東方野球in熱スタ2007異聞「さよならの代わりに」(前編)
2009.03.12 Thursday | category:東方SS(東方野球)
捕手の背番号「27」の源流となった、今となってはその名を語られることもほとんど無くなった戦前の名捕手。俊足強肩、何よりも闘志あふれるプレーで観客を沸かせ、沢村栄治と黄金のバッテリーと呼ばれた彼の名前は――吉原正喜。
というわけで、神奈子様の思い出話第2弾でございます。まずは前編。
というわけで、神奈子様の思い出話第2弾でございます。まずは前編。
もう、よほどの野球好きでも、あの人の名前を知っている者はほとんどいない。
ここは、外の世界で忘れ去られたものが流れ着く場所。
それならば――あの人に会えるのではないだろうか。
そんな淡い期待を抱いたことが、無いと言えば嘘になる。
結局、あの人は骨も見つからなかったのだ。
ひょっとしたら、彼はこの世界に迷いこんでいるのではないか。
この世界で今も――大好きな野球を続けているのではないか、と。
もちろん、そんなことはあり得なかった。
けれど、今はそれで良かったのだと思う。
あの人の名前が、あの人のプレーが忘れ去られ、幻想になったとしても。
その魂は、きっと今に受け継がれているのだ、と。
――そんなことを、願う。
◇
洩矢諏訪子は憤慨していた。全く、人を馬鹿にするのも大概にしてほしい。
きっかけは、早苗の勘違いと暴走である。例の野球騒ぎで敗れ去り、今度は自分で野球をやって勝つのだ、と努力の方向音痴ぶりを発揮しだした早苗に、神奈子はとことんまで付き合うと言った。諏訪子としては今でも止めておくべきだったのだと思うが。
そんなわけで、既知の妖怪や神らに声をかけ、どうしても足りない枠は例のチームの控えを引き抜いて、結成された新チーム。
名前は「守矢フロッグス」にしよう、と言い出したのは神奈子だった。カエルの名をチームに冠することについて、諏訪子としては異存は無いのだが、神奈子なら「スネークス」にする方が自然だと思う。ので、それについて尋ねてみたところ。
お前さんに重要な仕事を任せたい。だからフロッグスなのだ、と神奈子は答えた。
重要な仕事。まさか監督か、と諏訪子は驚いた。正直に言って、諏訪子は野球には詳しくない。それをやるなら年季の入った野球好きの神奈子の方が適任だし、そもそも今回の件の発端を考えれば早苗がそれをやる方がさらに自然な流れのはずだが――。
しかしそんな諏訪子の思案を余所に、神奈子は笑顔で言い放った。
『マスコットだよ』
思わず鉄輪で殴った。とてもいい音がした。
その後神奈子に注連縄でシメられた。本気で死ぬかと思った。
――そんなわけで。
「ナイスボール、早苗」
守矢神社境内、特設ブルペン。諏訪子はそこで、早苗の球を受けていた。
元々、諏訪子自身は野球をする気はそんなに無かった。昔から少々思うところもあって、野球自体にそんなに興味は無いのである。早苗に連れ出されての、あのチームの観戦でも食べてばかりいたわけで。
が、だからといってマスコット扱いというのもあんまりである。向こうから引き抜いた選手にはそのへんの妖精も紛れ込んでいるのに、曲がりなりにも土着神の頂点たる洩矢諏訪子がマスコットでは沽券に関わる。関わりすぎる。カリスマ大暴落である。
というわけで、諏訪子は捕手を志願した。それも早苗の専属捕手を。
早苗のスタミナの無さが露呈して、抑えで行くことが決まった頃の話だ。早苗登板時の限定捕手ならば、野球に詳しくない自分でもチームに迷惑をかける範囲は小さい。リードはいっそベンチから神奈子に指示してもらえばいいのだ。
だいいち、早苗の女房役を他の誰かに譲るわけにはいかなかった。たとえ神奈子といえども。
「次、フォークいきます」
早苗が宣言し、ボールを指に挟む。が、投じられたボールはあまり直球と変わらない速度でほとんど落ちないままミットに収まった。これではキレのないSFFである。
「やっぱりフォークは無理だよ早苗。手、小さいもん」
「うう……」
早苗の指の長さでは、ボールを深くまで挟み込めないのだ。あの紅白巫女への対抗心からか早苗はフォークを投げたがっているようだが、できないものは仕方ない。
幸い早苗はコントロールがいいし、スライダーのキレもいい。神奈子からも「空振りの取れる球だね、決め球になるよ」とお墨付きだ。そっちを磨いた方がよっぽど賢明であることぐらいは、諏訪子にも解る。
「こればっかりは仕方ないんだから。大丈夫、フォークが無くたって早苗のスライダーなら抑えられるよ。ううん、私が抑えさせる」
「諏訪子様……」
「だから、頑張ろ、早苗」
「……はいっ」
早苗の肩を叩いて、キャッチャーボックスに戻る。マウンドの早苗から投じられるのは直球。ぐっと手元で伸びるそのボールをミットに収めて、諏訪子はふと思う。
マウンドで細い身体をしならせ投げ込む早苗の姿、その気迫。
――神奈子がかつて夢中になったのも、こんな一途な想いの形だったのかもしれない。
◇
修行中とはいえ、基本3人で暮らしている神社での生活は、一日中野球だけをやっていては回るものも回らなくなる。
そんなわけで、早苗は練習の合間に、いつも通り家事全般をこなしていた。
まあ、幻想郷に来て以来、学校に行っていた時間がまるまる浮いてしまって手持ち無沙汰なことも多かっただけに、それほど負担ではなかった。
「さてと――」
ハタキを手に、早苗はその部屋の前で立ち止まる。
そこは神奈子の寝室である。ああ見えて、神奈子は割と自分の身の回りに関しては無頓着なところがある。明け方まで飲み散らかした格好のまま雑魚寝している神奈子と諏訪子を叩き起こして、宴会の後片付けをするのもいつものことだ。修行に入ってからは、神奈子も諏訪子も宴会は控えているようだけれども。
ともかく、定期的に早苗が片付けをしないと、神奈子や諏訪子の部屋は散らかり放題になってしまうのである。というわけで、神奈子を部屋から追い出して、早苗はその日も片付けに乗り出した。
どこに何があり、何をどこに片付けるべきなのかは把握している。というか、ほとんど早苗が整頓したようなものなのだから当たり前だが。ハタキをかけつつ、雑然とした部屋を早苗は黙々と片付け――。
「……あら?」
見慣れない木箱があるのに気付いて、早苗は手を止めた。テーブルの上、酒瓶の影に置かれていたそれは、10センチ四方程度の小さな檜の木箱。
「何かしら」
少し逡巡して、それから早苗は蓋に手を掛けた。かた、と小さな音をたてて、蓋は簡単に外れ――中に入っていたのは。
「……これ、野球のボール?」
それは随分と古びた、くすんだ色のボールだった。一目で年代物だと分かる。手に取ってみると、今早苗の使っているボールに比べても明らかに材質が安っぽい。
以前、神奈子が話してくれた昔の野球の話を思い出した。じゃあ、これは――
くるりと手の中で転がしてみて、予想が的中したことを早苗は知った。掠れた文字で、ボールの表面に名前が記されている。――『澤村榮治』と。
沢村栄治。神奈子があのとき語ってくれた、戦場に散ったプロ野球創生期の大投手――。
だとすればこれは、神奈子の宝物に違いない。慌てて早苗はそのボールを木箱に戻そうとして、手が滑って床に落とした。
「ああっ」
転がるボールを追いかけて拾う。埃を払い、今度こそ大事に木箱にしまい直そうとして、
――反対側にもうひとつ、名前が書かれていることに気付いた。
掠れた文字に、早苗は目を細める。……『吉原正喜』。そう書かれているようだった。
「吉原……?」
どこかで聞いたような気もする。早苗が眉を寄せていると、
「さなえー。洗濯物畳んだよ〜」
と、ひょっこり諏訪子が顔を出した。「あひゃ!?」と思わず悲鳴をあげて、早苗はまたボールを落としそうになる。危ない危ない。
「どしたの?」
諏訪子がこちらを覗きこむ。「あ、諏訪子様……」と早苗は少し気まずさを覚えながらも、そのボールを諏訪子の前に差し出した。
「……あ、それ」
諏訪子が目を見開く。早苗の手からボールを取り上げて、確かめるように文字をなぞった。
「懐かしいなあ。あの時のだ」
「諏訪子様、ご存じなんですか?」
はい、と返されるボールを受け取って、早苗は改めてボールを木箱に仕舞う。
沢村栄治のサインボール。ファンだったというのだから神奈子が持っているのは不思議ではないけれど、諏訪子がそれに覚えがある、というのは意外だった。野球は昔から興味無かったと言っているのに――。
「ん、神奈子から沢村の話は聞いたんじゃなかったっけ?」
「聞きましたけど……このサインボールについては、何も」
「あ、そっか。……早苗、聞きたい?」
にっ、と諏訪子は笑う。むしろ諏訪子が話したいのだろう、と思いつつ、早苗は頷いた。
「んじゃ、ちょっと昔話しよう。70年前の、神奈子のちょっと恥ずかしい話をね」
座布団に腰を下ろして、楽しげに諏訪子は言う。
その向かいに座って、早苗は小さく首を傾げた。――恥ずかしい話?
「そう、神奈子が一番、野球に熱をあげてた頃の話だよ――」
◇
あの頃ね、久実――早苗のおばあちゃんだね。久実の悩みは、神奈子の無断外出だったんだ。突然ふらっと姿を消して、またすぐ戻ってくるんだけどね。どこに行ってるのか、久実が問い詰めてものらりくらりはぐらかすばっかりで、何も言わないんだよ。
で、久実は私の方に聞き出してくれないかと頼んできた。まあ私も気になってたから、軽くつついてみたんだよ。けどまあ、やっぱり口を割らないわけ。
そんなわけだから、その次に無断外出したときに、こっそり後をつけてみたの。
そしたら何とびっくり。神奈子ったら人間の小娘に姿を変えてね、野球場に入っていくんだよ。まあ、あの頃は私は野球なんて知らなかったから、何をやってるんだかさっぱり解らなかったんだけど。
私も仕方ないから人間の子供に姿を変えて、球場に入り込んでみたわけ。で、神奈子の姿を見つけてびっくりするのと一緒に呆れたね。そこらへんの人間と一緒に、わいわいきゃーきゃー騒いでるんだよ。あの神奈子がだよ?
私が近付くと、気付いた神奈子はすっごい気まずそうな顔してねー。『何やってんのさ、こんなところで』って聞いたら『ああ、いや、今日はね、沢村がね?』なんてわけのわからないこと言い出すんだよ。
『久実が心配してるからさっさと帰るよ』って、その時は引きずって帰ったんだけど、帰り道中ずーっと、『せっかく沢村が、沢村が投げてたってのに』ってぐちぐち言い続けてるわけ。
『沢村って何さ。そんな人間の格好までして何やってるのさ』って私が聞いたらね、『そりゃお前、沢村は沢村栄治に決まってるじゃないかい!』なんて、そんなこと言われても私は知らないっての。『ああもう、いいところだったってのに、沢村の完封見逃しちまったじゃないかい、もう何てことしてくれるんだい』なんて、なんで私が怒られなきゃいけないのさ。
それでまあ、その日は連れて帰ったんだけどね。やっぱり無断外出はその後も続いたわけ。何か変な球遊びを見に行ってた、って私が報告して、久実がそれを問い詰めて、ようやく神奈子は白状したよ。沢村栄治を見に野球観戦に行ってた、ってね。
呆れる久実と私にね、神奈子は突然懇々と語り出したんだよ。沢村栄治がどんなに凄いか、どんなに速い球を投げるか、どんなにその姿が格好良いか、そんなことを延々とね。そう言われたって、私も久実も全然野球のことなんか知らないわけだからさ、何を言われてもさっぱりだよ。それでもね、語る神奈子の目はもうキラキラしててねー。歳を考えなよ歳を、とは思ったけども、あんな楽しそうに語られちゃどうしようもなかったわけ。
で、結局久実が根負けして、事前に許可を取ってから、ちゃんと神であることを隠して行くっていう条件で、神奈子の野球観戦を認めた。もう、嬉しそうだったねー、あのときの神奈子ってばさ。それで何を勘違いしたか、今度は私や久実に一緒に行こう、見に行こうってしつこく誘うようになってね。そんな、全然知らないものを延々語られたってこっちはどうしろっていうのさ。
――うん、まあ、そういうこと。私が野球に興味無かったのはそのせい。もうあの頃の神奈子ってば、口を開けば二言目には沢村だ、景浦だってね。私も久実も辟易してたわけ。
その年の秋に、タイガースとの優勝決定戦で沢村が全部投げて勝ったってね。その話なんて何回聞かされたっけ。まるで子供だったよ、あの頃の神奈子ってばさ。
まあ、長い付き合いだけどさ。神奈子があんなに何かに夢中になるのなんて、私も見たことなかったからね。こっちに迷惑かけなきゃ、別にいいかとも思ってた。実際はまあ、話し好きだからねえ、神奈子。同じ話を何回もするのはやめてほしかったよ、うん。
それでまあ、そんなのが次の年まで続いたんだけどね。
えーと、昭和13年かな。ある日突然、神奈子が随分機嫌悪くなってね。どうしたのさ、って聞いたら、『沢村が戦争に取られちまった』って言うんだよ。『なんでだい、なんであの人が戦争に行かなきゃいけないんだい、野球やらせてあげなよ、あの人から野球を取り上げるなんてこの国の損失だよ!』なんて当たり散らされてもこっちが困るって。で、野球が始まっても見に行こうともしなくなっちゃってさ。ずーっと沢村の無事を祈ってるわけ。神が誰に祈ってるのさ、って聞いたら『誰でもいい、沢村を無事に帰してやってください』ってね。
本当にね、あの頃の神奈子はただただ沢村栄治が好きで、沢村が見たいがために野球を見てたんだね。あれはもう、恋だったね。神がだよ? 人間に恋してどうするのさ。それも見知らぬ人間に。そのへんの小娘じゃないんだからさ。
それでまあ、神奈子がすっかり暗くなっちゃって。そりゃ、勝手にほいほい神社抜け出して野球見に行かれるのも困りものだったけど、元気がないのも心配だ、って久実が困ってね。仕方ないから、今度は私が神奈子を連れ出したんだよ。野球を見に行かせにね。沢村がいなくても、野球を見れば元気になるんじゃないかと思ったわけ。我ながら単純な発想だけどね。
前は連れて帰った野球場に、今度は連れて行くってのも滑稽な話だけどさ。神奈子はぐずぐず渋ってたよ。『沢村が居ないんじゃねえ……』なんてさ。まあ、それを何とか引っぱって、連れていったわけ。巨人の試合。相手がどこだったか忘れたけど。
『沢村はいないよ』って不満げな神奈子を席に座らせてね、私も一緒に見てたんだ。まあ、やっぱりルールなんて全然解らないんだけどね。
ただ、巨人の方にひとり、やけに元気のいい選手がいたんだ。キャッチャーだったんだけどね。九州訛りの大声をはりあげて、きびきび走り回ってさ。ぱこーん、って打ったと思ったら、また随分足が速くて。楽しそうに野球してるんだ。
気が付いたら『ありゃ誰だい、あのキャッチャー』って神奈子が、隣の観客に尋ねててね。『吉原ですよ、お嬢さん。今年入ってきた元気のいい新人ですわ』って答えに、『へえ』ってグラウンドに目を向けた神奈子の顔は、いつの間にかキラキラ輝いてたよ。
結局その試合、そのキャッチャーがホームラン打ってね。それで巨人が勝ったんだよ。帰り道、神奈子はご機嫌でね。その吉原ってキャッチャーのこと、随分と気に入ったみたいだった。
それからまた、神奈子は野球を見に行くようになった。今度は沢村だけじゃなくて、神奈子の話にも色んな名前が出てくるようになった。まあ、私も久実も半分聞き流してたけどさ。でもやっぱり、お気に入りはあの吉原っていうキャッチャーだったみたい。
あんまりしょっちゅう見に行くもんだから、たまりかねた久実が神奈子専用のラジオを買ってきたりもしたんだ。これで我慢してください、ってさ。それはそれで神奈子は喜んでたけど、やっぱり球場で見るのが一番だよ、なんて言ってさ。早く沢村が帰ってこないかねえ、吉原とバッテリー組むのを早く見たいよ、ってよく言ってたっけ。
それがまた、2年ぐらい続いたんだったかな。
それで、そうそう、昭和15年の春だよ。神奈子がね、新聞持って大騒ぎしてたんだ。何がどうしたのかと思ったらね、興奮して呂律の回らない口調でまくしたてるんだよ。『沢村が帰ってきた、除隊になって戻ってきたんだよ!』ってさ。もう嬉しそうにね。『良かったよ、本当に良かったよ、またあの人が野球をやれるんだよ、あの人のピッチングが見られるんだよ』って、感極まったみたいにさ。そのまま喜び勇んで野球見に行って、どういうわけかしょんぼりして帰ってきた。どうしたのさ、って聞いたら、『まだ沢村は出てなかったよ』って。そんな、戦地から帰ってきて何日もしないうちに試合で投げられるわけないじゃん。私でもそのぐらい解るよ。舞い上がっちゃってそんなことにも気付かなかったんだ、神奈子ってばさ。私も久実も大笑いして、神奈子は真っ赤になって吠えてたね。
そんなこんなで、6月はじめごろだったかな。沢村がいよいよ復帰するっていうんで、もう神奈子ってば朝から遠足前の子供みたいに落ち着かなくてねー。こりゃひとりで行かせたら心配だ、って久実が言うもんだから、私も見張りにくっついて行ったんだ。
甲子園球場だったね。相手は阪神じゃなかったけど。南海……だっけ? まあなんでもいいや。ともかく、球場は大勢の人間が萃まってて、神奈子みたいな人間がいっぱいいるんだなあ、なんて私は呆れてたんだけどね。その中に人間の格好で紛れ込んで、ふたりでスタンドのベンチに座った。『あれだ、あれが沢村だよ。あっちが吉原だ』って、神奈子はグラウンドの選手たちをいちいち紹介するんだけど、まあ適当に聞き流してたよ、うん。
それで、試合が始まったんだけどね。どうにも聞いてた話と違うんだ。神奈子の話だと、左足を思いっきり振り上げて、そこから目にも留まらないようなボールを投げる、っていうんだけどね。足は全然上がらないし、ボールもそこまで速くは見えない。すとーん、って魔法みたいに落ちるボールは確かにすごいなと思ったけどさ。相手のピッチャーと比べても、そこまですごくは見えなかったんだ。
神奈子の話が大げさだったんだろうと思ってたんだけど、隣で神奈子もしきりに首を捻ってるんだ。おかしい、こんなはずないって。まさか戦地で怪我でもしたんじゃないか、あの直球がもう投げられなくなってしまったんじゃないかって、真っ青な顔でマウンドの沢村を見つめててね。
まあ、それでもその試合は、沢村が最後まで投げて勝ったんだけどね。最後まで、神奈子の言ってた左足を振り上げるフォームも、目の覚めるような直球も見られなかった。試合が終わってみんな帰っちゃっても、神奈子はしょんぼりしたまま座っててね、立ち上がらせるのに苦労したよ。『勝ったんだからいいじゃん』って私が言っても、『あんなんじゃないよ、あの人はあんなんじゃなかった……。戦争に行く前は、もっと速くて、もっと凄くて……』ってさ。
憧れの沢村栄治が、戦争のせいで力を落としてしまった。もうあのフォームも直球も見られなくなってしまった。そんな事実を認めたくなかったんだろうね。
それでまあ、試合が終わって随分経ってから、やっと球場を出たんだよ。その頃にはようやく神奈子もね、『沢村は沢村だ。無事に帰ってきた、また投げる姿が見られる。……それでいいんだ』って、無理矢理自分を納得させるみたいにしてね。
――そんなときだった。もう人の少なくなった球場を出た私たちとすれ違うみたいに、二人組の男が歩いてきた。その姿に気付いて、神奈子が雷に打たれたみたいに立ち止まったよ。
試合が終わって球場を出て来た、沢村栄治だった。隣にはあの吉原ってキャッチャーを連れてね、こっちに歩いてくるんだ。
隣を見たら、神奈子はもう呆然と目を丸くしてね。まさかこんなところですれ違うなんて思いもしなかったから、どうしていいか解らなかったんだろうね。私が袖を引っぱっても、見とれたみたいに沢村を視線で追っかけるばっかりでね。
あれだけ沢村が好きだ好きだって言ってる神奈子が、こんなチャンスを逃しちゃうのももったいない話だと思ったからさ。固まってる神奈子の代わりに、私が声をかけたんだよ。沢村選手、吉原選手、ってね。神奈子はびっくりして私の方を振り向いた。で、歩いてたふたりも足を止めた。
私が背中を押したんだけど、神奈子はもう沢村を目の前にして真っ赤になっちゃってね、金魚みたいに口をぱくぱくさせるばっかり。どこの小娘だい、ってな感じでね。
『どげんしたと、嬢ちゃん』
そんな神奈子に、にっと笑って言ったのは、吉原の方だったよ。
『お姉ちゃん、沢村選手のファンなの』
固まってる神奈子の代わりに、私が答えた。神奈子は『あ、あの、あのそのあの』なんて、相変わらず呂律の回らない調子でわたわたしててね。
『そうかそうか。沢村はん』
って、吉原がポケットからボールを取り出して、沢村に渡したんだ。沢村は何だかむっつりした顔のまま、フェルトペンでそのボールに名前を書いた。吉原がそれを受け取って、固まってる神奈子に握らせてね。
『嬢ちゃんら、このへんの子か。また来とくれな』
そう言って笑った吉原の顔、男前だったね。今でも思い出せるよ。
『行くぞ、ヨシ』
沢村がそう言って、ふたりはまた歩き出してね。そしたら、今度は神奈子が叫んだんだ。
『あ、あの!』
吉原がそれに振り向いてね。神奈子はその吉原にボールを差し出した。『ん、ワシもか?』って目を見開いた吉原に、神奈子はこくこく頷いてね。『ほうなら、邪魔にならんように』って、沢村の名前の反対側に、自分の名前を書いてね。
それで、先に言っちゃった沢村を追っかけて、吉原も行ってしまった。後に残ったのは、ふたりぶんのサインが書かれたボール。それを握って、神奈子はただぼーっと、ふたりが立ち去ったあとを見つめててね。
『良かったじゃん』って私が言ったら、なんだか神奈子は泣き笑いみたいな顔してね。そのボールをぎゅっと握りしめて、『ありがとう』って言ったんだ。
あのときの神奈子ってば、本当にもう、どこからどう見ても恋する乙女だったよ。あの神奈子がだよ? 似合わない似合わない、本当にね――。
◇
「悪かったね、似合わなくて」
突然、部屋の入口からかけられた声に、諏訪子は飛び上がった。
「か、神奈子様!? い、いつからそこに――」
慌てる早苗に、神奈子は呆れたように肩を竦めて、それから歩み寄ると、テーブルに置かれた木箱を手に取った。蓋を開けて、中のボールを確かめるように見つめて、また閉じる。
「全く、勝手に人の昔話をするんじゃないよ」
「あーうー!?」
諏訪子の頭をぐりぐりと押さえつけて、それから神奈子は木箱を懐にしまうと、諏訪子を引きずって部屋を出て行く。
「何でもいいけど、片づけの続き、お願いするよ、早苗。私ゃ台所の掃除してるからさ」
「あ、は、はい……」
ほら諏訪子、あんたも手伝いな。そう言って神奈子は立ち去っていく。
その姿を見送って、それから早苗は掃除を再開しようとして――慄然と、思い至った。
そうだ、吉原という名前、聞いた覚えがあるはずだった。
『沢村やスタルヒン、中尾の球を受けた名女房吉原は、ビルマで骨も残さず消えちまった』
――あのとき神奈子は、ひどく寂しげな瞳で、そう語ったのだ。
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