にと×ひな! Stage5「少女が見た幻想の恋物語」(3)
2009.02.10 Tuesday | category:東方SS(にとり×雛)
◇
初めは、小さな指先の痺れだった。
「そういえば、最近にとりの発明品を見てない気がするわ」
ふと思い出したように雛が口にして、にとりはクッキーを囓りながら顔を上げた。
昼下がり、雛の家でお菓子をつまみながらのティータイム。その中での何気ない言葉。
「あー……うん、最近はあんまり、インスピレーションがねー」
頬を掻いて、にとりはクッキーに手を伸ばす。つまみ上げたクッキーが、ぽろりとその指先からこぼれた。苦笑してそれを口に放り込むにとりに、雛はひとつ吐息。
「……私の、せい?」
「な、なんでそうなるのさ!?」
目を伏せる雛に、にとりは慌てる。
「一緒に居てくれるのは嬉しいけど、それでにとりのやりたいこと、邪魔してるなら……」
「ひな!」
雛の言葉を遮るように、にとりは強く声を放って。顔を上げた雛の頬に触れる。
――その雛の頬の柔らかさは、まだ感じられる。
「気にしすぎだよ、雛。……私は、雛と居られれば幸せだって、いつも言ってるじゃん」
「……うん」
「雛、私が工房に篭もりっきりで、雛のことほったらかしで発明に励んでる方がいい?」
「そんな、こと」
「好きだよ、雛」
それ以上の言葉を言わせないように、雛の唇を自分のそれで塞ぐ。
微かに強ばり、それから自分に委ねられる雛の温もり。
触れあう唇の熱を感じながら――不意ににとりは、泣きたくなった。
ああ、そうだ。……どうなったって、自分は雛から離れられやしないのだ。
キスをするたびに、雛を抱きしめるたびに、そんな想いばかりがどんどん強くなって。
「……ごめんなさい、変なこと言って」
「いいよいいよ。――今度、また何か作ったら持ってくるからさ」
「楽しみにしてるわ」
ほころぶように笑った雛の表情は、ただどこまでも真っ直ぐな幸福に満ちた笑顔。
その笑顔を向けられるのが自分だということが、誇らしくて、嬉しくて。
ただそれだけが、今の河城にとりの全てなのだ。
――だから、悟られてはいけないのだ。
「それじゃ、今日はそろそろ帰るね」
「あ……うん」
陽光が暮れなずむ夕刻、立ち上がったにとりに、雛は少しだけ残念そうな顔をした。
もちろん、にとりだって本当は、泊まっていきたいのだけれど。
別に、絶対に帰らなければいけない理由があるわけではない。だけど、にとりは里に帰ることを選ぶ。――帰らないのは、少し特別なときだけ。そう決めている。
それは、ふたりの時間を大切にするための、暗黙の了解で。
……内心の欲求を無視すれば、そうしておいて良かったと、にとりは思うのだ。
ずっとずっと、雛と二十四時間一緒に居たら――いずれ、気付かれてしまうはずだから。
「それじゃあ、またあし――あぶっ!?」
玄関で靴を履いて、雛に手を振って、――歩き出そうとして、足が滑った。
ごちん、とドアに盛大に額をぶつけて、にとりは呻く。
「だ、大丈夫?」
「へ、平気へいき〜。じゃ、じゃあ雛、また明日ね!」
額をさすりながら、照れ隠しのように笑って、にとりは玄関を出る。ドアを閉める間際、笑って手を振る雛の姿が見えて――名残惜しさを断ち切るように、にとりは踵を返した。
陽が沈んでいく。幻想郷に、夜の帳が下りようとする。
その中で、川べりを走っていく河童の姿は、薄闇の中に紛れていく。
「わぷっ」
また、足がもつれた。草むらの上に前のめりに倒れて、にとりは呻いた。
自分の足を見やる。……動かしてみる。ちゃんと、動く。大丈夫だ。
指先に、力をこめてみる。――痺れたように反応は鈍いけど、ちゃんと動いている。
だから、大丈夫。まだ、全然大丈夫なのだ。
最初は、本当に小さな痺れだった。
ドライバーを持った右手の指の感覚がおかしくて、うまくネジが締められなかった。
本当は、作りかけの発明品がある。だけどそれは、小さな部品をうまく組み立てられなくなって、数日ほったらかしのままだ。
――技術者の命である指先が、麻痺してきているから。
確信を持ったのは、雛の家に泊まって――夜中にグラスを割ってしまったとき。
グラスを落としたのも、うまく掴めなかったからで。破片を拾っている最中、中指に切り傷を作ったのに――自分は、そのことに気付いていなかった。
雛に指摘されて、初めて血が出ていることに気付いて。
そのとき、傷口を雛が舐めてくれたのに、その舌の感触も、よく解らなかった。
次に痺れ始めたのは、足先だった。
数日前、棚の角に足の小指をぶつけたのに――痛みをほとんど感じなかった。
それから、歩いたり走ったりするのが、何だか少し難しくなった。
何も意識することなく出来ていたはずの、両足でバランスを取るという行為が、意識してやらないとうまくいかない。すぐに足がもつれて、転んでしまう。
『にとり、大丈夫?』
転んだ自分に、雛はいつもそうやって心配げに声をかけてくれる。
――自分が転ぶのは、いつものことだから、まだ雛には気付かれていない。
そう、雛に気付かれるわけにはいかないのだ。
――厄神様の近くに居ると、人間も妖怪も不幸になる。
そんなはずはない。だって自分は今、こんなに幸せだ。
雛がいる。大好きな雛がいる。それだけで、こんなにも満たされているから。
雛が自分にくれたのは、不幸じゃない。世界で一番キラキラ輝く幸福なのだ。
それはにとりにとって、何よりも確かな真実だ。
だけど、雛は何かと、自分で背負い込みすぎるから。自分のせいだと気にしすぎるから。
この手足の小さな痺れも、雛のせいなんかじゃないのだから。
雛のせいで自分が不幸になるなんて、絶対にあり得ないのだから。
だから、雛に変な心配をかけるわけにはいかないのだ。
絶対に。
「ただいま」
誰もいない家に帰りついて、灯りをつける。がらんとした部屋に、吐息が溶けた。
……ああ、やっぱり雛のところに泊まってくれば良かったかもしれない。
ベッドに倒れ込むように突っ伏して、にとりは深く息を吐き出す。
『楽しみにしてるわ』
ふと、雛の言葉が脳裏に甦って、にとりは作業台に視線を向けた。
作りかけの新しい発明品は、小さな玩具だ。ボタンを押すと踊る人形。
――完成させて持っていったら、雛は喜んでくれるかな。
首を振り、にとりはベッドから起きあがる。作業台に歩み寄り、椅子に腰を下ろした。
細かな部品と、工具とを取り出す。図面は広げっぱなしだ。にとりは右手にドライバーを握り、図面に向き直ろうとして、
カラン、とその手から、ドライバーがこぼれ落ちた。
「……あれ?」
右手を伸ばす。床に落ちたドライバーを掴む。持ち上げる。……カラン。
「あれ? ……あれ?」
カラン。カラン。カラン。
ドライバーが、持ち上がらない。――指先が、うまくドライバーを握れない。
「なん、で……」
自分の右手を見下ろして、にとりは愕然と目を見開いた。
第一関節が、曲がらない。
頭は曲げようとしているのに、指がそれに反応してくれていない――。
「うそ、だ」
左手で、右手の指を握ろうとして――またにとりは、慄然とする。
今まで何ともなかった左手の指先も、痺れ始めていた。
爪で、右手の指先を突いてみる。何も感じない。痛みも、何も。
「そんな、そんなのっ」
左手でドライバーを掴んだ。尖ったその先端を、右手の指に押しつけた。――痛くなかった。
動かない指。感覚のない皮膚。――右手の先が、木の棒にすり替えられてしまったような違和感に、にとりは冷たい汗が背中に伝うのを感じた。
――厄神様の近くに居ると、人間も妖怪も不幸になる。
嘘だ。そんなのは嘘だ。
だって、自分はあんなに幸せで、雛もあんなに幸せそうに笑ってくれるのに。
雛はいつだって、帰るときには厄を祓ってくれるから、厄の影響なんて無いはずなのに。
だから、雛は、雛は――。
じゃあ、この指先の痺れは何だ?
今まで起きたこともない症状。――その原因が、他に思い当たるのか?
『あまり厄神様に近付かん方がええぞ』
長老は、いつだったかそう言った。――誰にも、相談など出来るはずがない。
返される答えは決まっている。雛と離れろ。そう言われるに、決まっている。
――嫌だ。そんなのは、絶対に、嫌だ。
今、自分が居なくなったら、雛はまたひとりぼっちになって。
自分もまた、ひとりぼっちに戻ってしまって。
そんなのは、嫌だ――。
作りかけの発明品は、何も作業が進まないまま、にとりはベッドに潜り込んだ。
その夜は、指先の違和感が消えなくて、いつまで経っても眠れなかった。
――ひとりぼっちの夜が長すぎて、布団の中で何度も、雛の名前を呼んだ。
そのたびに、どうしようもなく――泣きたくなった。
雛が好きだ。
雛が好きだ。
雛のことが――大好きなんだ。
だから、雛――。
◇
その日、妖怪の山の麓には、深い霧が立ちこめていた。
「嫌な天気ッスねえ……」
まとわりつく雫に顔をしかめて、椛は呟く。
昼間だというのに、陽光は霧に遮られて、あたりはひどく薄暗い。
千里眼の能力で視界に困るということはないが、空気中の水分は鬱陶しかった。
「まあ、霧に乗じた侵入者があるわけでもないッスけど」
相変わらず、妖怪の山は平和そのものである。
今日も今日とて、無為な見回り任務。欠伸をしたら湿気が口の中まで満ちて、少しむせた。
――さっさと見回りは切り上げて、将棋でもしたいところだ。
特に、この間名前を聞き忘れたあの河童の少女。彼女にリベンジをしなければ。
一応あれから、哨戒天狗の将棋自慢に付き合ってもらって、多少の特訓を積んでいる。前回のように、いいようにやられたりはしない。
とはいえ、再戦の約束をしているわけでもないのだけども。
千里眼で、河童の里を探してみるか。そう椛が思った、そのとき。
「へぶぁっ!?」
眼下から、妙な声。霧の中、椛は足元に目を凝らす。
木々の合間を流れる河、その流れを追いかけるように走る、河童の少女がいた。
けれどその少女は、足をもつれさせて、何度も転ぶ。その度に起きあがって、また走り、
――三回転んだところで、さすがに見ていられず、椛はそちらへ降り立った。
「大丈夫ッスか?」
前のめりに倒れた少女に、椛は手を差し伸べる。「うぅ」と呻いて顔を上げた少女は、椛の顔をきょとんと見つめて――「あ」と椛も、ひどく間抜けな声をあげた。
この間の、天才将棋河童だった。
「あ、うん、平気……」
スカートについた草をはらって、少女は立ち上がる。が、ひどくその足取りはおぼつかない。ふらついた少女を椛が支えると、「ご、ごめん……」と小さな声で少女は謝罪した。
間近で見れば、少女の顔色は青い。椛は目を細めて、近くの大きな石に座るよう促す。
けれど少女は、ぷるぷると首を横に振った。
「ごめん、急いでるから――あぶっ」
そして、走りだそうとして、また転んだ。まるで、足が自由に動かないみたいに。
「だ、大丈夫だいじょうぶ……」
呪文のように呟いて、少女は立ち上がろうとする。
「大丈夫じゃないッスよ」
椛はその身体を支えて、そのままふわりと浮き上がった。さすがに、放っておけない。
「うわ、わわわ……」
上空に持ち上げられた身体に、少女は慌てたように声をあげ、椛の首にぎゅっとしがみついた。椛は怪訝そうに目を細める。まさか河童が、飛べないわけでもあるまいに。
河童に限らず、幻想郷の妖怪や妖精はおよそ誰でも本能的に空を飛べる。飛べない生物は、人間ぐらいのもののはずだ。
「じっとしててくださいッス。河童の里まで連れてくッスから」
「え」
「そんな顔色で、どこ行くつもりッスか。休んでた方が賢明ッス」
「だ、だめ――ッ」
少女が、腕の中でもがいた。けれど足元を見下ろして、またぎゅっと椛にしがみつく。
「あ、あうう……」
「…………ひょっとして、飛べないんスか?」
眉を寄せて、椛が問いかけると――河童の少女は、小さくこくりと頷いた。
それはまた、やっぱり自分は妙な河童と関わってしまったらしい。椛はひとつ吐息。
「とにかく、河童の里まで運ぶんで、しっかりつかまっててくださいッス」
「だ、だから、ダメだってばっ」
「何がッスか」
もがく少女に、椛は苛立ちまぎれの声を放つ。病人は大人しくしていてほしい。
「だって、雛が、待ってる――」
けれど少女は、必死に声を絞り出すように言う。
先日の少女の幸せそうな笑顔と、さらにその数日前に覗き見た熱愛シーンを思い出した。
雛というのは、あのとき彼女と抱き合っていた少女のことだろうか。
「……恋人ッスか?」
椛の問いかけに、少女はこくりと頷いた。
「急な呼び出しとかッスか? 病気とか、大変なことがあったとか」
今度は、ふるふると首を横に振った。どうやら、緊急性は無いらしい。
「それなら、なおさら行かせるわけにはいかないッス。そんな青い顔で行って、恋人に余計な心配かける方がよっぽど良くないッス」
「でも――」
「雛さんッスね? 自分が伝えておくッスから。今日は里に戻って休んだ方がいいッス」
椛が目を細めて告げると、少女は逡巡するように視線を彷徨わせて、やがてこくりと頷く。
「じゃ、河童の里まで急ぐッスよ」
その身体を背負い直すと、宙を蹴って飛んだ。最速の鴉天狗ほどではないにしろ、こちらも元は狼だ、スピードにはそれなりに自信がある。河童の里の場所は把握しているし、ここからなら十分とかからないだろう。
「……ごめんなさい」
ふと、背中の少女が呟いた。
「気にしなくていいッス。困ったときはお互い様ッスから」
苦笑して答えた椛に、少女は「あり、がとう……」と小さく呟いた。
「あ、そうだ、名前聞いてなかったッス」
そのことを思い出して、椛は背中の少女に問いかける。
「……にとり。河城にとり」
少女はただそれだけを答えて――そして、眠ってしまったようだった。
小さく椛は苦笑を漏らし、眠ったにとりを起こさないように背負い直す。
「全く、河童は一途って聞くッスけどねえ……」
自分の身ぐらい省みてほしいものだ。そうでないと、かえって不幸になるというもの。
ともかく、河童の里まで運んで、あとは里の医者に任せよう。
それからにとりの言う、雛という少女を捜して、来られない旨を伝えて――。
そう考えたところで、ふと椛は自分の胸元に視線を落とした。
だらりと椛の胸の前に下がる、少女の手。その指先を見て、椛は顔をしかめる。
――その指は、まるで死人のような土気色をしていた。
(つづく)
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