上がった。
「見に行ってくるわ」
「――ああ、そうだね。よろしく頼むよ」
何気ない風に言ってみせたパルスィに、勇儀は何を思ったのか笑って頷いた。
居間から玄関に出る。ひとつ唾を飲んで、パルスィはその扉をぐっと押し開けて――。
「あ、あんた――パルスィか。や、こんにちは」
――こんにちは。
そこにあった影に、パルスィは目をしばたたかせる。
「こ……こんにちは」
黒谷ヤマメとキスメだった。桶を抱えて屈託なく笑うヤマメと、その腕の中で静かに微笑むキスメの顔を見つめて、パルスィは困惑したままオウム返しに答えた。
ふたりが、我が家に何の用だろう?
「――ええと、勇儀に何か用? それなら、呼んでくるけれど」
用があるとすれば、勇儀の方だろう。そう目星を付けて、パルスィは言葉を続けた。
けれどヤマメとキスメはひとつ顔を見合わせて、それから苦笑し合う。
「いや、別に用ってわけじゃないんだけどさ」
ヤマメの言葉に、パルスィはきょとんと首を傾げた。それなら一体どうして、
――遊びに来たの。
パルスィの疑念に答えるように、キスメが囁くように口にする。
その言葉の意味が、パルスィには咄嗟に理解できなかった。
「……遊び、に?」
「そういうこと。――何そんな、ツチノコでも見つけたみたいな顔してるのよ」
遊びに来た。その言葉の意味を咀嚼していたパルスィを、ヤマメが軽く半眼で睨む。
字面の意味は解る。解るけれど――それは、自分に向けられた言葉なのか?
「勇儀、と?」
「あんたね」
パルスィの呟きに、ヤマメはあきれ果てたという表情で大げさにため息をついてみせた。
「ホントにあんたって友達居なかったのね」
「な……何よ。悪かったわね」
半眼のヤマメの視線にのけぞりつつパルスィが答えると、不意にヤマメはまた笑みを浮かべ。
「じゃあもう一回言うわよ。私らは、あんたのところに、遊びに来たの」
パルスィを指差して、噛んで含めるようにヤマメはそう言った。
「私の、ところに……?」
「そーよ。何か文句でもある?」
そんなことを言われても、パルスィの思考はまだ事態を把握しきれないでいた。
いや、それはとてもシンプルなことのはずなのだけれど。
いきなり目の前に提示された事実は、あまりにも馴染みが無さすぎて、反応しきれないのだ。
「……どうして?」
結局パルスィに返せたのは、そんな間抜けな反応だけ。
その言葉にキスメは苦笑し、ヤマメはもう一度盛大にため息をついてみせた。
「全く――いい? 耳かっぽじってよーく聞きなさい、水橋パルスィ」
ずい、と人差し指をパルスィの眼前に突きつけて、ヤマメは早口に言い放つ。
「あんたはキスメの友達。キスメの友達は私の友達。だからあんたは私の友達で、友達のところに遊びに行くのは、理由なんて無くたって問題ないことなの。おわかり?」
「とも……だち」
相変わらず、それは耳慣れない響きだった。
ヤマメが自分を指して、その四文字を使うということ。
「昨日言ったでしょ。何度も言わせるな、馬鹿」
ふて腐れたようにそう言うヤマメに、キスメが腕の中で微笑んだ。
パルスィは目をしばたたかせながら――友達、という言葉をもう一度噛み締める。
その言葉を最初に自分に向けた、あの地獄鴉の顔が浮かんだ。
不思議な言葉だ、とパルスィは思う。
勇儀に抱きしめられたり、好きだと囁かれるのとは、また違う温もりが。
たったひらがな四文字のその言葉で、ほうっとパルスィの胸の奥に灯るのだ。
――お邪魔じゃなかった、かな。
キスメがふと、少し困り顔でそう首を傾げた。
その釣瓶落としの少女に目を細めて、そしてパルスィは小さく首を振る。
「ううん。……ええと、いらっしゃい」
「お、そうそう、よくできました。それじゃ、お邪魔します」
友達が遊びに来た。そういうときどうすればいいのか、パルスィにはやっぱりよく解らないけれど、とりあえず来客ならいつまでも玄関先で立ち話をしていないで、家の中に招き入れるべきなのだろう。そう思ってふたりを促すと、ヤマメはどこか満足げに頷いてみせた。
――お邪魔します。
ぺこりと頭を下げるキスメに、思わず会釈し返して、それからパルスィは思う。
ふたりとも、どうして自分の緑の眼をまっすぐに見つめながら、あんな風にこちらに向けて笑いかけられるのだろう。勇儀のように、嫉妬の心を持たないわけでもないだろうに。
あるいはそれは、自分の中から嫉妬の心が薄れていることと関わっているのだろうか。
あの狂骨の妻が、自分の目を綺麗だと言ったように――。
「何ぼーっと突っ立ってんのさ?」
ヤマメに声をかけられ、はっとパルスィは顔を上げる。
こちらを見つめる、黒谷ヤマメとキスメの屈託のない笑顔。――友達の、顔。
「……ヤマメ、……キスメ」
「うん?」
「……な、なんでもない」
名前を呟いてみると、なんだか気恥ずかしさが込み上げてふたりの顔がまともに見られない。
けれどそれも全く不快でないということに、パルスィは戸惑いながらも気付いていた。
◇
唐突な来客は、思いがけず家の補修工事を早く終わらせてしまった。
「なんだ姐さん、そういうことなら呼んでくれりゃいいのに。水くさいよ」
弱った梁の補強をしようとしていた勇儀の様子に、ヤマメは糸を出しながらそう言った。土蜘蛛の糸は粘着力が強く強靱で、壁の中などに細かく張り巡らせばそれだけで壁の強度が増すらしい。そういうこともあって、土蜘蛛は旧都の建築関係の仕事に携わっていることが多いのだそうだ。ヤマメもときどきその手伝いをしているらしい。
「……姐さん、こりゃたぶん建て直した方が早いよ、この家」
しかし、いくつか梁と柱を叩いて、ヤマメはどこか疲れたように息をついた。
「そんなにまずいかい」
「今すぐ崩れるとか、そういうわけじゃないけどね。柱も梁も、こりゃ中はボロボロだよ。外側補強したところでどうにかなるもんじゃない」
「ふむ――」
「天井外して柱と梁の総取っ替え推奨。でもそれじゃ実質建て直しと変わらないから、この家一度潰して新築の方が安くつくんじゃない?」
なんだか数日前、廃屋だったこの家の中を掃除しながら勇儀と喋ったことの繰り返しのようだった。パルスィは勇儀と顔を見合わせて苦笑し合う。
「今日明日に崩れるってわけじゃあないんだね?」
「そりゃまあね。でも三年は保たないよ、間違いなく」
「三年、か。――まあ、終の棲家にするわけじゃないしね」
肩を竦めた勇儀に、任せるわよ、とパルスィは首を振った。
「ま、放置も落ち着かないってなら、仲間を呼ぶよ。まけとくからさ」
「なら、お願いしていいかい」
「おっけ。ま、早めに引っ越すか建て直すか考えた方がいいよ」
というわけで、勇儀のする予定だった作業が無くなってしまったわけである。
「じゃ、ちょっと身内を呼んでくるけど」
「私らは、外に出てた方がいいかい?」
「そうしておいてもらえると助かるかな」
ヤマメの返事に、勇儀はどこか心配げにこちらを見やる。
その視線の意味に気付いて、パルスィは目を伏せた。
旧都から疎まれ排斥された自分という存在。その中心にいた狂骨とは、昨日の一件でひとつ区切りがついたとはいえ――水橋パルスィという橋姫の存在を良くは思っていない妖怪は、まだ旧都にいくらでもいるだろう。
あの騒乱の中、沈静しかけていた混乱をパルスィが再燃させかけた、という事実もある。そうでなくても、自分の目は見る者の嫉妬の心を煽ってしまうというのに――。
――大丈夫だよ。
不意に、キスメがそう声をあげて、パルスィと勇儀は振り返る。
キスメは桶の中からこちらを見上げて、目を細めてパルスィの緑の眼を見つめた。
――わたし、平気だから。だからきっと、みんな平気だと思うの。
にっこりと笑って、ね? とキスメは愛らしく首を傾げてみせた。
「……そうか、平気なのかい」
はっとしたように、勇儀は言った。元からパルスィの眼を平気に見つめられる勇儀は、ヤマメとキスメが今こうしてパルスィのすぐ近くにいるということの重要性を、ちゃんと認識していなかったらしい。
「そうだね、私も大丈夫だと思う。――今のパルスィは、優しい目をしてるからさ」
どこか照れくさそうに、ヤマメもそう言った。
その言葉がひどく耳慣れなくて、パルスィは小さく身を竦める。
忌み嫌われた橋姫の緑の眼を、綺麗だと言ってくれた鬼がいた。
そして今、自分の緑の眼を優しいと言う、友達がいる。
「よしよし、それなら今日はパルスィに、旧都の名所案内と行こうじゃないか」
景気づけとばかりに杯に酒を注いで、勇儀は呵々と笑った。
怯えていても、何も始まらないのだ。勇儀の顔を見上げて、パルスィは思う。
最愛の人を、友達を信じて、歩き出してみなければ、きっと。
そう――友達になろうと手を差し伸べた、ヤマメのその手を握り返したように、
「……案内されるほど、名所なんてあるの?」
「おっと、そいつは見てのお楽しみさ」
浮かれた調子の勇儀にそっと寄り添って、パルスィは目を細める。
勇儀がそばにいる。友達がいてくれる。――何があっても、きっと。
信じるということが、今はこんなにも、心地よかった。
◇
土蜘蛛の事務所は旧地獄街道にあるというので、結局四人でそこへ向かうことになった。
キスメの桶を抱えてヤマメが先を歩き、パルスィは勇儀の腕に身体を預けるようにしてその後をゆっくりと歩いていく。
勇儀との身長差はだいたい頭ひとつ分弱。自然、いつもパルスィが勇儀を見上げる格好になるのだが――並んで歩いてみると、歩幅も全く違うのだ、ということに今さら気付く。そうでなくても勇儀はみっともないほど大股に歩こうとするので、腕を組んでいるとついていくだけで大変だった。
そこで気付いて、自然と歩幅を緩めてくれる――そんな細やかな気配りは、勇儀に期待できるものではない。結局、パルスィより少し背の低いヤマメが先に立つことで、ヤマメの歩く速度に勇儀を合わせる格好になった。
「ふむ」
右腕をパルスィに預け、左手に杯を持ったまま歩く勇儀は、不意に顎を撫でて呟いた。
「なによ」
「いや――なるほど、こういうのも恋人らしくていいもんだね、と」
パルスィが身を寄せる右腕を見やりながら、勇儀は言う。
とりあえず、服の上からその脇腹をつねってやった。
「痛っ、なんだいパルスィ」
「そういうのは、もう少し恋人に対する気配りが出来るようになってから言いなさい馬鹿」
なんだい一体、と不思議そうに首を傾げる勇儀に、パルスィは大仰にため息ひとつ。
たとえばそう、黙っていても歩く速度を合わせてくれるとか。
「ふむ――じゃあ、こうするかい?」
と、不意に勇儀はパルスィの手から右腕を離して、そしてパルスィの方に腕を回した。
「ちょ、ちょっと――」
「こっちの方が、もっとくっついていられるだろう?」
にっ、と得意げに笑った勇儀に、「……馬鹿」とパルスィは思わず口を尖らせる。
「歩きにくいのよ、もう」
「おっと、それもそうか」
そんなじゃれ合いめいたやりとりをしていると、先を歩いていたヤマメたちが振り返って苦笑していた。「好き放題見せつけてるねえ」なんて言うヤマメの方こそ、キスメの桶を抱えて歩くその表情は、恋人と触れあって幸せいっぱいの少女のものでしかないくせに。
そんな風にして歩いていると、途中でいくつかすれ違う妖怪の影があった。こちらなど気にも留めない様子の者もいれば、ヤマメに挨拶をする者、勇儀の姿に僅かに身を強ばらせる者、訝しげに視線を向ける者、様々だったけれど。
「大丈夫だよ、パルスィ。怖いことなんざ何もないさ」
そう囁いて肩を抱いてくれる勇儀の手は、どこまでも優しかった。
開けた通りに出ると、不意にざわめきが大きく耳朶を打った。
旧都を南北に貫く広々としたその道は、旧都の商業の、歓楽の中心街。地底の楽園たる旧都の繁栄の象徴、旧地獄街道。
多くの妖怪が行き交い、威勢の良い商売の掛け声がこだまするその場所は、自分には何よりも縁の薄い場所のはずだった。そんな雑踏の中に、自分の居場所は無いはずだった。
けれど勇儀は言ったのだ。それを作ると。この旧都を、パルスィが暮らせる街にすると。
「じゃあ、私は身内に話つけに行ってくるけど――」
「ああ、そのへんぶらぶらしてるよ」
ヤマメとキスメのふたりとは、一旦そこで別れた。桶を抱えたまま走っていく背中を見送って、それから勇儀がこちらを見下ろす。
「さて、どこぞご希望はございますかい、お姫様」
「――馬鹿」
とりあえず、その臑を軽く蹴飛ばす。
「私が、旧都の中心のことなんて知ってるわけないじゃない」
「いやいや、例えば何か食べたいとか、何か欲しいものがあるとさか」
苦笑する勇儀に、小さくパルスィは唸った。お腹はまだ別に空いていないし、欲しいものと急に言われたところで、ぱっと思いつくものなどない。
「勇儀の行きたいところでいいわよ」
「ふむ――」
もう一度顎を撫でて、勇儀はひとつ首を捻った。
「というか、あんたは今までこのあたりでどんな風に過ごしてたの?」
「どんな風にって、そりゃまあ飲み歩いたりだね」
「他には」
「……飲み歩いたり、飲み歩いたりだねえ」
駄目だこりゃ。頭痛を堪えてパルスィは首を振った。アル中の鬼に聞いた自分が馬鹿だった。
「言っておくけど、アル中の飲み歩きには付き合わないわよ」
「解った解った。――よし、それなら服を買いに行こうじゃないか」
勇儀の言葉に、思わずパルスィは目をしばたたかせた。――服?
「なんだい、酢でも飲んだみたいな顔して」
「……今、なんて言ったの?」
「だから服だよ。パルスィの服でも買いに行こうじゃないか」
聞き間違いではなかった。パルスィは思いきり訝しんで目を細める。
「……あんたの口からそんな言葉が出てくるなんて思わなかったわ」
「いいじゃないさ。どんなのがいいかい? 好きなのを買ってあげるよ」
きょろきょろと視線を彷徨わせ、それらしき店を探す勇儀に、パルスィは肩を竦める。
勇儀のセンスに任せたら、どうせこんな野暮ったい服になってしまうのだろう。それならまあ、一緒に居るときに買った方がいいには決まっているのだが。
「ああ、あそこだ。ほら、パルスィ」
「ちょ、ちょっと、引っぱらないでよ――」
勇儀に手を引かれ、パルスィは小走りに歩き出す。鼻歌交じりに歩く勇儀と、それに手を引かれる自分の姿に、旧都の雑踏が目を留めて――けれど。
そこにまた、異様なざわめきや不穏な気配が満ちることはなく。
通りすがる妖怪たちは、風景の一部として勇儀とパルスィの傍らを過ぎ去っていく。
大股に歩く勇儀を追いかけるパルスィには、そんなことに怯える暇もなく。
――あるいはそれこそが、必要なことだったのかもしれなかった。
さて。
「……ねえちょっと、勇儀」
「なんだい?」
店頭に飾られたその衣装を見つめて、パルスィは思いきり眉を寄せた。
「服を買う、って言ったわよね」
「ああ、そうだよ」
「――服は服でも、これって」
飾られているのは、どこまでも真っ白な衣装。それが何なのかは、パルスィも知っている。
白無垢だ。要するに、花嫁衣装である。
「そう、パルスィが着る服だよ」
にっと笑って、勇儀は雪原のように純白なその衣装に目を細めた。
確かに勇儀は、結婚しよう、と言った。そりゃあ、結婚するのなら花嫁衣装を着て式を挙げるのが普通かもしれない。が――いきなりそんなことを言われても困る。
「き、聞いてないわよ」
「結婚しようって言ったじゃないか」
「それはそうだけど、でも式まで挙げるなんて、だいたいどこで――」
「式場はちゃんと旧都にもあるさ。結婚するなら、それなりの手順は踏まないとね」
反論しようと思うけれど、何を反論すべきなのかが思いつかず、パルスィは唸った。
式なんて挙げなくたって、生涯を賭けて添い遂げるという勇儀の誓いを疑ったりなんてしない。今のパルスィはそう言い切れる。
けれど、式を挙げたい、という勇儀の言い分も解る気がした。気持ちを伝えるために言葉が必要なように、確認のための行為というのは必要なのだ。結婚する、と言葉で言っても、一緒に暮らしているだけならやはりあの橋の下での生活と変わらない。旧都で伴侶として暮らす、という変化を示すための儀式として、結婚式は必要だと勇儀は考えているのだろう。
「それにね、パルスィ」
「……何よ」
「花嫁衣装を着た綺麗なパルスィを見たいと思うんだけどね、駄目かい?」
白無垢を着る自分を想像してみた。あんまり、似合う気はしなかった。
「それとも、洋風のドレスの方がお好みかい?」
「……どっちでもいいわよ。もう」
ふん、と口を尖らせて、それからふと疑問に思った。――勇儀は何を着るのだろう?
勇儀だって女なのだから、やはり白無垢かウェディングドレスか。
その姿を想像してみて、思わずパルスィは噴き出した。これは、どう考えても似合わない。少なくともそれならまだ自分の方はよっぽどマシだ。
「なんだい、急に」
「別に。でも勇儀には、紋付袴の方がよっぽど似合いそうね」
笑いながらパルスィが言うと、「そうかもしれないね」と勇儀は苦笑した。
店の扉を開けると、「いらっしゃい……おや」と嗄れた声がかかった。姿を現したのは、腰の曲がった老婆だ。老婆は勇儀とパルスィの姿に目を細める。
「勇儀様がうちにいらっしゃるとは、珍しいねえ」
「様付けは止めておくれよ、妖怪の山に居た頃じゃあないんだ」
ほっほ、そうでしたね。老婆は楽しげに笑い、パルスィの方を見つめる。
その皺だらけの顔に、パルスィは少し居心地悪さを覚えて視線を逸らした。
「この娘の花嫁衣装を仕立てて欲しいんだよ」
勇儀の言葉に、「ほっほ!」と老婆は手を叩いて破顔する。
「なるほど、それじゃあこの娘がねえ」
「まあ、そういうことさ。――ほら、パルスィ」
勇儀に背中を押され、パルスィはたたらを踏む。老婆はそんなパルスィを見上げて、ひどく優しげに微笑んだ。その笑顔にどう反応していいのか、パルスィには解らない。
「大丈夫よ。貴女に一番似合う衣装を仕立ててあげるわ」
老婆はそう言って、「そうとなれば、まずは採寸をしないとねえ」と踵を返す。「ほら、ついていきなよ」と勇儀が言うと、老婆は足を止めた。
「何を言ってるんです、勇儀様もこっちにいらしてくださいな」
「へ? 私もかい?」
「衣装はふたりぶん必要でしょう。――勇儀様の方が花婿ということでよろしいですわね?」
久しぶりに腕が鳴りますわ。老婆はそう言って楽しげに笑った。
「私ゃ何でもいいから、パルスィをうんと綺麗にしてあげておくれよ」
「そうはいきませんよ。花嫁ばっかり綺麗で花婿がぱっとしないんじゃあ片手落ちというものです。せっかくの晴れの場、釣り合いというものは大切ですよ」
そんなもんかねえ、と鼻を鳴らす勇儀に、パルスィはため息をひとつ漏らした。
「いいから勇儀も付き合いなさいよ、連れ込んだのはあんたなんだから」
「はいはい、解りましたよお姫様」
勇儀の手を掴むと、恭しくそれを握り返して勇儀は笑った。
照れくささを紛らわすようにその笑みから視線を逸らすと、不意に大きな姿見が視界に入る。壁に掛けられたそれは、既製品の衣装が合うかを確かめるためのものなのだろうが――。
そこに映っているものに、パルスィは一瞬、ひどく奇妙な違和感を覚えた。
――けれどそれはあまりに一瞬で、次の瞬間には霧消してしまう。
「パルスィ?」
「……何でもない、ほら、勇儀」
勇儀の手を引くように、老婆の後を追ってパルスィは歩き出す。
ただその意識の片隅に、鏡を見たときの奇妙な感覚が、焦げ付いたようにこびりついていた。
その違和感が示す事実に、そのときのパルスィはまだ気付いていなかった。
気付きようもなかった。
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