プラネタリウムの少女(3)
2009.05.05 Tuesday | category:なのはSS(その他)
◇
夜空が好きだ、とはやては言う。
月が、星が、というわけではなく。夜空全体が、闇の部分もひっくるめて。
朧に輝く青白い月と、散りばめられた星の輝き。それを引き立てるのは漆黒の闇だから。
――だとすれば、我々闇の書の守護騎士は、主という光を引き立てる影ですか。
シグナムがそう言う。なるほど、それは相応しいかもしれない、とヴィータも思う。
自分たちは影。主のために刃を振るい、血と泥に汚れるが役目。故にこそ――闇。
――ちゃうねん、そうやないねん。
けれどはやては首を振る。きょとんと目を見開く自分たちに、笑って答えるのだ。
――みんなの方が、月や星の光や。私はそれを包み込む、夜空そのものでありたい。
ああ、そんなのは全く、分不相応だというのに。
八神はやてという主は、いつもそうやって本当に、自分たちを包み込んでくれるのだ。
――あ、せやけど、ヴォルケンリッターって雲の騎士って意味やったな……。
困ったように首を傾げるはやてに、シグナムが微笑して答える。
――では、我々は夜空の元に集まり守る雲ですね。
――けど、曇ってもうたら星も月も見えへんやん。あかんなあ……。
何だろう。そんなはやての言葉に、何か記憶の片隅が疼いた気がした。
その疼きの正体は、ヴィータには解らなかったけれど。
――何か大切なことを、忘れている。何故かそんな気がして、ならないのだ。
自分たちはいったい、何を忘れてしまっているのだろう。
◇
翌日も、ヴィータはその白色の世界に足を踏み入れていた。
変わることなく吹き荒れる吹雪。色褪せた廃墟の街並み。その中に静かに佇み、星空を映しだし続けているプラネタリウム。中空からそれを見下ろし、ヴィータは静かに吐息する。
前日、ほとんど成果の無かった世界に再び出向くことに、シグナムやザフィーラが怪訝そうな顔をしたが、取り逃がしたデカイのが居たんだ、と言って誤魔化した。
――何故そうまでして、再びこの滅びた世界にやって来たのか。
答えなど、ヴィータ自身にもよく解らなかった。
「…………ち」
意味もなく舌打ちして、ヴィータは吹雪の向こうに見える廃墟に目を細める。
目的があるとすれば、あのプラネタリウムと、そこで歌い続ける朽ちた機械の少女。
今日もまた、あの天象儀は誰も見ることのない星空を映し、少女は誰も聴くことのない歌を歌い続けているのだろう。――もう百年も繰り返してきた無為を、朽ち果てるまで永遠に。
それはまるで、自分たちのようだと。
幾人もの主の元を渡り歩き、蒐集を繰り返してきた自分たちとよく似ていると――。
「……それじゃまるで、あたしらがマヌケみたいじゃねーか」
独りごちる。そう、自分たちの蒐集が無為であるというなら、闇の書とは何なのだ。
闇の書の力。主がそれを求めるから、自分たちは蒐集をする。それが無為であるはずが、
――そして、得た力で、今までの主は何を為したのだろう?
「ぐっ――」
ずきり、と頭の奥が疼いた。浮かんだ疑問がその痛みにかき消される。
ああ、今自分は何を考えていたのだろう。ヴィータにはもう、思い出せない。
得体の知れない思考の残滓を振り払うように、ヴィータはひとつ息を吐き出す。吹き荒れる風の中にかき消される吐息。降り積もった雪に、音は全て吸い込まれていく。
宙を蹴り、ヴィータは風を切って廃墟へと向かう。目指す先、あのプラネタリウムのドームは、廃墟の中で変わらず、静かに佇んでいた。
《ようこそ、三崎天文館へ》
壊れたガラス戸をくぐり、その建物に足を踏み入れたヴィータを出迎えたのは、ノイズ混じりの機械音声だった。
「うお!?」
突然の声に驚き振り向いたヴィータは、闇の中に現れた影に頓狂な声をあげる。
それは、あの歌姫とはまた別の機械人形だった。金色だったのだろう長い髪はくすんで朽ち、歌姫同様に内部機構が露出して軋んだ金属音をたてている。身に纏った制服も既にすり切れ、ぼろきれを被せられた古いマネキンのような姿になっていた。
《二度目のご来館、誠にありがとうございます》
軋んだ動作で、機械人形は一礼する。――どうやら覚えられていたらしい。
《本日は私、ガイドロイド「ほしみ」が、ご案内を務めさせていただきます》
その名前には覚えがあった。ああ、あのプラネタリウムの音声ガイドか。
《次回投影も間もなくですが、先に館内展示をご覧になりますか? それとも、投影になさいますか? 今日の投影は、本日、12月24日の星空を100年前から――》
「……あいつは、居るのか?」
《どなたのことでございますか?》
思わず呟いた問いかけに、機械人形――ほしみは首を傾げてみせた。
「あいつだ。……あの、歌を歌ってた」
《ヴォーカロイド「ミク」でございますね。ミクはただいま、プラネタリウムにて次回投影の準備中です。――館内展示の前に投影をご覧になりますか?》
「……ああ」
《では、こちらへどうぞ》
頷いたヴィータに、ほしみは優雅に片手を上げて歩き出す。ひどく機械的でぎこちない動作のはずなのに、それはまるで、まだこの世界が滅ぶ前、来館者にそうしてみせていたような、手慣れた動作のようにヴィータには見えた。
その後を追って歩きつつ、ヴィータは思う。目の前のこの機械人形や、あの歌姫は、いったいどこまで「この世界」のことを理解しているのだろう――と、
今のヴィータへの対応は、まるである程度の思考能力を有しているかのようで。けれどそれならば、何もかもが滅んでしまった今もこうして、来るはずもない来館者を待ち、誰も見ることのない投影を続けるのは何故なのだろう――。
《こちらでございます》
関節が露出した腕が、耳障りな音をたてながら、重い扉を開いた。そこでヴィータは我に返る。既に、プラネタリウムの入口まで辿り着いていた。
《ただいまの来館者はあなた様のみですので、すぐに投影を始めさせていただきますが――》
扉の前に立ち、ヴィータを促しつつ、ほしみは口を開く。
《お客様。お名前と、生年月日をお伺いしてもよろしいでしょうか?》
「え?」
ヴィータは眉を寄せる。何だというのだ、いきなり。
《お名前と、生年月日です。差し支えなければ》
「……ヴィータ」
《ヴィータ様でございますね。お誕生日は何年の何月何日でしょうか?》
――誕生日? 自分の?
そんなのは全く記憶に無いし、あったとしてもそれは古代ベルカの暦で、今のあの海鳴の暦と対応しているはずもない。何百年前のことだというのかすら定かでないのに。
「…………6月、4日」
だから、ヴィータの口からこぼれたのは、その日付だった。
六月四日。はやての誕生日。――そして、自分たちがはやての元に現れた日。
「2005年、6月4日」
今のヴィータに誕生日があるとすれば、その日付以外に、あり得ない。
《かしこまりました。2005年6月4日でございますね。――では、間もなく投影を始めさせていただきます。お好きなお席にてお待ちくださいませ》
深くお辞儀するほしみ。訝しみつつも、ヴィータはプラネタリウムの中に足を踏み入れる。扉が閉まり、ドームの中が闇に閉ざされた。まあ、夜目は利く。暗闇の中、ヴィータは器用に段差を踏み越え、真ん中あたりの席に陣取った。
あの歌姫は――と視線を巡らせば、闇の中に屹立する天象儀がすぐ視界に入る。
――そしてその傍らに、あの機械の少女は佇んでいた。
変わらぬ朽ち果てた姿で、ひどく透明な視線を虚空へと向けて。
「――――」
何を口にしようとしたのか、ヴィータ自身にも解らなかった。
ただ、発しようとした言葉は、天象儀の動き出した音に飲みこまれてしまい。
『メリー、メリー、クリスマス!』
ほしみのノイズ混じりの声が、スピーカーから朗々とドームの中に響き渡った。
『この聖なる前夜に、ようこそ、三崎天文館プラネタリウムへ。あなたは、7,843,062人目の、星空の旅人です』
――聖なる夜。クリスマス。それは、ヴィータにも覚えがあった。はやてから聞いている。あの世界の風習、聖誕祭と呼ばれる日。――12月25日。
そして、歌声が響き出す。それはあの歌姫の、朗々とした澄んだ歌声。
Dashing through the snow in a one-horse open sleigh,
O'er the fields we go, Laughing all the way――
その軽快なメロディには、聞き覚えがある。
『本日の投影は、この聖なる夜、12月24日の星空を、100年前の2005年から遡り、皆様とともに100年分の聖夜を追いかけていきたいと思います』
Jingle bells! Jngle bells! Jingle all the way!
――ジングルベル、ジングルベル、鈴が鳴る。
Oh, what fun it is to ride in a one-horse open sleigh!
――今日は楽しいクリスマス。
『それでは参りましょう。――2005年12月24日。今からちょうど、100年前の星空です』 頭上に、満天の星空が瞬いた。
無数の星屑を散りばめた夜天。その煌めきに、ヴィータはまた息を飲む。
歌姫のゆるやかな歌声に身を任せて、吐息も忘れて星を見上げた。
2005年、12月24日。――クリスマスイヴの星空。
ヴィータの知る暦では、今は2005年の11月のはずだった。だとすればこの夜空は、これから来るクリスマスの夜空なのか。
――自分が来たのは、別の次元世界ではなく、あの世界の未来なのかもしれない。
ああ、だけど、もしそうなのだとしたら――100年後には、あの世界も。
『今から100年前、この三崎天文館も今と変わらず、ここで星空を映し出していました。100年が過ぎ、天文館も星空も、今もまだここにあります。それもまた、奇跡のようなことなのかもしれません』
けれど、その奇跡を見届けるのは、ひどく無粋な闖入者だけだった。
『星空も、この天象儀も、100年前から変わらず、私たちを見つめているのです――』
もう、見つめるべきものも、この世界には存在しないのに。
彼女たちはいつまで繰り返すのだろう。このひどく無惨な、喜劇じみた舞台を。
――そして、自分たちは。
あんな悲劇をいつまで繰り返そうというのだろう?
「つ、ぅ――」
また、頭痛。甦りかけた記憶の残滓が、再び意識の奥底へと沈んでいく。
顔をしかめながらも、ヴィータは無為な思考を振り払い、背もたれに身を預け空を見上げた。
天象儀の空。暗闇の中に描き出された星屑のイルミネーション――。
『2006年の、12月24日の星空です』
そして、星空は100年の時を追体験していく。大きく変わることはなく、しかし少しずつ見せる瞬きを変えていく100年分の星空。生まれては消える光芒は、刹那に似た永劫の輝き――。
この世界が滅んだのはいつだろう。自分は34,000日ぶりの来館者だったはずだ。来館者が途絶えて間もなく滅んだのだとすれば――およそ90年と少し前。
過去から現在へ向かう星空の軌跡。それはいつかの、この世界の滅んだ日を越えて、彼女らの日常のように変わりなく、ドームの中に映し出されていく。
その中でまた語られる、いくつかの星と星座にまつわる物語。それを紡ぐのは、歌姫のときに激しく、ときに柔らかな歌声。
いつしかヴィータはまた、そんな星空の世界に身を任せて、
『――そして、2105年12月24日。今日の星空です。……100年ものを時を越えてきましたが、その瞬きが今こうして、僅かな時間でここに映し出せてしまうように、星々にとっても100年などという時間は、きっとほんの刹那のことに過ぎないのでしょう』
永劫の時を重ねる星々にとって、100年が刹那ならば。
死を知らず、永劫の生を生きる者にとっても――それは刹那に過ぎないだろか?
ふとそんな思いに沈んでいるうちに、星空は消えていた。投影は終わりだろうか。ヴィータは深く息を吐き出して、座席から立ち上がろうとし、
『では、最後に。――34,200日ぶりの来館者である、ヴィータ様へ』
不意に呼びかけられ、ヴィータははっと頭上を見上げた。
『聖なる夜の、ささやかな贈り物を――』
そして、映し出されたのは、また一面の星空。
けれどそれは、今まで映し出されていた冬の星空ではない。
『2005年6月4日。あなたが生まれた日の、星空です』
「あ――――」
それは、夜天の煌めきだった。星屑を包み込む、漆黒の暗闇の輝きだった。
描かれる星々は眩く、雨の夜景のように滲む。
6月4日。はやての生まれた日。自分たちの、今の暮らしが始まった日――。
全ての始まりを包み込む夜天が、ヴィータを静かに見下ろしていて、
「…………あれ?」
いつの間にか、頬をあたたかい何かが伝っていた。
それが涙だということが、ヴィータには咄嗟に理解できなかった。
自分がどうして泣いているのかも解らないまま。
ひどく滲んで不鮮明な夜空を、ヴィータはそのままじっと見上げていた。
ある朽ち果てた日記(3)
8月25日
ここ最近、何やら世間は不穏なニュースが続いているらしい。どうにも世情というものには疎くていけない。松崎君にも「星ばかり見ていないで、もう少しニュースも見ましょうよ、館長」と苦笑されてしまった。
自覚してはいるのだが、夜空を見ていれば、この惑星のことなどあの空から見ればちっぽけな光点のひとつに過ぎないのだ、と思えてくる。そうなるとあまり、世俗のことに振り回されるのも馬鹿馬鹿しくなってくるのだ。海の向こうで核実験が行われようと、民族紛争が勃発しようと、自分が星を見ることに対しても、この天文館に対しても影響は無いのだから。そんなことを言うと、スタッフの皆には「またこの館長ってば」と呆れられるのだが。
しかし実際、夜空を見上げるというのは世俗から一時的に解き放たれることだと思う。満天の星空の下、自分という存在の小ささを思い知れば、重大な悩みもささやかなことに思えてくる。忙しなく暮らす人々にとって、この天文館のプラネタリウムが、そんな小さな救済になるならば、それはなかなかに結構なことだと思うのだ。
さて、歌うガイドロイド作戦の開始から一月半ばかりが経過した。前回の日付を見れば初日の前日なのだから、全く日記ではなく月記である。次は一週間以内に書くことにしたい。
ともかく。作戦の状況はといえば、有り難いことに非常に順調である。
何しろガイドロイド一台の購入に難儀する経営状態である。宣伝費もそれほどかけられるわけではなかった。簡単なポスターと、公式サイトでの告知ぐらいのものだ。あとは常連からの口コミ任せという何とも心許ない状況だったが――幸い、それが上手くいった。
最初の数日はいつも通りまばらな客の入りだったが、ミクの歌を合わせた新プログラムはなかなか新鮮であったと、常連からの反応は上々だった。顔なじみの彼らの意見を聞きつつ改良を加えていく中で、ウェブでの天文系の大手コミュニティでここの新プログラムのことが紹介されたのが決め手になった。来館者は徐々に増え、数日前には何年ぶりかに一日の投影回数を増やすことになった。数ヶ月前には考えられない賑わいである。
プログラムの根幹を担うミクの歌は、予想以上の好評を持って受け入れられた。「単なるBGM代わりでは面白くない、歌を通して星空の『世界』を魅せる方向性でやってみないか」という篠原の提案が、結果として成功した。星は静かに見るもの、という固定観念があった私には、星座の物語に合わせて力強い歌を聴かせるという発想は出てこなかっただろう。新しい視点は導入してみるものだ。硬直した思考では現状維持以上のものは出てこないのだから。
「星空を見上げているだけなのに、華やかなミュージカルを観ているようだった」――ある来館者の感想だ。元来星空を見上げるという行為は、星の輝きそのものの向こうに、様々な想いを巡らせ仮託することにこそ意味がある。そういう観点からしても、ミクの歌を借りて星空に無数の「物語」を見せるプログラムは正解だったのだろう。
初めは天文ファンが中心だった来館者も、家族連れやカップルの姿も見られるようになってきた。人々が星空への興味を取り戻してくれつつあるなら、これほど嬉しいことはない。
当のミクはといえば。スタッフの皆には非常に可愛がられていた。
ガイドロイドとしてコミュニケーション能力のあるほしみと違い、ヴォーカロイドのミクはあくまで歌うだけだ。普段は感情の表現もなく、あくまで機械の人形という様子で静かに佇んでいる。それが歌い出せば、まるで人間のように表情豊かな歌声を響かせるのだから、ヴォーカロイドというものは良くできているものだと思う。もちろん、篠原の調律のおかげでもあるだろうが。
そんなミクでも、スタッフたちはとても可愛がってくれていた。食べるはずもないのにお茶菓子をあげようとする川辺君、まるで同僚にするように世間話を振る松崎君。頷いたり首を傾げたり、簡単な反応しか返さないミクだけれども、むしろスタッフたちはそれをおもしろがっている節すらある。あまりミクを困らせないでやってほしいものだが。
仕事の無いとき、登録上のマスターである私の後ろを、ミクはよくついてくる。観測に連れ回した影響なのかもしれないが、スタッフなどには「娘さんかお孫さんみたいですよ、館長」と言われる始末。この歳まで妻もなく、星と望遠鏡が恋人のような人生を送ってきたが、今更こんな娘ができようとは全く予想外である。
観測には今も必ずミクを連れて行っている。篠原の言ったことが実際にどの程度効果があったのかは解らないが、何だかんだ言って私もミクとの天体観測を楽しんでいるのかもしれない。子供と一緒に望遠鏡を覗いて、夜空を見上げて語る。そうして子供も星の世界に馴染んでくれれば、確かにそれ以上のことは無いのだ。
ミクが星についてどの程度理解し、興味を持っているのかなど、私には推し量りようもないのであるが。星の物語を歌うことを、ミクが楽しんでくれていればいい、と。そう思う。
ともかく、三崎天文館は数年ぶりに活気を取り戻しつつあった。
スタッフたちもやる気満々で、投影以外の展示内容の見直しや、特別展の企画など、この機を逃すまいと精力的に働いてくれている。
無論、今の活況もそうそういつまでも続きはしないだろうが、以前よりも来館者数を高い水準で維持することは努力次第でなんとでもなるはずだった。
何はさておき、このままいけば三崎天文館を私の代で潰す羽目にはならなくて済みそうである。それが一番、私自身ほっとしているのだった。
9月3日
結局一週間以上空いてしまった。まあ、十日は空いていないので良いとしよう。
昨日は久しぶりに篠原に呼び出され、ふたりで飲んだ。うちでの仕事が終わったあと、篠原の方は久しぶりに大きな仕事の依頼があったらしい。なんでもウェブ配信番組のBGMの作曲を任されたとか何とか。それが一段落したから一杯付き合え、というわけで呼び出されたのだった。
「噂に聞いたが、好評だそうじゃないか」
篠原はそう言って、赤い顔で上機嫌に笑った。昔から大して呑めもしないのに酒が好きな奴だった。呑めはするがあまり飲まない私とは対照的である。
実際のところ、ミクの歌が好評なのは篠原の調律の腕が良かったおかげだと思っていた。だから素直に私が感謝を述べると、篠原はどこか不敵に笑って、私の肩を叩いた。
「俺のした調律は、あくまで機械人形の機械臭さを抜くだけだよ。それが『人間らしく』なっていったなら、それはお前の『想い』がちゃんとあの子に届いたってことだ」
酒が入っているとはいえ、相変わらずくさいことを言う男である。
「ヴォーカロイドにはな、他のアンドロイドには無い『心』があると俺は思ってる」
ふっと真顔になって、篠原は言った。
「歌うことしかできない分、彼女たちは純粋だ。その歌声は、澄み渡りもすれば濁りもする。持ち主に愛されたヴォーカロイドの歌は澄んでいるんだよ。それは本当に無垢な『心』だと俺は思う。音楽は『想い』の形だ。ヴォーカロイドはあくまで楽器と割り切る作曲家も多いが――俺はやっぱり、持ち主の『想い』が宿るヴォーカロイドが、どんな最新型より最高だと思うね」
酒が回っているのか、言っていることがいささか支離滅裂気味だった。私が苦笑すると、篠原はずいっと私に顔を近づけて、酒臭い息を吐きかけながら言った。
「お前はちゃんと、あの子を愛してやれよ」
ああ、全く本当に、くさいことを言ってくれる。
その帰り道、天文館に立ち寄ったのは本当に偶然だった。
久しぶりにアルコールを入れて、思考力が散漫になっていた。早く帰って寝ようと思っていたはずなのに――何故か足は職場の方へと舞い戻っていた。
気が付けば私は、灯りの消えた三崎天文館の前に佇んでいた。
もうスタッフも皆帰宅してしまって、ミクやほしみも電源を落とされているはずだった。閉ざされた入口の前で、私は呆然と、見慣れた職場を見上げていて、
足音がして、振り向いた。そこにあった姿に、私は驚いて声をあげてしまった。
ミクだった。闇の中、その透明な瞳で、私をじっと見つめていた。
なぜミクがまだ起動して、こんなところに? 混乱する私は、そこでようやく、ポケットの中で携帯電話が震えていることに気付いた。手に取ってみれば、松崎君からの着信。
『ああ、館長、やっと繋がった。まだ呑んでますか?』
呆れたような声で松崎君は言った。私がもごもごと曖昧に答えると、彼は続けて、
『呑み終わったら、天文館に寄ってください。ミクちゃんが、館長を待ってます』
はっと、私はミクを見つめた。私を見つめ返すミクの瞳は、どこかすがるようだった。
通話を切り、ミクに向き直った。酔いはすっかり消し飛んでいた。
どうしたんだ、と私は問いかけた。
ミクは黙って、視線を上に向けた。それに倣うと、星空が見えた。
そしてミクは、ぎゅっと私の手を握りしめた。それで私は、理解した。
いつものように、一緒に観測に行きたかったのだ、ミクは。
スタッフが電源を落とそうとしただろう。それも拒否したのか。私が戻る保証など無いのに。
ミクが、私を見上げた。透明な瞳が、けれどどこか、寂しさと喜びとに満ちていた。
『ヴォーカロイドにはな、他のアンドロイドには無い『心』があると俺は思ってる』
酔った篠原の言葉が思い出された。その言葉は的を射ていたのだと、私は悟った。
今、私の目の前にいるこの少女に『心』が無いなど――私には信じられなかった。
私は黙って、ミクの頭を撫でた。ミクは目を細めて、心地よさそうにその手に身を任せた。
――今から星を見に行こう。私がそう言うと、ミクは嬉しそうに頷いた。
そして遅くまで、いつもの観測ポイントで、また星の話をミクに聞かせた。
きっとミクは、そんな時間を楽しんでくれていたのだと、私は思う。
『お前はちゃんと、あの子を愛してやれよ』
言われるまでもない。この子は私の大切な娘なのだ。そのことを、私は自覚した。
10月8日
歌うガイドロイド作戦――この呼び名ももう懐かしいが――開始から三ヶ月が経った。
評判が評判を呼び、三崎天文館は連日大にぎわいの満員御礼――というほどではなかったけれども、一日平均の来館者数は以前に比べれば飛躍的に伸び、高水準を維持し続けている。
篠原の作ってくれた曲のバリエーションは豊富で、組み合わせを色々変えることで様々なパターンのプログラムを作ることが出来た。というか、来るたびに新鮮な気持ちで星空を見上げてほしいというその想いから、ついつい色々とプログラムを作りすぎてしまったのであるが。
ミクの歌も評判は良く、随分高性能な最新型でも導入したのかと問われることがある。そう聞かれたときは、「いえ、彼女はただ星が好きなだけの旧型です」と笑って答えることにしていた。すると大抵の人は首を傾げるのだけれども、私にとってはそれが紛れもない真実なのだ。
ミクに関して言えば、最近の大きな変化は、笑うようになったことだ。
それはミクの無表情を見慣れたスタッフにもよく解らないような微細な変化なのだけれども、私には解る。星を見ているとき、星の話を聞いているとき、ミクは楽しそうに笑う。そして篠原の作った曲に乗せて、私の詞を歌うとき、とても楽しそうに歌うのだ。
馬鹿なマスターの錯覚と笑われるかもしれないが、いいではないか。
ミクはもう、私にとってはただのヴォーカロイドではなく、大切な娘なのだから。
娘を溺愛しない父親などいないのだ。要するにそれだけの話である。
そんなわけで三崎天文館の経営は順調なのだが、世の中の情勢は何やらますますきな臭いことになっているようだった。大国同士の関係悪化だの経済不安だの、発展途上国の核武装だのといった話題が連日ニュースを賑わせている。……という話を、よくスタッフたちがしている。
ひょっとしたら近いうちに大きな戦争が起こるかもしれない。そんな噂まで流れているらしい。
もちろん平和なこの国にとっては、あくまで対岸の火事でしかないのだろうけれども。
天文館の来客が増えたのは、ミクの歌の評判もあってだろうが、そんな世界情勢への不安を紛らわせるために人々が星空を求めた結果なのかもしれない。
それはそれでいいことだと私は思う。星を見上げることで、悩みや憂鬱、不安に少しでも光が射すならば、それに越したことはないのだ。
百年前から変わらずここにある三崎天文館は、これからも人々の癒しでありたい。
11月15日
天文家として、悲しむべき事態が起こった。
三週間前、西欧と東欧の間に勃発した戦争で、ネーデルラント公国が焦土と化したという。
ネーデルラントの小都市フレンケルには、世界最古のプラネタリウムがあった。三百年以上も正確に稼働し続けているそのプラネタリウムは、天文ファンには聖地に等しい。
それが、戦火により焼失してしまったというのだ。
私も若い頃、少ない有り金をはたいて西欧を歩き回ったことがある。そのときに一度だけ、そのプラネタリウムを見たことがあった。三百年以上前に造られ、今も変わらず星空を映し出すその機械の芸術性に見とれ、映し出された星空の変わらぬ美しさにただ溜息をついた。
私がこうして今、天文館の館長をしているのも、そのときの体験があったからだ。
やるせない、という言葉では済まされない。深い悲しみを、私は味わっている。
戦争は人の命だけでなく、人の積み上げてきた文化も技術も歴史も壊してしまうのだ。
世界情勢に疎い私には、今起きている戦争の意義も価値も解りはしない。だがそれが、あのプラネタリウムの星空を奪ってまでするべきことだなどとは信じられはしなかった。
しかし、今ここにいる私は無力だ。失われた星空を取り戻すことは出来はしない。
私に出来ることは、この天文館で星空の美しさを人々に伝えることだけだ。
戦争は泥沼化しつつあるという。他の地域にも戦火は飛び火しているらしい。
中立国であるこの国にも、いずれ火の粉がかかるのではないかと言われている。
――もしこの国が戦場となったとき、このプラネタリウムは無事で済むだろうか。
このプラネタリウムを残して逃げろと言われたら、私はどうするだろう?
そして、そのとき、ミクは一体どうなるのだろう?
12月6日
ついにこの国も戦争に巻き込まれた。
そろそろこの日記を書く余裕も無くなるかもしれない。
この街まで戦火が来ないことを、祈るしかない。
12月20日
恐れていた事態が起こった。
この街全域の住民への、避難勧告である。
人の避難が最優先、と役所の人間は言った。当たり前である。住民を逃がすのが精一杯の状況で、プラネタリウムの移設など出来るはずがない。――そして、ガイドロイドやヴォーカロイドを一緒に避難させるという選択肢も、私たちには与えられなかった。
ほしみとミクは、このプラネタリウムに残して避難せよ。
――そんな勧告に、私が従えるはずはなかった。
ミクはもちろん、二十年もこの天文館で働いてくれたほしみも、私にとっては家族だ。
家族を置いて自分だけ逃げろなどと言われて、頷けるはずはなかった。
三崎天文館は本日付けで一時的に閉館する。
スタッフたちは休職扱いにした。またいつでも彼らがここに戻って来られるように。
そして私は、役場の勧告を無視し、このプラネタリウムに居座ることを決めた。
今私は、灯りの消えた天文館の事務室でこの日記を書いている。
数日中にも、この街は戦火に包まれるという。
五十年近く生きて、思い返せばいくつか悔いのようなものはあるが、さほどのことではない。
星を見て育ち、星を見せる仕事に就けた私は、充分に幸せな人生だったと思う。
ならばその最後は、自分の映し出す星とともに朽ちるというのも、悪くはない。
――もし。もしも。
私が死んだ後も、このプラネタリウムが残っていて。ミクとほしみがまだここに居たら。
そのとき、ここを訪れた誰かが、この日記を見つけたなら。
そんな億にひとつと無さそうな奇跡が、もしも起こったならば、どうか。
もういいんだ。ゆっくりとお休み。――そう、伝えてやってほしい。
誰も居ない世界で、誰も見ることのない星空の下で、彼女たちが泣くことがないように。
どうか。
12月24日
クリスマスイブだ。
街並みにイルミネーションは無い。
私は今日も、ミクとほしみと、プラネタリウムの星空を見上げている。
メリークリスマス。
メリークリスマス。
大事な娘に、クリスマスプレゼントも用意してやれない駄目な父親を許してほしい。
メリークリスマス。
お前の歌が、父さんはとても好きなんだ。
メリークリスマス、ミク。
ああ、星空がとても綺麗だ。
この小さな星の物語が、どこか別の星で描かれているだろうか。
その歌を――ミクは歌っているだろうか。
メリークリスマス。
メリ
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