ゆう×ぱる! 19 / 「キスメの不安」
2009.09.13 Sunday | category:東方SS(勇儀×パルスィ)
昔から、狭いところが好きだった。
桶の中、井戸の中。暗く狭く、静謐に閉ざされた空間の中、静かな時間を過ごす。それがキスメの安寧で、日常だった。
手足を伸ばせば、どこにでも届く空間。
自分の小さな身体で、把握しきることのできる世界。
そんな狭い世界に籠もって、静けさの中に身を浸していた。
――外の世界は明るすぎて、うるさすぎて、広すぎる。
ちっぽけな自分は、手を伸ばしても何にも届かないから。
そんな場所では、自分はどこに行けばいいかも解らない。
自分はどこにも行きたくなどないのに、広い世界ではどこかへ行けと誰かがせかす。
だから、暗く狭い井戸の中でじっとしていた。
自分ひとりだけの小さな世界に、閉じこもっていた。
『――こんな狭いところで何してるのよ?』
そんな彼女の声が、井戸の上からかけられるまで。
自分が、広い外の世界に焦がれるなんて――思いもしなかった。
黒谷ヤマメという、土蜘蛛の少女。
狭い井戸の中から自分を引きずり上げて、屈託なくこちらに笑いかけて。
『――怖くないわよ』
突然目の前に広がった、明るくて広い世界に怯えた自分を、優しく撫でてくれて。
『退屈なら、遊ぼ?』
ひとりぼっちだった自分に、そんな言葉をかけてくれた。
――何もかも、キスメにとっては初めてのことで。
見知らぬ世界に現れた、見知らぬ少女の眩しい笑顔が。
まるで外の世界の光が瞼に焼き付くみたいに、キスメの中に深く刻まれた。
キスメは、ヤマメのことが好きだ。
いつでもヤマメと一緒にいたいし、いつでも自分にその笑顔を向けていてほしい。
自分の名前を呼んで、微笑みかけて、髪を撫でてほしい。
――唇に、そっと触れてほしい。
そんな気持ちに、ヤマメも照れながら応えてくれる。
ヤマメの腕が背中に回されて、ついばむように唇が触れあう刹那。
それが泣きたくなるほど幸せで、ずっとこうしていたいとキスメは思う。
――ヤマメちゃんのこと、好き。
そう囁けば、真っ赤になって、だけどヤマメはちゃんと返事をくれる。
――私も、と。
幸せだった。
ヤマメがそばにいてくれる。ヤマメと触れあっていられる、この時間が。
狭い井戸の中で、ひとりきりでじっとしているよりも、ずっとずっと幸せだった。
明るくて広くてうるさい外の世界も、ヤマメがいれば怖くなんてなかった。
手の届かない場所じゃない。手を伸ばせば、ヤマメがいてくれる。
自分のすぐ近くで、触れあえる距離にいてくれるから。
だからキスメは、幸せだった。
ヤマメと一緒にいられる幸せさえあれば、他に何もいらなかった。
――そして、ずっと幸せでいられると、無邪気に信じていた。
◇
「広いところだけどさ――って、変な言い回しだよねこれも」
そういえば、ヤマメの家に招かれたのは初めてだったなぁ、とキスメは思う。
旧都の一角、土蜘蛛たちが集まって暮らす区域。その一角に、ヤマメの家はあった。
いつものように、桶ごとヤマメに抱えられる格好で、キスメは初めてそこに足を踏み入れる。
――散らかってる?
見渡せば、部屋の中は少々雑然としていた。なんだか用途のよく解らないものが、混沌とした秩序をもってあちこちに散らばっている。
「う、悪かったわね」
キスメの呟きに、気まずそうにヤマメは唸って、「こーなるって解ってたら先に片付けてたわよ」と頭を掻いた。そんなヤマメに、キスメは苦笑する。
――ヤマメちゃんらしくて、いいと思うよ。
「それってもしかして、けなされてる?」
――そ、そんなことないよ。
慌てて首を振るが、ヤマメは半眼で頬を膨らませる。いつも元気で賑やかなヤマメには、少し雑然としたぐらいの方が似合うと思っただけなのだが。
「とりあえず、好きなところに居て。何か食べるものでも用意するからさ」
キスメの桶をその場に放して、ヤマメは散らかった部屋を抜けて隣の部屋へのドアを開ける。それをふわふわとその場に浮きながら見送って、キスメはもう一度部屋の中を見渡した。
ここが、ヤマメが暮らしている場所。
そこにこうして今、招かれたということ。
『心配なら……うちに来る?』
騒然とした旧都。井戸の近くであった妖怪同士の喧嘩。怯えた自分にヤマメはそう言った。
それが、旧都が落ち着くまであの井戸ではなくここに居ていい、ということなら。
自分はこれからしばらく、ここでヤマメと一緒に暮らすのだ。
改めてそのことを考えてみると、何だかひどく照れくさかった。
いつも一緒に遊んでいるけれど、同じ場所で寝起きをともにするというのは、きっともっと特別なことなのだと思う。
そういう、特別なことを自分に許してくれる。
そのことに、今までよりももっともっと、ヤマメのことが愛おしくなるのだ。
――ヤマメちゃん。
思わず、隣の部屋のヤマメに呼びかけてしまった。
けれど、キスメの小さな声では、ヤマメのところまでは届かない。
ドアの向こう、何かヤマメはごそごそと戸棚を漁っているようだった。キスメは桶に入ったまま部屋を飛んで横切り、ドアのところに顔を出す。
――ねえ、ヤマメちゃん。
もう一度呼びかけると、今度は届いた。「ん?」とヤマメはこちらに振り返る。
「どしたの?」
――ええと、ね。
問い返されて、ちょっと困った。ただ呼びたかっただけで、言いたいことなんて何も考えていなかった。首を傾げるヤマメに、キスメは何度か視線を彷徨わせて。
仕方ないので、ぎゅっとその身体にしがみつくことにした。
「な、なに? やっぱり広くて嫌だった?」
慌てたように声をあげて、自分の髪を撫でてくれるヤマメ。
ふるふると首を横に振って、キスメはその顔を見上げた。
少し困り顔でこちらを見下ろすヤマメは、やっぱり優しくて、――大好きだ。
そう思えることも、ヤマメがそれに応えてくれることも、何よりの幸せ。
――えと……せっかく、ヤマメちゃんの部屋に来たんだから、その。
「うん」
――食べるものより、先に、ね。
ぎゅっとしてしまう口実は、結局のところそれしか思いつかない。
そんな甘いお願いも、ヤマメは苦笑しながら、ぎゅっと受け止めてくれる。
「……せっかちなんだから、もう」
顔を上げて、キスメは目を閉じた。
触れてくるヤマメの唇の感触と、背中に回された腕が、どうしようもなく心地よかった。
◇
触れあう幸せ。囁きあう言葉。
求めたものは、いくらでも互いに与えあうことが出来たから。
キスメはヤマメを求めて、ヤマメもキスメを求めてくれた。
要するに、ふたりはそのまましばらく離れなかった。
――あのね、ヤマメちゃん。
そうして、ふたりで寄り添って眠る夜。
ずっと中に居た桶を出て、キスメは布団の中で、ヤマメの腕に抱かれている。
素肌に触れる温もりは、どんな狭い空間よりも心地よくて。
「なに?」
耳元で囁かれる言葉と吐息が、いつだってくすぐったい。
――私……狭いところが好き。
「うん、それは知ってる」
――今まで、一番狭いのは、桶の中だって思ってたけど、違うんだね。
キスメの囁きに、ヤマメは目をしばたたかせた。
そんなヤマメに、キスメは照れながら、言葉の続きを紡ぐ。
――ヤマメちゃんの腕の中が、一番狭くて、一番幸せ。
その囁きに、ヤマメは真っ赤になって、それから「……ばか」と呟いて。
キスメの背中に回した腕に、ぎゅっと強く力を込めてくれた。
「……キスメが幸せなら、ずっとこうしててあげる」
優しい、愛おしい、大好きなひとの言葉。
自分にとって、ヤマメの言葉がそうであるように。
――ヤマメちゃん。……えへへ、大好き。
自分の言葉が、ヤマメにとってそういうものであればいいなあ、とキスメは思うのだ。
そして、髪を撫でてくれる優しい手に、きっとそうなのだ、と信じて。
ヤマメの温もりに抱かれて、目を閉じる。
世界で一番狭い場所。
それは、大好きなひとの腕の中。
そんな安息に身を委ねて、――キスメはただ、幸せでいた。
◇
その日は、朝から旧都がいつも以上に騒がしかった。
ヤマメの傍ら、布団の中で寄り添う格好で目を覚まして、キスメはヤマメの寝顔を見下ろす。
――ヤマメちゃん。
安らかなその寝顔を見ていると、また愛おしさが膨れあがってきて。
そっとついばむように、その唇に自分のを重ねて、そんな行為に自分で照れて。
「……ん、キスメ、おはよう」
眠そうに目をしばたたかせて、むくりと身体を起こすヤマメに、おはよう、と答える。
目を覚ましてすぐ、大好きなひとが目の前にいる、ということ。
その幸せに、また何度となく、ふたりで笑い合って。
「キスメ……」
唇を重ねるのも、何度目かなんてとっくに解らなくなっているけれど。
数え切れないということが、つまり幸せの数なんだなあ、とキスメは思うのだ。
朝ご飯を食べて、それから今日はどうしようか、とヤマメが尋ねた。
この家に来て数日、あまりふたりは外を出歩いていない。元々キスメがここに来たのは、、ここのところ旧都が物騒だから――というのがまあ、建前ではある。暮らしていた井戸の近くで派手な喧嘩があったから、難を逃れてここに来たのだ。あくまで建前上は。
本音はやっぱり、ヤマメが好きだから、に他ならないのだけれども。
とはいえ、やはりここのところ旧都がずっと騒がしいのは事実だった。ヤマメの部屋にいても、遠くからまた誰かが喧嘩をしているような騒ぎは聞こえてくる。
今日もまた、外からはばたばたと誰かが駆けずり回っているような音が響いていた。
「んー、やっぱり今日も家に居よっか」
ヤマメもその騒がしさを聞いてか、苦笑するようにそう言った。
――ヤマメちゃんが良ければ、私はどっちでもいいよ。
「ん……そうね」
キスメの答えに、ヤマメは目を細めて、またこつんと額を合わせる。
家の中でこうして、他愛ない話をして、ときどきぎゅっとして、キスをする。
それだけでキスメは楽しいし、ヤマメもそうだと思いたい。
ずっとそうしていられたらいい――と、そう思うのだけれども。
ヤマメの家も、旧都の一部でしかない以上。
旧都の騒乱からは、決して逃れられないのだ。
そのままふたりでごろごろしながら、他愛ない話をしていたときだった。
不意にドンドンと、ぶしつけに扉を叩く音が響いて、キスメは思わず身を竦める。
「ん、誰だろ。ちょっと出てくるね」
ヤマメが立ち上がり、玄関へ出て行く。その背中を見送って、キスメは息をついた。
――ヤマメとふたりきりの時間を、誰にも邪魔してほしくない。
そう思うのはたぶんわがままなのだろうと思うけど。
開け放されたドアから玄関の方を見やる。ヤマメは来客と立ち話をしているようだった。何を話しているのかはよく聞こえないが、ヤマメの横顔は少し険しい。
何かあったのだろうか。――自分たちに害のあるようなことでなければいいのだけれど。
キスメがそう案じていると、ヤマメが肩を竦めながら戻ってきた。
――どうしたの?
キスメが問いかけると、「参ったよ」とヤマメは盛大に息を吐き出す。
「星熊の姐さんが居なくなったじゃない?」
――橋姫さんのところに、居るんだっけ。
「それで、今まで姐さんに抑えられてた連中が、ちょっと街中で派手に騒いでるんだって」
――大変だね、色々と。
キスメとしては、そんな感想しか出てこない。勇儀がこの旧都を実質的にまとめていたことは知っていたが、それに不満を溜める面々だとか、そんなことは一介の釣瓶落としでしかないキスメには縁のない話である。
――ヤマメちゃん?
「ああ……うん。それでね、ちょっと参ったことになって」
関係のない話のはずだった。だけどヤマメは頭を掻いて、ひとつ唸る。
「――姐さんが居ないから、うちらで止めに入ろうって話になってるんだ」
キスメは目をしばたたかせた。――うちらで、って。
「うん、だから来てくれないかって。参ったなあ、と」
止めに入るとか性に合わないよ、とヤマメはぼやいた。
キスメは俯いて、ヤマメの服の裾を掴む。
喧嘩は、キスメはあまり好きではなかった。ものは壊れるし、うるさいし、流れ弾が飛んできたらこっちが危ない。静かにじっとしているのが好きな自分には合わないものだ。
なるべく、そういうものには関わり合いたくない。
だからこそ、今こうしてヤマメのところにいるのだけれども――。
――お願いされてるんだよね、ヤマメちゃん。
「いやま、断ったって何か言われることもないけど――」
――危ない、こと?
首を傾げたキスメに、ヤマメは「どうだろ」とひとつ唸った。
この前の喧嘩を思い出す。あんなのの間にヤマメが割って入って止めにかかるなんて、ヤマメが怪我をしてしまうかもしれない。そんなのは嫌だ。
「ま、私は土蜘蛛でも下っ端の方だし。手伝いぐらいだと思うけど」
――本当に?
「大丈夫でしょ。……ま、行くならだけどさ」
頷いて、それからヤマメは目を細めてキスメの方を見やった。
キスメが行かないでって言えば、断るよ。その瞳はそう語っている。
ヤマメの方も、行かないで、と言ってほしいのだろうか。
もちろんキスメとしても、危ないことにヤマメが首を突っ込むのは心配だ。だが――。
――私は大丈夫だから、行ってきていいよ。
キスメの言葉に、ヤマメはきょとんと目を見開いた。
いつかの言葉を思い出す。『もっとヤマメを信頼してやりなよ』。勇儀はそう言った。
ヤマメにはヤマメの交友関係があり、ヤマメの時間がある。
その全てを独占してしまいたい――と思うのは、どうしようもないのかもしれないけど。
やっぱり、そういうわけにもいかないのだ。
「キスメ?」
――でも、危ないことは、しないでね。
目を細めて言ったキスメに、ヤマメは数度目をしばたたかせて。
「……キスメは、それでいいの?」
ヤマメの問いかけに、キスメは頷く。なるべく、躊躇わないで。
――ヤマメちゃんのお友達のお願いなんだよね。私のことは、気にしなくていいから。
「別に、キスメが気を遣うようなことじゃ――」
――帰ってきたら、キスして、ね?
その言葉に、ヤマメはかーっと真っ赤になって。
ごほん、とひとつ咳払いすると、キスメの頬にその両手で触れる。
「別に、もっと我が侭になっていいのに」
――ヤマメちゃん、前と言ってること違うよ。
「う、うっさいなあ」
唸るヤマメに、キスメはくすくすと笑う。
少し前は、自分の方がヤマメと一緒に居たいと言ってヤマメを困らせてしまったのに。
今度はヤマメの方が、一緒に居たいと言っていいのに、なんて言うのだ。
「……私がキスメと一緒に居たいんだから、仕方ないじゃない」
唇が触れた。そのくすぐったい感触に、ふたりでくすくす笑い合った。
「じゃあ……まあ、ちょっとだけ出掛けてくるね」
こつん、と額をぶつけて、ヤマメはそう囁く。キスメはこくりと頷いた。
――気を付けてね、ヤマメちゃん。
「大丈夫だって。大したことないから、きっと」
――うん。
「ま、すぐ返ってくるからさ。――キスメをぎゅってしに」
――えへへ、うん。
「大好きだよ」
そんな言葉と一緒に、もう一度唇が寄せられた。
あたたかい感触が離れて、そしてヤマメはぱたぱたと部屋を出て行く。
手を振って、キスメはその背中を見送った。
危ないところには行かないで、そばにいて。
そう望んで引き留めた方が、正しかったのだろうか。
ヤマメの姿が消えて、改めてそんな思考が脳裏に浮かぶ。
あのとき、一方的にキスメがヤマメを求めていたときとは違う。今は、ヤマメの方もキスメを求めてくれている。――それなら、求め合っていれば良かったのかもしれない。
桶の中に身を埋めて、キスメは小さく息をついた。
それから目を閉じて、いつも井戸の中でしていたように、ヤマメのことを思い浮かべて。
結局どこまでも、自分はヤマメのことしか考えていないのだ。
唇に触れた感触を思い出して顔を赤らめながら、それも幸せだなぁと思ったりもして。
広いヤマメの部屋で、キスメは桶に収まって、ヤマメの帰りを待っていた。
――待っている、つもりだった。
◇
旧都の騒乱は、キスメの知らないところで広がっていた。
最初は何ということのない小さな火種だった。普段なら取っ組み合いで終わるだけの、旧地獄街道の些細な諍いが、けれどそこを通りがかる妖怪たちに火を点けた。
あるいはそれは、平穏な地底というものに飽いていたが故だったかもしれない。
まるで宴のように、騒乱は旧地獄街道全域を巻き込んだ。
特に理由は無かった。暴れたいから暴れている者たちがおそらく大半だったろう。
――理由もなく暴れると、あの鬼がやって来て戒めを受けることになる。
けれど、今はあの鬼は、星熊勇儀は旧都に居ない。
抑止力を失った旧都は、まるで火薬庫のように騒乱の誘爆を引き起こして――。
◇
何が起こったのか、キスメには咄嗟に理解できなかった。
突然の轟音とともに、ヤマメの部屋の天井が崩れた。粉塵を舞い上げて、そこから影がひとつ、キスメのすぐ目の前に落下して散らかった床に叩きつけられる。
キスメは頭上を見上げる。屋根に大穴が空いていた。
そしてその大穴から、ひどく獰猛な笑みを浮かべた妖怪がこちらを見下ろし。
床に叩きつけられた影が、起きあがる気配がした。
どちらも、落下した先に居た釣瓶落としなど、眼中に入っていない。
凶暴な気配が膨れあがるのを感じて、キスメはぞっと身を震わせ――。
床に叩きつけられた妖怪の方が、立ち上がって地を蹴った。
上空から見下ろす妖怪が、それに対して弾幕で迎撃した。
その弾幕は、ヤマメの家の天井に片端から穴を開けて、床を次々と穿った。
むろん、その弾幕がキスメを避けてくれる道理など無い。
小さな悲鳴を上げて、雨霰と降り注ぐ弾幕の中を逃げまどう釣瓶落としなど、やはりその上空でぶつかり合う妖怪たちの意識には入っておらず。
――ヤマメちゃん、
直接に迫り来る身の危険に翻弄されながら、キスメはただ、大好きな彼女の顔を思った。
レーザーが目の前を通り過ぎて足元を穿った。身を竦めて、キスメは祈った。
――たすけて、
だけどそれは、今ここにいないヤマメには届くはずのない祈りで、
そして、避けきれない光弾が、頭上を振り仰いだキスメの眼前にあり、
キスメはただ、それに目を見開くことしか出来ず、
ドン、と大地が揺れた。
旧都を、いや、地底全土を揺るがすような、それは地鳴りだった。
ドン。再び大地が揺らぐ。胎動するように足元がうねり、キスメは桶の中で転んだ。
桶の縁を掠めて、光弾は床を抉った。
そして次の瞬間、キスメの頭上でやり合っていた妖怪達を、二重の弾幕が取り囲んでいた。
「喧嘩をするな、とは言わないよ。酒と喧嘩は地底の華だ」
凛とした声が、遠い騒乱の中に響き渡る。
「だがね――関係ない他人を巻き込む喧嘩は喧嘩とは呼ばない」
青ざめて声の方を振り仰いだ妖怪たちが、びくりと身を竦めて。
「そいつはただの、暴力って言うんだよ」
――ドン、と、三度目の地鳴り。
張り巡らされた弾幕が、頭上でやり合っていた妖怪二匹を撃ち落とした。
墜落するその二匹をふんづかまえて、キスメの頭上に現れた影はやれやれと肩を竦める。
それは、片手で軽々と大柄な妖怪二匹を引きずる怪力の持ち主。
額から伸びる赤い角、ひるがえすスカートとくすんだ長い金髪。
キスメはまん丸に目を見開いて、その影の名前を呼んだ。
――勇儀さん。
そのキスメの小さな声が届いたか、星熊勇儀は足元を見下ろして。
「キスメじゃないかい。なんでこんなところに――」
その目を丸く見開いて、キスメの方に舞い降りようとして。
勇儀の三歩必殺とは別の地鳴りが、旧都を揺るがした。
それは、旧地獄街道の方向からの地鳴り。
勇儀は顔をしかめて、妖怪二匹を放り出すとそちらを振り仰ぐ。
――ヤマメ、ちゃん。
ぞっと悪寒を覚えて、キスメも慌てて桶に入ったまま飛び立った。
そう、ヤマメは止めに行ったのだ。旧地獄街道の騒乱を。
「ありゃまた、随分派手にやってるね――」
勇儀は呟き、それから飛んできたキスメを振り返る。
「大丈夫かい? 危ないからじっとして――」
――ヤマメちゃんが、あっちにいるの。
キスメの言葉に、再び勇儀は盛大に顔をしかめた。
――旧地獄街道が騒がしいから、止めに行くって。
「――参ったね、そいつぁ」
苛立たしげに頭を掻いて、吐き捨てるように勇儀は言った。
今すぐにでも飛び出そうとした勇儀のスカートを、慌ててキスメは掴む。
「何だい、キスメ。危ないから――」
――私も、行く。
勇儀の顔を見上げて、キスメはそう告げた。
――ヤマメちゃんのところに、行く。
その視線を受け止めて、勇儀はひとつ息をつくと、「解った」とその桶を肩に担ぐ。
「全速力で止めに行くよ!」
そして勇儀は宙を蹴った。目指す先は、旧地獄街道。騒乱の中心。
抱えられた桶にぎゅっとしがみついて、キスメは呟く。
――ヤマメちゃん。
その言葉は祈りのように、あてもなく地底の空気に溶けて消えていく。
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