ゆう×ぱる! 12 / 「星熊勇儀の憤慨」
2009.08.07 Friday | category:東方SS(勇儀×パルスィ)
気ままな妖怪の中で、特に社会的な性質を持つのは天狗と河童である。最も社会的な生物が人間だとすれば、人間に近い――あるいは近くあろうとする彼らが、人間のそれに近しい社会性を持ったのか、それとも彼らの影響を受けて人間に社会が生じたのか、そのあたりは今となっては定かでないが、ともかく。
それに比べれば、鬼は本来もっと気ままな種族のはずだった。力比べの結果による序列はあれど、それは権力と同義ではない。そもそも鬼の暮らしに権力など必要なかった。
だが、その力ゆえ、同じ妖怪の山に暮らす天狗や河童は、勝手に鬼に権力を与えた。
妖怪の山の頂点に鬼がいた、というのは、何も鬼がその力で天狗や河童を征服し従えさせていたのではない。たまたま妖怪の山に住んでいたら、いつの間に頂点に祭り上げられていたのである。
鬼たちにしてみれば、そんなこともわりと些末なことではあったが――しかし、天狗や河童が自分たちの顔色をうかがい、頂点であってくれと望むのならば、仕方ないからそれに応えようか、と考えてしまうのが鬼という種族だった。
――そうして、妖怪の山のまとめ役を務めていたのは既に昔の話だが。
その頃の経験で、こうして今は地底のまとめ役をすることになっているわけである。
「さて、みんな集まったかい?」
旧都中心街にある集会場。そこには、鬼の勇儀を初めとして、地底の有力な妖怪たちがずらりと顔を並べていた。目的は旧都の運営についての会合である。
地底に妖怪たちを受け入れた鬼が、一応この旧都でも中心的な立場にはいるが、勇儀たちはあくまで旧都の運営については合議制を採用していた。何しろ旧都にもさまざまな妖怪がいる。話し合いはしないよりするに越したことはない。もちろん力にものを言わせれば彼らを全て強引に従わせることも出来なくはないが、独裁など面倒くさいのである。
「姐さん、地霊殿とこのお嬢さんがまだでっせ」
声をあげたのは狂骨の蕎麦屋だ。彼は蕎麦屋台の店主であると同時に、旧地獄街道の飲食店組合の長でもあったりする。カラカラと骨を鳴らして言う狂骨に、ふむ、と勇儀は唸った。
地霊殿。旧都のさらに奥、灼熱地獄跡の上に立っている屋敷だ。
灼熱地獄跡の火は、基本的に寒い地底においては貴重な熱量、エネルギーである。灼熱地獄跡の火が消えれば、地底はしんとした雪に埋もれて凍りつくだろう、とも言われる。
その火を管理しているのが、地霊殿の住人たちなのである。
ある意味地底の、旧都の命運を握っている地霊殿の主――古明地さとりについては、しかしこの合議に参加している妖怪にも、苦手にしている者が多かった。なぜなら――。
「すみません、遅くなりました」
そこへ、見計らったようにその少女が姿を現した。円座を組んでいた妖怪達がすっと逃げるように道を空け、彼女はそこを通って円座の一角に腰を下ろす。
古明地さとり。地霊伝の主。見た目は幼い少女。その種族は《覚》。――心を読む妖怪だ。
彼女の胸元に見開かれる第三の目。それが見透かすのは、相手の心の中。
どんな妖怪でも、彼女の第三の目を前にすると、その心を読まれる。
こちらが話す前に、心を読んで話を続けてしまう彼女は、皆が苦手にしていた。
人間に限らず、妖怪でも心を全て読まれるのは良い気分ではないのである。
――ともかく。
「それじゃあ始めようかい。まずは――」
勇儀が手を叩き、それを合図に土蜘蛛の長が立ち上がった。
◇
話し合いは、取っ組み合い寸前の言い合いを交えつつも一刻ばかりで終わった。
地上で忌み嫌われた者同士とはいえ、同病相憐れむなどという精神は妖怪には無縁だ。それなりに平穏ではあるものの、些細な諍いは日々絶えない。それもまた地底の華と言ってしまえばそれまでだが、何しろ地上で忌まれる程度には危険な力を持った妖怪もゴロゴロしているのだ。大事になる前に話し合いで場を収めておくのは大事なことなのである。
「いつもご苦労様です」
場が解散となり、ざわめく集会場。その中で凝った肩と首を回していた勇儀に、横からすっとお茶が差し出された。振り返れば地霊殿の主、さとりがその目を細めている。
「ああ、お酒の方が良かったですか。これは失礼を」
「いや、いただくよ。すまないね」
勇儀は湯飲みを受け取った。熱い茶もたまには悪くない。
「いいえ、私はお酒は結構ですので」
――お前さんはどうだい? と杯を差し出そうとしたが、口を開く前にさとりに遮られた。心を読んだのだろう。勇儀は苦笑して杯を引っ込める。
他人の心が読めるさとりは、こちらが口を開く前に言葉を先読みして返事をしてしまうことが非常に多い。彼女を苦手にする妖怪が多いのは、その力ゆえに会話が成立しないため、というのもある。
「しかし、毎度すまないね」
「いえ、地霊殿の主として出席するのは当然です。……別に利用してくださって一向に構いませんよ。こちらも立場的には大差ありませんから」
――お前さんの力を利用して、参加者の監視をさせてるみたいになってるのはすまないと思ってるよ。そう言おうとした言葉はやはり先読みされてしまう。
鬼である自分はさておき、他の妖怪たちは腹に一物抱えていたり、良からぬことを考えていたりすることは充分にありうる。あまりそういう風に疑ること自体、鬼の自分としては気分はよくないのだが――さとりがこの場にいると、考えは黙っていても漏れてしまう。そういう意味で、さとりの存在は悪巧みをする者――それが実際に居るか居ないかはさておき――への牽制でもあるのだ。
「とりあえず今のところは、それぞれ利己的な思惑はあれど、そちらが対処しなければならないようなことを考えている者はいませんね」
「……そうかい」
こうやってさとりに告げ口のような真似をさせていることも、勇儀としては不本意ではあるのだ。酒でも呑んで腹を割って話し合えば何でも解決する――というのは、鬼の間でしか通用しない常識だというのは承知しているけれども。
気ままに生きていたくとも、地底社会を築いたのは自分たち鬼だ。
その社会をまとめていく責任は、やはり自分たちにある。
「それよりも、少々気になるのは」
「うん?」
「――貴女が話し合いの最中も絶えず心に浮かべていた、橋姫のことです」
思わずお茶を盛大に噴き出した。
そうだ、心を読まれているのだから、当然そのことも読まれていて然るべきなのだが、この場で指摘されるとは全く思っていなかった。咳払いしつつ、勇儀は振り返る。
「な、なんだい急に」
「……そう、貴女は恋をしているのですね、その橋姫に」
「参ったねもう。ああ、そうだが――それがどうかしたのかい」
ぼりぼりと頭を掻きつつ、空になった湯飲みを置いて勇儀は腕を組んだ。
自分がパルスィに惚れていることに関しては、特に公言はしていないが隠すつもりもなかった。誰を好きになったところで他人にどうこう言われる筋合いはないし、特に知られて困るようなことでもないのだ。
「……貴女はそう思っていても、一部の妖怪は懸念しているようですが」
「どういうことだい?」
誰が何を懸念するというのだ。眉を寄せた勇儀に、さとりはあくまで表情を変えることのないままに、静かに答えた。
「貴女が橋姫のところに通い詰めていることは、既に周知のようですが」
「まあ、特に隠しちゃいないからね」
「――貴女が橋姫を旧都に連れ戻さないかと、心配している者が数名いました」
勇儀は顔をしかめた。旧都に連れ戻さないか――だって?
「どういうことだい、そりゃあ」
「言葉通りの意味かと」
さとりの静かな言葉に、勇儀は唸った。
――そう、そもそも何故パルスィは、いつもあの橋の上にいるのだ?
あの場所以外でパルスィを見たことはなく、あそこから離れたパルスィも見たことがない。
それはただ単に、あの場所が好きであそこにいるのではなく。
『だけど私は、ここにしか居場所がないのよ』
そう、いつかパルスィはそう言った。当たり前のことのように。
それはつまり――まさか。
勇儀が振り返ったとき、既にさとりの姿はなく。集会場に妖怪の姿もほとんど無かった。
――橋姫、水橋パルスィ。彼女があの場所にいるのが、そういうことならば。
それはつまり――この地底でも、また。
「……冗談じゃないよ、冗談じゃッ!」
だん、と勇儀は畳を殴りつける。畳に大きな穴が開いて、地底の冷たい土が覗いた。
◇
今の気分ではパルスィの元に行く気にもなれず、勇儀はぶらぶらと旧地獄街道を歩いていた。
旧都の喧噪。地上の光に比べれば華やかとは言い難いかもしれないが、賑やかさなら決して地上にも負けてはいない。かつて忌み嫌われた妖怪たちは、この地底に新たな社会を築いて、共存共栄、平和に過ごしている。
その光景を眺めるのが、勇儀は好きだった。――はずだった。
だけど今は、その喧噪の裏に、あの場所にひとりきりの彼女を思い浮かべてしまう。
水橋パルスィ。地上への縦穴へ通じる橋に佇む橋姫。
旧都の喧噪も遠いあんな場所にひとりきりで――彼女は。
それが、彼女が望む結果なのだとしたら、まだいい。喧噪を好まない、孤独を愛する妖怪というのも少なくはないのだから、それは個人の自由だ。
だが――望むと望まざるとに関わらず、彼女があそこに居るしかないのだとしたら。
パルスィの孤独が、彼女の選んだ結果でなく――誰かから押しつけられたものなら。
「……嫌だねえ、ああもう」
こんなことを考えること自体、ひどく嫌らしいと勇儀は思う。
この旧都の面々は、かつて忌み嫌われた妖怪たちとはいえ、基本的に皆、気のいい者たちだ。もちろん些細な諍いは常日頃あるにしても、結託して特定の妖怪を排除にかかるような、それこそまるで人間のような真似は――しないはずだ。
そう、勇儀だって信じたいのである。
「旨いもんでも食って忘れるに限る、か」
口に出して呟き、勇儀は顔を上げた。行きつけの、狂骨の蕎麦屋ののれんが見える。
月見蕎麦でもすすって、それからパルスィのところに行こう。あの照れ顔、すまし顔を拝めば、嫌な気分も吹き飛んでしまうはずだった。
「へいらっしゃい――ああ、姐さん。ご苦労さんです」
カラカラと骨を鳴らして、狂骨の旦那はへこへこと頭を下げた。
「月見をおくれ」
「あいよっと」
手持ちの酒を杯に注ぎ、蕎麦を茹でる狂骨を見つつ勇儀はぐいっと一気にそれを干した。
「旦那、お勘定」
「へい毎度」
勇儀の他に客はひとりだけで、その客が立ち上がって店を出ていく。何となしに勇儀がその背中を見送っていると、「お待ち」と目の前に丼が差し出された。
「いただくよ」
丼を受け取り箸を手に取る。蕎麦は音を立ててすするのがマナーだ。豪快に勇儀がつゆごと麺をすすっていると、「相変わらず気持ちのいい食べっぷりだねえ」と狂骨の旦那は嬉しそうにまたカラカラと笑った。
「もう一杯もらえるかい」
「そうくると思って準備してたさ」
空にした丼を傍らに寄せると、すぐにもう一杯が差し出された。用意のいいことだ。
勇儀は二杯目の蕎麦にかかろうとして、ふっとこちらを見つめる狂骨の視線に気付く。
「なんだい?」
蕎麦をすすりつつ勇儀が視線を上げると、「いや、なに」と少し気まずそうに狂骨は視線を逸らして、鍋の菜箸を意味もなくぐるぐると回し始めた。
「――姐さん、最近本当に、何かとご機嫌だねえ」
「ん、解るかい?」
「解るさ。――その顔は、惚れた女の出来た顔だ」
目を細める狂骨に、やれやれ、バレバレだね、と勇儀は頭を掻いた。
――そして、狂骨の表情が険しいことに、勇儀は目を細める。
「何だい?」
「……いや」
訝しんで声をあげた勇儀に、狂骨は口を濁すように視線を彷徨わせて、ひとつ息をついた。
「姐さん、最近、橋姫のところに通ってるんだって?」
「……ああ。それがどうかしたかい」
嫌な予感がした。いや――それは確信と言っても良かった。
それは即ち、さとりから告げられた言葉と、自分の想像の、肯定だ。
「姐さんが誰に惚れようが、それは姐さんの自由だ。儂らがどうこういう話じゃあないのは解っているんだがね――」
「回りくどい話は嫌いだよ」
ピシャリと勇儀が言うと、狂骨は僅かに目を伏せて、呟くように言った。
「――あの橋姫を、こっちに連れてくるのだけは、勘弁してもらえないかい」
ざらり、と砂を噛んだような味がした。
好物のはずのこの店の蕎麦が、急にひどく苦く、渋く感じる。
「どういう意味だい」
鋭く問うた言葉は、店の空気を凍らせた。
狂骨の旦那はびくりと身を竦ませ、けれど言葉を止めはしなかった。
「儂もね、こんなことは言いたくないんだ。けれど、このへんのまとめ役としてね――」
「言い訳はいいよ。――あの子をあんな場所へ追いやったのは、あんたたちなのかい」
勇儀の詰問に、狂骨は静かに頷いた。
「――――!!」
ガシャン、と勇儀の拳が、まだ中身の入った丼を砕いた。汁と蕎麦がテーブルの上に撒き散らされるが、勇儀も狂骨もそんなことには構っていられなかった。
「あんた――何を言ってるのか解ってんのかい? そりゃあ、私らが地上でされたことと一緒じゃあないか」
「解ってるよ、ああ、そんなことは解ってる――」
「地上を追われた私らが、追い出した連中と同じになってどうするってんだい!」
立ち上がった勇儀に、けれど狂骨は臆することなく、勇儀の視線を受け止めた。
「ああ、解ってるさ。姐さんの言い分は解る。その誹りは儂が受けよう。――だが、あの娘を旧都から追い出したのは、故もなくのことじゃあない」
狂骨のがらんどうの眼窩は、しかしそこに確かな意志の光を宿して、勇儀を見つめる。
「姐さんも覚えてるだろう? 足長手長の夫婦の件」
不意に随分と昔の話を持ち出され、勇儀は眉を寄せた。
「あの事件が何だってんだい」
それはまだ、地上と地下との間が閉ざされる前の話だ。旧都に暮らしていた足長手長の夫婦が、仲違いを起こして刃傷沙汰に発展した。手長の夫の浮気が原因だったのだが、足長の妻が夫を追って浮気相手の影女の家に押し入り、夫をメッタ刺しにして、影女に手を出そうとしたところで鬼によって取り押さえられた――という事件である。
取り押さえられた手長の妻は、その後憑き物が落ちたように冷静さを取り戻し、自らがメッタ刺しにした夫にすがって泣き崩れた。夫の方はさすがに妖怪だ、全身を刺されても死にはしなかったが、自分に馬乗りになって凄まじい形相で包丁を振り下ろした妻の姿がよほど恐ろしかったのが、怯えて二度と妻を近づけようとしなかった。
結局、手長の夫は妻に怯え、また自らの浮気が原因という世間体の悪さもあって旧都のさらに奥、人気の無いところに隠遁した。足長の妻の方は夫に捨てられたことを悟ったのち、ふらりとどこかへ姿を消した。旧地獄跡の炎に身を投げたのでは――などと噂されている。浮気相手の影女もまた、旧都の奥の方へ去っていったらしい。
妖怪も、嫉妬に狂うこともある。人間ほどではないにせよ、妖怪も伴侶を求める以上、痴情のもつれというものは存在する。それが珍しく派手な形で表に出た事件――勇儀としては、それだけで今まで記憶に沈めていた出来事だったのだが。
「あの事件の直接の原因は――あの橋姫だ」
「なんだって?」
今の事件のどこに、パルスィが絡む余地があるというのか。
顔をしかめた勇儀に、狂骨はどこか嘆くように息をついた。
「――ああ、そうか。姐さんには、他人を妬むって気持ちが無いんだな。だから、あの橋姫のところに通うなんて――あの娘に惚れたなんて言える。……羨ましいね」
「皮肉のつもりなら、ちいとも面白くないよ」
「とんでもない。……だけどね姐さん。そんなのは鬼だけなんだよ。この地底の妖怪たちも、あんたたちみたいにあけすけにも、強くもなれないんだ」
意味もなく煮えた鍋に視線を落として、狂骨は言葉を続ける。
「あの娘は、嫉妬の心を操る。――あの緑の眼に見つめられた者は、己の心の奥底にある嫉妬の心を、知らず知らずのうちに突きつけられて――やがて、狂うんだ」
「……なんであんたに、そんなことが言えるんだい」
「儂も、狂いかけたことがあるからだよ」
狂骨の言葉はどこまで静かで、どこまでも無感情だった。
――狂骨の奥方が居なくなっていることを、ふと勇儀は思い出した。
「あの娘がここに現れてから、皆がおかしくなった。このあたりの妖怪たちが皆、ギスギスして、余裕の無い目で周囲を睨みつけるようになった。――最初に狂ったのがあの手長の嫁さんだったってだけで、誰が似たような事件を起こしてもおかしくなかった、あのときは」
――それが全部、パルスィのせいだってのかい。
冗談じゃない、と勇儀は叫びたかった。だけど、ああ――だけど。
勇儀はこの狂骨が、いい加減なことを言う妖怪でないことを知っていた。旧都の社会が今の形を為して以来の付き合いである。この店でも何度となく蕎麦をすすり、客に対して、蕎麦に対して誠実なこの店主の味を好んできた。
彼がここまで、確信を込めて言うのだから、それは事実なのだ。
水橋パルスィ。嫉妬心を操る橋姫。
彼女は社会の中にあっては、人々を狂わせる火薬庫のごとき存在――。
「だからって――だからって、」
「他にどんな手段があるっていうんだい、姐さん」
狂骨の問いに、勇儀は答えられなかった。
ここにいるだけで彼女が人を狂わせるなら、追い出す以外の手段など――無い。
『だけど私は、ここにしか居場所がないのよ』
パルスィはそう言った。まさしく、その通りだった。
妖怪の集まる旧都に、彼女の居場所などあるはずがなかった。
「姐さん。儂らは別に、姐さんのことを邪魔はしないさ。姐さんが誰に惚れようが、それは姐さんが好きにすればいい。ただ――この一帯を預かる者として、これだけはお願いする」
そして狂骨は、深々と頭を下げた。
「――あの娘をここに連れ戻すことだけは、止してくれないか。儂らはただ、誰も妬むことなく、平穏に暮らしていたいだけなんだ」
狂骨はそのまま動かなかった。勇儀はただ、その白い骨を見下ろして。
噛んだ唇から、鉄錆の味がした。
握りしめた拳を、叩きつけるべきものは、ここには存在しなかった。
――瞼を閉じると、パルスィの笑顔だけが、ひどく眩しく浮かんで。
勇儀は叫びだしたいのを堪えて――小銭を、テーブルに叩きつけた。
「お勘定だ。釣りは要らないよ」
「――毎度」
背を向けてのれんをくぐった勇儀に、狂骨がふかぶかと頭を下げる気配がした。
入れ違いに、新たな客がのれんをくぐっていく。狂骨の旦那はまた愛想笑いを浮かべて、蕎麦を茹でるのだろう。いつもと変わりなく。
店を出ると、また変わらない旧都の街並み、その喧噪があった。
賑やかな旧都の中央通り、旧地獄街道。そこにある妖怪たちの生の活気。
自分たち鬼が作り上げた、地上を追われた妖怪たちの楽園。
それがこの旧都だった。――そのはずだったのに。
これは何だ。この現実は、何だ。
全てが色褪せて見えた。何もかもが、今の勇儀には、作り物のように見えていた。
何も変わらない。地上でも地底でも、結局は何も変わらないのだ。
人間が、他の妖怪が、自分たちを忌み嫌って遠ざけたように。
この地底でも、忌み嫌われる者は遠ざけられ、居場所を失う。
繰り返される因果。理は廻り、罪は回る。
それが業だというならば――何が、楽園だというのか。
「――――――ッ!!」
虚空を振り仰いで、勇儀は声にならぬ声で吠えた。
その絶叫は、地底に低くこだまして、やがて吸い込まれるように消えていった。
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