にと×ひな! Stage5「少女が見た幻想の恋物語」(1)
2009.01.31 Saturday | category:東方SS(にとり×雛)
暇だった。それはもう、死にそうなぐらいに退屈だった。
何しろ、この妖怪の山に侵入者なんて、そうそう訪れるものではない。少し前に妙な神様が人間を引き連れてやって来たときは一悶着あり、今でも一部では揉めていたりするのだが、まあ末端の自分にはさほど影響のある話ではなく。
来ないと解っている侵入者のために、今日も機械的に午前中の定期巡回。千里眼に映る妖怪の山の風景なんて、とっくの昔に見飽きている。なべて世はこともなし、を幸福として受け入れるには、いささか彼女はまだ天狗として若輩だった。
「ふぁぁあ……」
滝から流れる河の近くを飛びながら、犬走椛は欠伸を漏らす。
今日も今日とて、妖怪の山は平和そのものだった。暦の上ではそろそろ夏も終わりだが、まだまだ陽射しは脳天気な熱を振りまいている。元は狼である椛としては、あまり暑いのは得手ではない。早く涼しくなってほしいものだ。
「本日も異常なしっと」
そもそも、異常らしい異常があったためしなどほとんど無いのだが。
警戒よりも、退屈をどうやって潰すかの方が椛にとっては問題だった。この間までは近くの河童と大将棋を打っていたのだが、それも決着がついてしまった。ちなみに椛の負けである。
「暇そうな河童でも居ないッスかねえ」
「河童は居ないけど、ネタを求める新聞記者は居るわよ?」
呟きに答える声があり、驚いて椛は振り向く。そこにあったのは馴染みの顔だ。
「文様。また取材ッスか」
「ええ、今日も今日とてネタを探して三千里。何か面白そうなこと無かった?」
万年筆をくるくると回しながら、射命丸文はそう尋ねる。椛は小さく肩を竦めた。
「文様の面白がるようなことがあれば、先に上に報告してるッス」
「ま、それもそうよね」
椛の返事に、文は万年筆を口元にあてて頷いた。
新聞記者をしている鴉天狗の彼女は、警備の白狼天狗である椛とは職務上特に関係はない。ただ、天狗の中でもとりわけあっちこっち頻繁に飛び回っている文が、見回りをしている椛と出くわすことはよくあることだし、椛の持つ千里眼の力をネタ探しに使われたことも一度や二度ではなかった。
「面白そうなネタなら、このあいだ山に来たあの神様たちなんかどうスか?」
「あー、あの方たちはねえ。上の方がまだ対応で揉めてて、変に突っ込むと五月蠅いのよね」
苦笑しつつ文は答える。椛は訝しげに眉を寄せた。
「文様なら、そんなの気にせず突っ込んでいくと思ったんスけど、妙に大人しいッスね」
「記者である前に、私は天狗社会の一員なの。組織に属するっていうことは、自分の意志だけじゃ動けなくなるってこと。そのぐらい解ってるでしょ?」
「……上が五月蠅くなければ突っ込む気マンマンなんスね」
「そりゃそうよ。こんな美味しそうなネタ滅多にないのに、ああ勿体ない」
苛立たしげにペンを回す文に、上の方も苦労してるんだろうなあ、と詮無いことを思った。
「でも本当、何かネタ無い? 最近どこも平和で困るのよねえ」
ずい、と不意に文が顔を近づけてきて、思わず椛はたじろいだ。
「平和じゃ困るとか、物騒なこと言わないでほしいッス」
「あら、椛も似たようなこと考えてたんじゃないの? 見回り中に欠伸なんかして」
見られていたのか。うぐ、と言葉に詰まった椛に、文は愉しげに笑みを浮かべた。
「だから、自分のところにはネタは無いッス。他を当たってくださいっ」
「つれないわね。せっかくの千里眼、私のために役立ててくれない?」
「自分の千里眼は覗き見のための能力じゃないッス!」
つい先日のことを思い出して顔が赤くなったのを誤魔化すように、椛は叫んだ。
「そんなこと言って、椛だって結構興味津々な様子だったじゃないの」
「ばっ、馬鹿なこと言わないでほしいッス! そんなことは全然無いッス!」
「本当に〜?」
ニヤニヤと笑みを浮かべて、文は万年筆の尻で椛の頬をつついた。ぅぁ、と変な声をあげて、椛は身じろぎながら文から離れる。顔が真っ赤なのは自分でも気付いていて、文はそれにまた愉しげな笑みを浮かべた。
数日前のことだ。文に言いくるめられて、ネタ探しを千里眼で手伝う羽目になった椛だったが、そこで見つける羽目になったのは、どこの誰とも知らない少女ふたりがイチャイチャしている光景だった。片方は河童で、もう片方はおそらくこのあたりの神様だろう。
それがまあ、常識的な範囲のスキンシップであるならばどうということは無かったのだが、何しろそのふたりのしているのは、女の子同士のじゃれ合いというにはいささか濃密な――具体的に言えば、ちゅーであった。それも唇と唇の。ひょっとしたら舌も絡んでいたのかもしれないが、そこまでつぶさに見るにはいささか椛は純情だった。
千里眼で覗き見た遠くのことだったから、その少女たちが何を囁き合っていたのかまでは椛は知らない。ただその幸せそうな表情と、何度となく永く重ねられる唇は、どう見ても友達同士のそれではなく、――恋人同士のそれだったわけで。
別に、女の子同士でそういう関係になることについて、偏見はない。幻想郷では比較的当たり前にあることだし、実のところ椛自身だってどちらかと言えばそっち側だ。というか、だからこそ椛としては、覗き見はいけないと解っていつつも目を離せなかったわけである。
『ん、何を見つけたのよ? もーみーじー?』
そんな声に振り向けば、文の顔がすぐ近くにあって、大慌てしてしまったのはまさに不覚の極みだった。おかげでこんな調子でからかわれる羽目になったわけでもあるし。
しかもひとしきり、少女ふたりの様子をこちらに報告させておいて、文の言い放った言葉といえば『まあ、ネタにはならないわね』である。さすがにこれはキレてもいいと思った。
――ともかく。
「健全なことじゃないの、色恋沙汰に興味があるっていうのは。哨戒なんかやってたって、年頃の女の子なのは変わらないんだから」
「……別に、そんな」
にしし、と目の前で笑う年上の鴉天狗を、椛は俯きがちに見やった。
「あやや、照れちゃって、可愛いわね」
「や、やめてくださいッス」
うりうり、と頬を突いてくる文に、椛は必死の抗議。
触れてくる文の指先に、心臓がひとつ大きく跳ねたことには、気付かれないでほしかった。
「恋せよ女の子。いいわねえ、若いって」
「……文様は、どうなんスか?」
「私? あやや、事件が起これば即参上、神速の射命丸文には、色恋にうつつをぬかす暇などありはしないのです。ひとりの恋人よりひとつのスクープ、それが記者魂というもの」
「……そうッスよね」
誇らしげに胸を張って言う文に、椛は心の中だけで大きく溜息をついた。
――これだから、言えるはずなどないのである。
犬走椛が恋をしている相手は、今目の前にいる貴女なんです、文様――なんて。
「ん? どうかしたの」
「何でもないッス」
地獄耳とネタへの嗅覚を兼ね備えた射命丸文も、自身への好意については鈍感だ。そのことは椛にとっては、安堵と同時にじれったさを覚えることでもある。
「で」
と、また文が顔を近づけてきて、椛は思わずのけぞった。
「また、手伝ってくれない?」
「……謹んで、お断りさせていただくッス」
そりゃあ、本心を言えば、憧れの文様と一緒に幻想郷のあちこちを飛び回るなんてプチデートみたいなことをしてみたい。是非ともしてみたい。だけれども、やっぱり彼女がすぐ隣にいるなんてことは、椛にとっては一大事すぎて、耐えられる自信も無かったりするのだ。
「あやややや。上司の頼みを断るとは、相応の理由があってのことね?」
「別に文様は自分の上司じゃ」
「うるさい下っ端。辞去の理由を端的に述べよ、三十字以内で」
半眼で万年筆を突きつけ、文は不満げにそう声をあげた。
――文がそんな表情をするのは、単に下っ端哨戒天狗に頼みを断られたからで、犬走椛に断られたからではない。そんなことぐらいは解っているのだ。
「定時巡回は終わりの時間でしょう?」
「……それ見計らって来たんスか」
「そのぐらいの配慮はするわよ」
断る理由を作らせない計算、の間違いだろう。椛はひとつ首を振り、
「――これから、近所の河童と将棋を打つ約束があるッス」
もちろん、そんな約束など無い。
「あや? 昨日決着がついたんじゃなかった?」
この鴉天狗は、どこからそんな情報を仕入れてくるのだ。
「別の河童と今日から始めるんスよっ」
「ふうん? どこのどなたさん?」
何でそんなに突っかかってくるのだ。半笑いでペンを回す文に、椛はひとつ唸り。
――咄嗟に千里眼の力で、近くにひとりで歩く河童の姿を見つけた。
「あ、ちょうど来たところッス。それじゃ文様、失礼するッス!」
ちゃっと敬礼をひとつして、椛は逃げるように踵を返す。そのまま、見かけた河童のところへひらりと舞い降りた。――頭上を見上げれば、まだ文はこっちを見ている。
「ほえ?」
突然目の前に下りてきた天狗の姿に、その河童はきょとんと目を見開いた。椛はその顔もろくに確かめず、肩を叩いて河童に耳打ちする。
(ちょっと、いきなりで悪いッスけど、付き合ってほしいッス)
(え、ええええっ!?)
(とりあえず、一緒に将棋打ってくれればそれでいいッスから!)
(は、はひ)
河童の返事を確かめて、椛は懐から携帯用の将棋盤を取り出した。大将棋ではない、普通の将棋である。近くにあった平らな岩に盤を起き、駒を並べ――そこでようやく、椛は巻き込んだ河童の顔を確かめた。
「え、えーと……」
青い髪をした少女だった。作業着風のスカートと頭の帽子、何やら重たそうなリュックは河童特有の出で立ちだ。少女は不思議そうに駒を眺めている。――将棋を知らないのか?
(……ルール、解るッスか?)
(え、ええと……あんまり)
(……了解ッス。じゃあ、自分が指南するっていうことで)
(は、はあ)
目をしばたたかせる少女に、椛は目を細めた。将棋は、河童や天狗の間では極めてスタンダードな娯楽である。そのルールを知らない河童など、そうそういるものではない。ひょっとしたら変な河童と関わってしまったのかもしれない。
「え、えと」
「それじゃ、始めるッス」
「あ、よ、よろしくお願いします」
何だかんだで、少女は上手く話を合わせてくれた。
(とりあえず、自分と同じように駒動かしてくださいッス)
(りょ、了解ー)
ぱちり。椛が一手目。少女もこわごわと、駒をぱちりと動かす。椛がひとつ息をついて頭上に視線を戻すと、もう文の姿は見当たらなかった。既にこっちには興味を失ったらしい。
やれやれ、と盛大に椛は息を吐き出す。その様子に、河童の少女は不思議そうに首を傾げた。
「…………えーと」
「あー、もういいッス。急に巻き込んで申し訳ないッス」
「はぁ」
首を捻りつつ、少女は盤面と椛の顔を交互に見比べた。……あ、何かに興味を持った河童の顔だ、と椛は思う。
河童の技術力、その原動力は、他のどんな種族の妖怪や神々よりも強い好奇心にある。一度興味を持ったものは、とことんまで調べ尽くさないと気が済まない――河童とは本能的にそういう種族なのだ。
参ったなあ、と椛は頭を掻く。この展開はどう考えても――。
「……せっかくなんで、本当に指南するッスか?」
「あ、う、うん、良ければ」
「了解ッス。まあ、巻き込んだお詫びぐらいはするッスよ」
やれやれと頭を掻いて、椛は少女と一緒に盤面の駒を覗きこんだ。
◇
「……とまあ、駒の動きはそんな感じッス。で、互いに駒をひとつずつ動かして、最終的に相手の王を追いつめて取れば勝ち」
「ほへー。面白いね」
感心した声をあげる河童の少女。こちらの説明を興味津々で聞いてくれるのは、椛としても気持ちのいいものではあった。
「相手の駒にこうやって重ねると、奪えるッス。奪った駒は自分のものとして使えるッスよ」
「ほむほむ」
「それから、自分の駒をこのラインまで進めると、裏返して強力な駒にできるッス」
「ほほー」
「基本的にそれだけ覚えておけば遊べるッス。まあ攻め方の定石とかはまた今度にして、とりあえず打ってみるッスか?」
「うん、やってみる!」
うきうきと楽しげに、少女は駒を並べ始める。その顔に、ふと椛は既視感を覚えた。
この少女の顔、どこかで見た記憶がある。……どこでだったか。初対面のはずなのだが。
「えーと、これでいいんだよね?」
「合ってるッス。じゃあ、自分が先手で」
「よろしく〜」
ぱちり。改めての一手目。ふむ、と少女は唸って、一手目を返す。
「……ところで天狗様、なんで急に私に声かけたの?」
ぱちり。五手目を打ったところで、不意に少女が口を開いた。
「あー。ちょっと厄介事に巻き込まれそうだったんで、逃げてきたッスよ」
ぱちり。「その香車貰うッス」「あ、取られた〜」。少女は盤面を睨んで呻く。
「厄介事って、あのもうひとりいた天狗様?」
「そういうことッス。あの人に連れ出されるとロクなことが無いもんで」
ぱちり。……ぱちり。「む」椛はひとつ唸った。あまり考えずに打っていたが、盤面は割と互角の様相だ。この河童の少女、意外とセンスがあるかもしれない。
「完全にこっちの都合なんで、巻き込んで申し訳ないッス」
「いや、それは別にいいんだけど」
ぱち。快心の一手。「う?」と少女は盤面を睨んで腕を組んだ。
「その天狗様って……ええと」
「あ、自分は椛ッス。犬走椛」
「椛、様?」
「いや、下っ端ッスから、そういうの苦手なんで……呼び捨てでいいッス」
頭を掻きながら椛が言うと、少女は「ほへ」とひとつ頷いた。
「ええと、じゃあ、その天狗様は、椛の友達なの?」
「いや、友達……というのは違うッスね」
「じゃあ、仕事の上司?」
「んー、自分より立場は上ッスけど、直接の上司ってわけでも。説明が難しいッス」
こうかな、と少女が駒を動かす。今度は椛が唸る番だった。快心の一手のはずが、少女の切り返しで形勢が変わった。こちらの死角を付く一手。……偶然か、必然か?
「好きなんだね、その天狗様のこと」
「はっ!?」
唐突に河童の少女が言い放った言葉に、椛は手にした銀将を取りこぼした。
「な、何を言うんスか、急に」
「違うの?」
「そ、そんなっ、全然そんなことは……無い……ッス……」
慌てた反論の言葉は、しかし嘘であるが故に急速にしぼんでいく。
顔が熱くなっているのを自覚して、椛は俯いて盤面を睨んだ。こぼした銀将を拾い直し、これでどうだ、とばかりに強く盤面に打ちつける。
「あ、ラッキー」
河童の少女が楽しげに呟いた。そして、「えいっ」と次の一手。
――趨勢を決めるとどめの一手だった。ぐあ、と椛は悲鳴のように呻く。
ちょっと待て、なんだこれは。椛は決して将棋の腕自慢というわけではないが、退屈しのぎにそれなりに場数は踏んできたつもりだ。それがこうもあっさりと追いつめられるとは、明らかに今さっきルールを覚えたばかりの者の打ち筋ではない。
「……ちょっとタンマ。本当に、将棋打ったこと無いんスか?」
「うん、初めてだよ。ねえ、これひょっとして、いい手じゃないかな?」
楽しげに少女は首を傾げる。いい手も何も、ほぼ詰みに近い。一応逃げ道はあるが、少女が見落としていない限りは三手以内で完全に詰みだ。
「……ぐぬぬ」
一縷の望みに賭けて続行したが、少女は容赦なく最後の退路を最短ルートで潰してくれた。
「…………負けたッス」
「ほえ、私勝ったの? まだ逃げ道あるんじゃない?」
がくりと肩を落とした椛に、少女は不思議そうに首を傾げた。嫌味か。
「いや、明らかに詰んだッスよ、これ」
「そうかな? まだ切り返せると思うんだけど……ほら、こうして、こう打てば」
と、少女は椛側の駒を動かし始める。その手筋を見て、椛は愕然と目を見開いた。……確かに退路があった。しかも、場合によっては一気に相手の懐に切り返せる退路が。
「ね? こう打たれたらどうしようかなーって考えてたんだけど、難しいねー」
首を捻ってみせる少女を、椛は唖然と見つめた。
――定石も知らないずぶの初心者で、この打ち筋など常識的に考えてあり得ない。自分はひょっとしたら、とんでもない天才を目覚めさせてしまったのかもしれなかった。
「でも、面白いねこれ。ねえ、もう一局やろ? 今度は本気出していいから」
満面の笑みとともに放たれる悪意なき言葉が、ぐさりと刺さった。少なくとも途中から完全に本気で打って完敗したというに、これ以上どうしろというのだ。
「……い、いや、自分、そんな大した打ち手じゃないッスから。これ以上はもっと、ちゃんとした打ち手に習った方がいいッス、絶対そうッス」
「えー。もう一局やろうよ」
キラキラ。その目の輝きに、椛は屈した。
「……もう一局だけッスよ」
「わーい♪」
今日から、ちょっと本気で将棋の勉強をしよう。椛は心の奥底でそう誓った。
「ところで、さっきの話だけど」
「……何スか?」
二局目は案の定、終始少女が優勢の展開だった。向こうはこちらの浅はかな手の、常に三歩以上先を行っている。進路も退路も予め断たれ、袋小路で戦っている気分だった。
「その、天狗様のこと」
「……文様のことなら、別に何も」
「好きなんじゃないの?」
首を傾げる少女の視線は、反論を許さない気配を孕んでいた。
「……だったら、なんだって言うんスか」
ふてくされたように、椛は答える。
ああそうだ、自分は射命丸文のことが好きだ。だけどなんでそれを、今日出会ったばかりの河童に指摘された挙げ句に将棋でもボコボコにされねばならんのか。理不尽である。
「ん〜。将棋教えてくれたお礼とゆーか、お節介とゆーか。ちゃんと言わなきゃ伝わらないよ?ってこと、言いたいだけなんだけど」
ぱちり。ほら来た。あからさまに作られた逃げ道は明らかな袋小路。ネズミ獲りである。
「…………余計なお世話ッス」
「う、ごめん」
「あ、いや、怒ってはいないッス。……自分に呆れてるだけッス」
ああ、そうだ。そんなことは解りきっているのだ。
けれどやっぱり、きっと伝えたって、一笑に付されるに決まっているのである。
何しろ相手は、スクープが恋人の新聞記者、射命丸文なのだから。
「うん、その気持ちはなんとなく解る。……私もそうだったから、さ」
ぱち。
「だった、って、過去形ッスか。……現在進行形は幸せいっぱいッスか?」
「……えへへ」
えへへ、じゃない。ああもう、と椛は首を振って――そして、はっと思い出した。
ああ、そうだ。この少女の顔、どこかで見た記憶があると思ったら、あのときだ。
数日前、文に言いくるめられて千里眼の力で覗き見した、少女ふたりの熱烈なキスシーン。
今目の前にいるのは、間違いない。そのときの少女の片割れである。
「ん? どうかした? 私の顔、何かついてる?」
「……な、何でもないッス」
ひらひらの服をまとった少女と、きつく抱きしめ合ってキスを交わしていた目の前の少女。それを覗き見していたことは、気付かれているはずはない。ただ、椛としてはものすごく気まずいものがあった。
ついでに言えば――もしそれが、自分と文様だったら、なんてことを考えると、それはもう無性に羨ましくて仕方なかったりするわけで。
「ええい、これでどうッスか!」
自棄になって放った一手に、「ひゅい!?」と河童の少女が声をあげた。
「え、ちょ、ちょっと待って、うわ、これは予想外だよ……」
打ち始めてから初めて、少女が腕を組んでその眉を寄せた。
椛も改めて盤面を見直す。……あれ、形勢がひっくり返ってる?
「うわ、こんな切り返しがあったなんて……はあ、将棋って奥が深いなあ……」
感嘆の息を吐き出す少女に、椛は必死で頭をフル回転させて状況の把握に努める。ええと、ここがこうなって、これでそうなるから……このままいけば、逆転で詰み?
「んー、あー……うわあ、駄目だこれ。完璧に崩されちゃったよ……参りました」
ぺこりと、帽子を押さえながら少女は頭を下げる。「あ、えと、ありがとうございましたッス」と椛も一礼。……勝った気は全くしなかった。というか、完全にまぐれの一打である。
「あーうー。やっぱり初心者じゃ本気の経験者には勝てないんだなあ……」
「いや、いやいやいやいや」
全く、ご冗談を、である。
「ええと、自分なんかが保証できることじゃないッスけど、河童の里の将棋組合に入って本気で勉強すべきだと思うッスよ? 谷一番の将棋自慢も夢じゃないッスよ」
「いやいや、そんな、大げさだよ」
大げさなのはそっちの実力である。天賦の才とはこういうものを言うのかもしれない。
「…………って、うわあああああ!?」
と、不意に少女が中天を見上げて大声で叫んだ。驚いて身を竦める椛の目の前で、少女はわたわたと立ち上がる。
「やー、もうこんな時間!? あああっ、雛が待ってるのに、ばかばか私のばか!」
ぽかぽかと自分の頭を叩いて、少女はリュックを背負い直した。
「ご、ごめんね! 約束あるから行くね! また将棋しようね!」
「あ、ちょ――」
椛が声をあげる間もなく、少女は一目散に走り去っていく。その背中を呆然と見送って、それから椛は、近くに河があるんだから泳ぐか、あるいは飛ぶかすればいいのに、なんでわざわざ走って行くのだろう、と至極どうでもいい疑問を思い浮かべた。
「…………何だったんスかね」
はあ、と盛大に息をつき、椛は脳天気な陽射しの注ぐ中天を見上げる。
『ちゃんと言わなきゃ伝わらないよ?』
全く、そんなことは本当に、百も承知なのだ。
「……文様。自分、文様のことが、……好きッス」
小さく呟いてみて、自分の言葉に顔が真っ赤になるのを感じて、椛は呻いた。
無理だ、無理無理。……その一歩を踏み越えるのは、もっと大きな勇気が必要だ。
――けれど、その先にあるのが、千里眼で覗き見た幸せの光景だったりするならば。
「妄想乙、ッスよねえ……」
溜息は、晩夏の陽光の中に漂って消えていく。
河童の少女の名前を聞き忘れたことを思い出したのは、だいぶ経ってからだった。
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