にと×ひな! Stage6「明日晴れたら、雨は昨日へ」(2)
2009.02.17 Tuesday | category:東方SS(にとり×雛)
◇
雨に煙る山の中腹に、小さな湖が見えた。
妖怪の山。ずっと麓に暮らしていたが、その頂の方へと足を踏み入れるのは雛も初めてだ。
そこに何が待っているのかなど、雛はもちろん知り得ない。
――自分という存在を、どこか別の場所へ隠してくれる存在ならばいい、と思った。
もう、にとりの手が、自分に届いてしまわないように。
にとりに会いたいなんて、そんな想いを、抱いてしまわないように。
「に、とり……」
記憶を消してしまえたら、どんなに幸せだろうか、と思う。
にとりのことを忘れ、孤独であることも知らない頃に戻れたら。
そうしたら、きっと、きっと――。
『雛』
「――――ッ」
甦る彼女の笑顔に、彼女の声に、雛は悲鳴を噛み殺してぎゅっと手を握った。
軋むような痛みから、目を逸らしてしまいたい。
心に刺さる棘も、無かったことにしてしまえたら。
ああ、でも、そう意識すればするほどに、彼女の顔は鮮明になるのだ。
『ひな』
大好きな、世界で一番大切な、彼女の笑顔。
――にとりが好きだ。その事実は消えない。消せるはずがない。
だけど、だからこそ、にとりのそばには居られないのに。
にとりの笑顔を、声を、温もりを、求めてしまう自分の心が――どうしようもなく。
恋なんて、しなければよかった。
温もりなんて、知らなければよかった。
そうすればきっと、誰も不幸にすることも無かったのだから。
湖のほとりに、雛は降り立つ。まとった厄の気配に怯えたか、恵みの雨を謳歌していたカエルたちが、慌てたように湖の中に飛び込んでいくのが見えた。
――ここにもあまり、永くは留まっていられない。
ぐるぐると自分の周囲を渦巻く厄。いつの間にか、その量は随分なものになっていた。これだけの厄を溜め込んでいたら、そこにいるだけで周囲に影響が出かねない。
ああ、それなら自分の居場所は、いったいどこにあるだろう?
――どこにもないならば、いっそ消えてしまいたかった。
あてもなく、雛は濡れた草を踏みしめて、湖のほとりを歩く。
見上げた空は灰色にくすんで、彼女の瞳のような青い空など、見えるはずもなく。
渦巻く厄の中心で、雛はただ立ちすくんで。
足音が、近くから聞こえた。
雛は振り向く。――まさか、にとりが追いかけてきたわけでもないだろう。
そんなはずはないと解っていて、そんなことを思い浮かべる自分は――期待しているのか。
何を? 何を、今更。
「……何かと思えば、こりゃまた随分と厄を溜め込んだもんだね」
そんな声とともに姿を現したのは、ひどく大仰な注連縄を背負った女性だった。
古めかしい唐傘を揺らして、彼女は雛の姿に目を細める。
「見ない顔だね。厄神様かい? この山を上ってくるなんて、何の用だい」
興味深げにこちらを見つめるその女性も、どうやら神の一柱のようだった。それも、雛のような小さな神とは根本的に異なる、祀られる神の気配。
けれど、その荘厳な神格とは裏腹に、彼女はどこか人なつっこい笑みを浮かべた。
「守矢神社の参拝なら、その道を真っ直ぐ行けばすぐだよ」
女性の言葉に、雛は目をしばたたかせた。
◇
息を切らせて、膝が笑い出しても走り続けた。
雨にどれだけ濡れても、そんなものは障害にすらならなかった。
ただ、大切なものを追いかける。それだけのことで、こんなに力が出るのだ。
彼女のためなら、自分はどんなことだって出来るのだろう。
そんな気がするほどに、にとりはただ、無我夢中で走り続けて――。
けれどその壁は、あまりにも高く、その眼前にそびえ立っていた。
「…………滝」
小さな呟きは、瀑布の立てる轟音にかき消される。
果てしなく続くかのような断崖を、その河の流れが滝となって滑り落ちている。登れる道はない。見える範囲には、どこにもない。回り込めばあるのかもしれないが、それを探していたら日が暮れてしまうのは明らかだった。
「にとりさんッ」
ずっと追いかけてきた椛が、にとりの背中に声を掛ける。
「こっから先は、歩きじゃ無理ッス。というか、一応ここから先は天狗の領域なんで、勝手にこれ以上進まれると色々と――」
聞く義理は無かった。にとりは構わず、滝に向かって歩き出す。
「ちょっと待った! どうする気ッスか、飛べないんスよね!?」
「登る」
肩を掴んだ椛に、にとりは振り返りもせずに答えた。
「登るって――」
「登るったら登る! この先に雛がいるんだったら登ってやる!」
「無茶言わないでくださいッス!」
「放せ、放せよ!」
椛に羽交い締めにされて、にとりはもがいた。飛べなくたって、この手足があるのだから、断崖絶壁だって登ってやる。登ってみせる。登れる。雛のためだったら!
「ああもう――解ったッスから! じっとしてくださいッス!」
諦めたように、椛は盛大に溜息をひとつ。そして、にとりを羽交い締めにしたまま、ふわりとその場から浮き上がった。
「おおおう!?」
急に両足が地面から引き離されて、にとりは慌てて椛の首にしがみついた。飛ぶのはこの前、椛に里に連れ戻されたとき以来だけど、あのときは朦朧としていたから、これが初めてのようなものだ。
――足場がない。それだけでひどく不安になる。
ああ、そんなことを言えば、里の他の河童には馬鹿にされるのだ。
足場のない水の中に生きる河童が、どうして飛べないのか。
空を飛ぶのも、泳ぐのも一緒だ。空気の中を泳ぐように、河童は空を飛ぶ。それが普通。
――河城にとりは、普通の河童ではなかった。
空を飛べない。それは即ち――泳げない、ということに他ならない。
皿をもたない河童。泳げない河童。
誰も友達になってくれなかった、はぐれ者の河城にとり。
『にとり』
そんなはぐれ者の自分を、好きになってくれた彼女がいた。
ひとりぼっちの河城にとりは、彼女に恋をして、ひとりではなくなった。
だから――もう、ひとりには戻れないのだ。その温もりを、知ってしまったから。
「本当は、良くないんスけど――これも貸しッスよ」
「もみじ?」
「滝の上まで運ぶッス。そこから先は、くれぐれも他の天狗に見つからないように。問答無用で斬り伏せられても文句は言えないッスから」
険しい顔でそう忠告して、椛は雨を切り裂いて上空に舞い上がる。
その首にしがみついて、にとりは妖怪の山を見上げた。
――天狗がなんだ。斬れるものなら斬ってみろ。
そう睨みつけるように、雨に煙る山を見つめて。
「あやややや、哨戒天狗が不法侵入の手助けなんて、これはスクープかしら?」
雨の中、瀑布の轟音の中でもよく通る声に、椛とにとりは同時に振り向いた。
「あ、文様!」
「おかえり椛。――その河童を連れて、どちらへ行くつもりかしら?」
射命丸文は剣呑に目を細めて、こちらを見やる。その視線に、椛がたじろいだ。
「……山の警邏は哨戒天狗の領分ッス。哨戒天狗犬走椛が、彼女、河城にとりを山に招待するッス。それについて文様に文句を言われる筋合いは、どこにも無いッス」
「なるほどなるほど。わざわざそんなお姫様抱っこみたいな格好で招いて、これから何をするつもりなのかしら? 恋人のいる河童相手に」
「あ、文様?」
額に青筋を立てる文に、椛はたじろいだ。にとりを山に引き入れようとしていることに文句をつけてきたのではないらしい。ではいったい彼女は何に怒っているのやら。そんなことは、にとりには知り得ないけれども。
にとりに解ったのは、この鴉天狗はどうやら自分の邪魔をする気らしい、ということ。
――ええい、人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ!
「関係ない! 椛、いいから先に行こう!」
「に、にとりさんっ、いやそう言われても――」
「椛、ねえ。本当、親しそうじゃない?」
笑顔で文は言う。目は全く笑っていない。
――ひょっとして、彼女は自分が椛に抱かれているのが気にくわないのだろうか。
だとしたら、本当にどうでもいい誤解でしかなく、にとりにとってはただの邪魔以外の何物でもない。にとりが求めているのはただひとつ、雛だけなのだから。
「もーみーじー?」
「あ、文様、いや、だからその」
「ああもううっさいなあ! 人の邪魔すんなバカラス! いいから通せ!」
思わずにとりは叫んだ。――瞬間、時間が止まったように、雨の中、空気が凍りつく。
「に、にとりさ、」
「……ほほーう? 河童風情がこの射命丸文に喧嘩を売るとは、いい度胸じゃない」
剣呑な笑みを浮かべ、文は懐からカードを取り出す。スペルカードだ。
「あ、文様! こんなところで――」
「五月蠅い犬。ふたりともまとめて頭冷やしてきな!」
文が、その手にした扇を一閃した。轟、と空気が唸りをあげ、雨粒を巻き込んで局所的な竜巻がその場に巻き起こる。それは避ける間もなく、椛とにとりに襲いかかり――。
「――――――ッ!」
暴風に巻かれ、しがみついていたにとりの腕が、椛の身体から引きはがされた。
時間が引き延ばされる。中空に放り出される身体。雨の中、舞い上がった身体は雫とともに自由落下を開始。水滴が止まって見える。
上空で椛が何かを叫んだ。伸ばす手は届かない。背中からにとりは墜ちていく。背後を見やれば、滝から浅い河が流れている。この高さから墜ちたら、川底に叩きつけられて無事で済むはずもなく――けれど、飛べないにとりには、どうすることもできない。
墜ちていくにとりに、文が僅かに顔色を変えた。椛の手は間に合わない。
――けれど、にとりの意識はどこか、他人事のようにそれを認識していた。
ああ、墜ちる。このまま墜ちたら無事じゃ済まない。それは地面を見下ろせば解ること。
だが、だからなんだ?
そんなことで、この河城にとりを止められるとでも思ったのか?
馬鹿野郎、恋した少女を舐めるな。そう、こんなのは――試練のうちにも入らない!
中空で、にとりは身体を反転させる。
目の前に迫る浅い河。迫る衝撃に、けれどにとりは目を閉じることもなく。
――今なら、何でも出来る気がした。
はぐれ者の、できそこないの河童でも。
恋した相手のためだったら――河の流れだって、ひっくり返してやる!
にとりは手を眼前に突き出す。触れる雫、河の流れ、水が――身体の一部のようにうねった。
「――――びっくりするほどポロロッカッ!!」
河の流れが、弾けた。
瀑布の音すらかき消すような轟音とともに、雨が、水が、唸りをあげた。
「なっ――――!?」
上空で、椛と文が、その光景に目を見開く。
妖怪の山から流れる河が、下流から逆流を始めていた。
重力に引かれ下っていくはずの水が、それに逆らい山道を上ってくる。
細い河は濁流に代わり、そのまま瀑布へと激突して――。
その流れは、滝すらも溯った。
重力を無視して、濁流が断崖を駆け上っていく。滝の流れはまるで世界をひっくり返したように反転し、やがて上空に放り出された流れは、そのまま滝の上の河を上りだして。
――その濁流の中を、にとりは泳いでいた。
流れる水の全てが、今はにとりの意のままだった。
降りしきる雨も全て飲みこんで、水は滝を駆け上り、河を溯っていく。
全ては、にとりの望むままに。
大好きな彼女の元へ辿り着くために――妖怪の山を、ポロロッカが駆け抜けていく。
「雛ぁ――ッ!!」
にとりの叫びは、瀑音に乗って、妖怪の山にこだまし、幻想郷のあらゆる場所へ響くかのように広がっていった。
――そのシュールといえば余りにもシュールな光景を、椛は呆然と見送った。
河童が水に暮らし、水を操る種族だということぐらいは知っている。
が、これほどまでとは――。というか、逆流した河が干上がっているのだけれども。
「あやや、これはこれは、久しぶりに大ネタね」
いつも通りの声に振り向けば、文が写真機を構えて、逆流する滝を盛んに映していた。
――ああ、彼女はどこまでもいつも通りだ。というか、どこまで本気なのだろう。
「文様……あの」
「ん?」
「……いや、何でもないッス」
首を振り、椛は盛大に溜息を吐き出す。
見上げた空では、雨が少し、小降りになり始めていた。
(つづく)
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