プラネタリウムの少女(4)
2009.05.09 Saturday | category:なのはSS(その他)
◇
そして、星空が消えたあとも、ヴィータはしばらく椅子に深くを身を預けたままだった。
涙の跡をごしごしと拭って、もう何も映らないドームの天井を、半ば呆然と見上げる。
まだそこに、星空が見える気がした。はやての生まれた日の星空が。
――と、不意にドームの中に響く足音。ゆっくり首を回せば、天象儀の傍らにあった影が、静かに歩き始めていた。……あの、歌姫の少女。
またどこかへ行くのか。あるいは、もう居ない主を捜して。
ヴィータは立ち上がり、少女の後を追って歩き出す。
――自分がいったい、彼女に対して何が出来るというのだろう?
今にも朽ち果てそうな彼女がまだここにあるのは、きっとそれだけが希望だからなのだ。
ここにいれば、いつかまた主と会えるのではないかという――そんな絶望的な希望。
もう、彼女の主がここに戻ってくることはないと、誰の目にも明らかなのに。
彼女だけがそれを信じずに、ただずっと、思い出の場所で歌い続けている――。
それは不幸だろうか? それとも、どうしようもないほどの幸福なのだろうか?
解らない。ヴィータにはそんなことは解るはずもない、
そして、自分に何が出来るのかも――。
《本日のご来館、まことにありがとうござ、いました》
声。ノイズ混じりの音声に思わず身を竦める。もう一体の機械人形、ほしみがそこにいた。
軋んだ音をたてるボディが、ぎこちなくお辞儀をする。
《引き続きまして、館内展示を、ご覧になりますか?》
「いや――」
ヴィータは首を振る。歌姫の少女は既にドームから出ようとしていた。
《では、またのご来館を、お待ちしております――》
そう言って、ほしみはお辞儀をして――そのまま動こうとしなかった。
単にヴィータが出ていくのを待っているのか、機能を停止したのか、咄嗟に解らなかったけれど。
歌姫の少女がドームを出ていく。ヴィータは小走りに、その後を追った。
――ドームの中に、朽ちかけたガイドロイドは、そのままいつまでも佇んでいた。
そして少女は、昨日と同じように、吹雪の中に足を踏み出していた。
雪を掻き分け歩むその姿を、ヴィータはふわりと中空から見下ろし、追う。
――この少女が朽ちるまで見届ける時間など、今のヴィータにはあるはずもない。
はやてを救う。そのために蒐集をもっと急がなければならないのだから。
だけれども、今は。――この少女の元を、離れる気にはなれなかった。
少女はゆっくりと、雪の中を確かな足取りで進んでいく。廃墟と化した街並みを抜け、ゆるやかな坂を上り、――やがて、その坂道は小高い丘へと上る道に繋がっていた。
「…………あーっ、くそ、じれってぇなぁ!」
いい加減、雪に足を取られながらの少女の歩みに焦れたヴィータは、少女の元に降り立った。
「おい」
反応は無いだろう。そう思いながらも背中に声をかけると――思いがけず、少女は振り向いた。
そのことに驚きつつ、ヴィータは少女の細い身体に腕を回すと、抱えてふわりと浮き上がった。雪を舞い上げて、二人分の身体が風の中に躍る。
「どこに行くんだよ?」
ヴィータがそう問いかけると、少女は黙って視線を動かした。
――丘の上、ぽつんと佇む小さな小屋が、吹雪の向こうにヴィータにも見えた。
「あすこか。――よし、しっかり掴まってろよ」
ヴィータの言葉に、少女は微かに頷くような仕草をして、ヴィータにしがみついた。
自分よりも大きなその身体を抱えて、ヴィータは宙を蹴る。
風を切り、空をゆけば、長い坂道の上にある小屋へもあっという間だった。
「おし、到着だ」
ゆっくり、降り積もった雪の上に降り立つ。少女はどこか呆然と、雪の上でその小屋を見つめた。
木造のコテージのようなその小屋は、既に朽ち果てていた。窓は割れ、屋根の一部は壊れ、ほぼ建造物としての役割を失ってしまっている。
その傍らに佇んで、少女は静かに空を見上げた。どこか祈るような仕草で。
――少女の傍らに、望遠鏡を携えて、笑顔で何事かを語りかける男性の姿が、見えた気がした。
もちろんそんなのは、ただのヴィータの錯覚だったのかもしれないけれど。
ああ、きっと少女はここで、主とともに星を見ていたのだ。
その思い出に今もすがって、この場所に主の姿を探し求めて。
繰り返した日々の残滓を追いかけ続けている。何年も、何年も。
けれど。――ああ、それなのに。
ヴィータも、少女に倣って、風の吹き荒れる空を見上げた。
夜空は厚い雲に覆われて、星などどこにも見えなかった。
この世界に何があったのかなど、ヴィータには知るべくもない。
けれどおそらく――この吹雪は止む事はないのだろう、と思った。
そして、この空から厚い雲が晴れることも、無いのだろう。
少女が主とともに見上げた星空は、彼女が朽ち果ててしまっても、戻る事はない――。
「……なあ、アイゼン」
ふとヴィータは、相棒の鉄槌に小さく語りかけた。
「こんなんは――闇の書の守護騎士たるあたしらしくは、たぶん、ねーよな」
寡黙な鉄槌は、特に答えを返すことはなかったけれど。
ヴィータには、それで充分だった。
――親切を受けたら、ちゃんとお礼をせなあかん。はやてがいつだったか、そう言った。
主の教えは守る。自分たちは騎士だから、ちゃんと。
これは、あの美しい星空と、綺麗な歌声をくれたことへの、ささやかなお礼だ。
「……ありがとな」
少女に歩み寄り、ヴィータは声を掛ける。少女はぎこちない動作で振り向いた。
「あの星空、あんたの歌、綺麗だった。だから――」
そしてヴィータは、再び少女の身体を抱えて、ふわりと浮き上がる。
「今度はあたしが、あんたの星空、取り返してやる」
――そして、一気に加速した。
空へ。雲の向こうへ。星空のある場所へ。
「ぜってぇ離すなよ! 落ちたら無事じゃ済まねーかんな!」
風を切りながらヴィータは叫ぶ。少女は頷いて、ヴィータの身体にしがみついた。
吹き荒れる風。上空を覆う雲はあまりに厚い。――けれど、そんなものを突き抜けられないようじゃ、ベルカの騎士の名が泣くというものだ。
「行くぜ、アイゼン!」
《Jawohl》
鉄槌が応え、カートリッジをロードする。鉄槌が変形、顕現するのはブースター。
《Raketenform》
変形の完了と同時、ブースターが火を噴いた。風を突き破り、ヴィータと少女はさらに加速。
「ぶちぬけええええええええええええええええええええええええええッ!!」
雄叫びを上げ、分厚い灰色の雲の中に、アイゼンを振り上げてヴィータは突っ込む。
視界が暗転し、叩きつけるような空気の中を、息を止めて突き進む。
抱えた少女は、きつくヴィータの騎士服を握りしめ。
ヴィータもその少女の細い身体を離さぬように抱きしめて、
――そして、雲を突き抜けた。
風が消えた。音も消えた。世界が、水を打ったような静寂に包まれた。
まるで宇宙空間に投げ出されたような感覚。ヴィータは一瞬、呆然と灰色の雲を見下ろして、
そして、空を見上げた。傍らの少女と一緒に。
星空が、そこにあった。
輝きの洪水のような、無数の星の瞬きが、頭上に広がっていた。
どこまでも広く、無限に続く夜天に、ぶちまけたように溢れる光の粒。
果てもなく、終わりもなく、手を伸ばせば掴めてしまいそうな、煌めく宝石たち。
その全てを包み込む夜天は、ただ静かに闇を携えて。
雲の上で、ヴィータと少女は、ただ息を飲んで、その果てしない夜空を見上げていた。
そうして、どれほどそのままでいただろう。
不意に、ヴィータの耳元で、囁くような歌が紡がれていた。
それはとても明るい旋律。だけどどこか、ひどく哀しい旋律。
――夜天の下に響き渡るのは、少女の歌う、星のように眩しい、鎮魂歌だった。
ああ、とヴィータは悟る。解っていたのだ、彼女は。
主がもうどこにも居ないことも。どれだけ待ち続けても、もう会えないのだということも。
解っていて、それでも自らが朽ちるまで、あそこで歌い続けることしか出来なかった。
愛した主へ捧げる歌を、どうか主に届くようにと――。
「……届いてる」
気が付けば、ヴィータは震える声で呟いていた。
「届いてるよ、お前の歌……きっと、主のところに。だから――」
少女は歌う。夜空に向けて歌う。失ってしまった大切なものへの歌を。
――それが悲劇なら、どうして歌う少女の顔は、こんなにも安らかなのだろう。
やがて、歌声は星々の輝きに溶けるように消えて。
静寂に包まれた雲の上で、ヴィータはただ、少女とともに星空を見上げて。
「――――あ、り」
耳元で、呼びかける声がして、ヴィータは振り向いた。
抱きかかえられた機械の少女は、朽ちかけたその顔を、ヴィータに向けて。
――ただ静かに、笑っていた。
「あり、が、――――」
言いかけた言葉は、けれど最後まで音になることはなかった。
ふっと、少女の瞳が輝きを失う。
軋んだ音をたてて、その首ががくりと力なく落ちる。
だらりと脱力した機械の身体は。ひどく金属的な音をたてて――沈黙して。
「……おい? 待てよ、おい、」
ヴィータの腕の中で、機械の少女は二度と動き出さなかった。
「…………なんだよ、それ、」
その重い身体を抱きかかえて――ヴィータは、
「お礼は、ちゃんと言わなきゃ、はやてに叱られるんだぞ」
腕が震えた。声も震えた。――全身が震えていた。
「言えよ、……ちゃんと言えよ、最後まで言えよ、馬鹿野郎ッ!!」
人工皮膚が剥がれ、髪は色褪せたその顔は、間近で見れば、決して美しくはなかった。
かつて美しかっただろう姿は、とっくの昔に朽ち果てていて。
「なんで、……なんで、そんなに、お前、」
けれどその顔は、――どこまでも満ち足りた微笑だった。
あまりにも安らかな、永遠の眠りだった。
「――――――ッ!!」
それ以上は言葉にならず、ヴィータはただ、空の中で少女を抱いて、慟哭した。
鉄槌の騎士の涙を見守っているのは、彼女の手にした相棒と、夜天に満ちる星々だけだった。
◇
その後、あのプラネタリウムがどうなったのか、ヴィータは知らない。
残されたもう一体の機械人形は、まだ動き続けているのか。
あのドームには、今もまだ、誰も見る事のない星空が映し出されているのか。
それを知ることは、おそらくもう二度と無いだろう。
ただ、らしくない感傷を浮かべるとすれば。
もしもあの機械の少女にも、魂というものがあったなら。
その魂が、愛した主の元へと辿り着けていればいい、と。
――そんな、本当にらしくないことを、考えるのだ。
そして、思う。
輪廻を繰り返し、無限の生を繰り返す闇の書。
その守護騎士である自分たちの生にも――いつか終わりは来るのだろうか。
もし、もしも……この生に終わりがあるのだとしたら。
最期はどうか、愛した主のそばで眠りたいと、そう思う。
けれどそれは、もっとずっと、後の話だ。
◇
ざぶ、と浴びたお湯の熱に、ヴィータは目を閉じて少しだけ身を竦めた。
ぷるぷると首を振って、滴る雫を飛ばす。吐き出した息はお風呂場の湯気に溶けていった。
湯船では、シャマルがはやてを抱いてその足をさすっている。ヴィータは邪魔にならないように、湯船の反対側でお湯に身を沈めた。
八神家のお風呂は、シャマル、はやて、ヴィータの三人でゆっくり浸かれる程度に広い。そんなわけで、はやてをお風呂に入れる担当がシャマルのときは、ヴィータはくっついて一緒に入ることにしていた。本当はシグナムのときだって一緒に入りたいのだが、シグナムと一緒だと何かと口喧嘩になってはやてに叱られるのである。自分は悪くないのに。たぶん。
「はやてちゃん、気持ちいいですか?」
「ん、ええよー。ありがとな、シャマル」
ぶくぶくとお湯に口元を沈めながら、そんな様子を横目で眺める。……正直、こういうときはシャマルやシグナムが羨ましい。別に自分の姿形にコンプレックスなどは無いが、大人の姿であればはやてを抱いてお風呂に入れるのに――などと考えてしまうのである。
「どないした? ヴィータ」
「……なんでも」
ぶくぶく。首を傾げるはやてに、ヴィータは照れくさいのを誤魔化すようにそっぽを向いた。
『おーい、シャマル。洗剤が切れたんだが買い置きはどこだ?』
と、ドアの向こうからシグナムの声。
「どの洗剤ー?」
『台所のだが』
「流しの下に入っとらん?」
『ああ、主はやて。それが見当たらなくて』
「台所の洗剤やったらこの間買うたよなあ……」
「あ、ひょっとしたら別の場所に仕舞っちゃったかもしれません。……ええと」
困り顔で首を傾げるシャマルに、はやては苦笑した。
「ええよ、探しに行ってき。私なら大丈夫やから。座っとるだけやし」
「あ……じゃあすみません、ちょっと出ます。すぐ戻りますから」
湯船から立ち上がり、バスタオルを手にシャマルはぱたぱたと脱衣所へ出ていった。
――全く、傍から聞いていてもベルカの騎士の会話とは思えない。そんなものが日常的になってしまっていることも、ヴィータたちにとっては特別なことなのだけれども、
「ヴィータ」
ふとはやてに呼びかけられ、ヴィータは顔を上げた。ちょいちょい、とはやてはこちらに手招き。
「なに?」
お湯をかき分けて近付くと――「つかまえた」と、はやての腕がヴィータを抱きすくめた。
「わ」
気が付けば、はやてに後ろから抱き締められる格好になっていて、ヴィータは慌てる。そんなヴィータの耳元で、はやてはどこか楽しげに笑った。
「ん〜、ヴィータも抱っこすると気持ちええなあ〜」
「は、はやて……」
いや、嬉しいのだけれど、これはちょっと恥ずかしい。
困り顔でヴィータが振り向こうとすると、不意にはやてはその頭に、ぽんと手を乗せた。
「……なあ、ヴィータ。……何か、あったん?」
「え――――」
「ちょお、元気ないみたいやったから」
囁かれるのは、どこか心配げな主の声。ヴィータは小さく息を飲んで、またお湯に顔を沈めた。
――主に余計な心配をかけるなんて、全く、騎士にあるまじきことだ。
「なんでもないよ、はやて。あたしはいつも通りじゃんか」
「そか? それなら、ええんやけど」
あの吹雪の世界でのことなんて、誰に話すようなことでもない。つまらない話だから。
「なんや、最近ときどきシグナムたちもピリピリしとるし。……あたし、なんやみんなに心配させてもうてるやろか?」
「そんなことない!」
慌ててあげた声はお風呂場に反響して、はやてもヴィータも思わず目を見開いてしまった。
「……そんなことない。大丈夫だよ、はやて。はやてが心配することなんて、何も無いから」
――そう、そうだ。はやてに心配をかけることなどないのだ。
徐々に、しかし確実にはやてを蝕んでいる闇の書の枷から、はやてを救うために。
自分たちはそのために、蒐集を続ける。
それをはやてが知ったら悲しむだろうか?
だけど。――だけど、それでも、はやてを失うわけにはいかないのだ。絶対に。
だってはやては――こんな温もりを、自分たちにくれたのだから。
「はやてがあたしらの主である限り、あたしらはずーっと、はやてのそばにいるから。はやてを守るから。――何があったって、絶対にはやてを守るから」
そうだ。あの機械の歌姫のような、悲しい物語は、自分たちには似合わない。
はやてのくれた温もりに似合う結末は、いつまでも続くハッピーエンドなのだから。
「……ん、ありがとな、ヴィータ」
きゅ、とヴィータを抱きしめるはやての腕に、微かな力がこもって。
ヴィータはその手を握りしめて、ただ誓いを胸に小さく呟く。
そうして、シャマルが戻ってくるまで、ヴィータはしばらく、そのままでいた。
はやての腕の中で、はやての温もりを、ひとときだけ、独り占めしていた。
◇
荒野に風が吹く。乾ききった風が、荒れた大地を吹き荒れる。
眼前には、巨大な蛇にも似た生物。巨体をくねらせ、牙を剥くその姿を前に、ヴィータはゆっくりとグラーフアイゼンを構えた。
――久しぶりの大物だ。必ず仕留める。
ふっと息を吐き出し、瞼を開いて、ヴィータは地を蹴った。
鉄槌が唸りを上げて、空気を切り裂き、大蛇へと襲いかかる――。
そしてまた、戦いの日々は続く。
闇の書が完成する六六六ページに至るまで、蒐集は終わらない。
その果てにある、温もりの続く未来のために。
八神はやてという主と暮らす、これから長く長く続いていくはずの、日々のために。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
荒野に響く雄叫びを、他に聞く者は居ない。
――彼女たちの蒐集が導く未来を知る者も、今はまだ、居ない。
闇の書の完成まで、残り、415頁。
"Requiem for the Starry Night" closed.
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