にと×ひな! Stage2「厄神様へ続く道」 SIDE:B
2008.08.13 Wednesday | category:東方SS(にとり×雛)
『にとり』
彼女にそう名前を呼ばれると、それだけで心臓が痛いほどドキドキする。
そのすべすべした手で触れられると、顔がぼんっと爆発するみたいに熱くなる。
優しく細めた目で見つめられると、くすぐったくてこそばゆくてたまらない。
――だけどそんな全てが、どうしようもなく愛おしくて、幸せなのだ。
名前を呼んでくれる澄んだ声も。きゅっと握った手のひらの柔らかさも。心の奥まで見透かされてしまいそうな、優しく透き通った瞳も。それがすぐそばにあることが、嬉しくてたまらなくて――離したくないと、思ってしまう。
いつまでも、彼女の隣に居たいと、思ってしまうのだ。
それが、友達っていうことなのかな。
ねえ、――雛。
◇
いつものように、作業台で目が覚めた。
「……ぅぁ、ふ」
窓から射し込む光にひとつ呻いて、にとりは小さく欠伸。作業台を見下ろせば、図面を引いている最中に寝こけてしまったらしい。首を振って、まだ曖昧な意識を覚醒させる。
「んー……今何時?」
窓を見やれば、陽光は既に随分と眩い。時計を振り向く。――午前9時過ぎだった。
「おおう!?」
寝坊である。慌てて立ち上がると、散らかった作業台は放置してにとりは洗面所に駆け込んだ。鏡を覗きこめば、髪はぼさぼさで、頬には図面に引いた線が写り込んでいる。
みっともなくて、こんな顔で彼女のところに行けるはずもない。
時間は惜しいが、とりあえずは顔と髪をどうにかするのが先決だった。いつもより丁寧に顔を洗って、濡らした髪を梳かして乾かす。自家製ドライヤーの設定温度を間違えて、危うく火傷しそうになった。ああもう、落ち着け自分。
いつものツインテールに髪を結って、鏡でチェック。……うん、大丈夫。頬の跡も消えてるし、寝癖も直った。……大丈夫、だと思う。たぶん。
「うー」
なんだかツインテールのバランスがおかしい気もしたが、時計を見れば九時半を回ろうとしている。――別に、何時に行くとか約束しているわけじゃないけれど、いつもより遅れて心配させたりするのは嫌だった。
何よりも自分自身が、早く彼女のところに行きたくて仕方ないのだけれども。
「うん、よし、これでよし!」
言い聞かせるように口にして、手早くいつもの服に着替える。リュックを背負い、帽子を被れば準備は万端。朝食代わりのきゅうりを2本手にとって。にとりは家を飛び出した。
夏と秋の境界の、突き抜けるような青空。陽射しに目を細め、にとりはきゅうりを囓りながら駆け出す。逸る気持ちが、自然と足を前へ前へ運んでいく。
里を出て小走りに進む川べりの道は、厄神様への通い路だ。陽光を反射して煌めく清流を追いかけるように、砂利道をスキップしながらにとりは進む。途中、新聞屋の烏天狗が飛んでいくのが見えた。あのぐらい速く飛べたら、もっと早く彼女に会えるのに――なんて。
『にとり』
「……はふぅ」
彼女の声と微笑みが浮かんで、それだけで足取りが3割増のスピードになった。たぶん、川面に映った自分の顔はみっともなくにやけている。落ち着け河城にとり、変な顔だと彼女に笑われるぞなもし。――ああでも、顔がぽかぽか熱いのはどうしようもない。
「……雛」
名前を呟いたら、さらに顔がだらしなく緩んだ。雛は今頃どうしているかな。自分が居ないときの雛は、どんな風にして過ごしているのかな。――もし、自分が来るのを楽しみに待っていてくれたりなんてしたら、それだけでもう幸せで鴉天狗より速く飛べそうだ。
河童の里から麓の厄神様の家まで、とても長くてとても短い距離を、にとりは駆けていく。その時間さえも幸せなのだ、ということを噛みしめるようにして。
――毎朝ヘヴン状態な河童が、川沿いをすごいスピードで走っている。
近隣の妖怪たちにそんな風に噂されていることを、もちろんにとりは知るべくない。
◇
さて、そうこうしているうちに辿り着いたまではいいのだが。
「うー」
ドアの前、ノッカーに手を伸ばしたところで、にとりは躊躇するように手を止める。
帽子が曲がっているような気がする。鏡が無いので確かめようがないのだけれども。
頭に手をかけつつ、声には出さずに口を動かしてみる。呼びかけるリハーサル。
変な顔になっていないだろうか。ツインテールは歪んでいないか。服は……いつも通りなんだけど。ごくりと唾を飲んで、にとりは小さく唸る。
ノックをして、ドアを開けて、『雛』と呼びかける。
たったそれだけのことが、今日もとても難しい。
いつも、雛に会うときは、一番の笑顔でいたいのだけど。
いつだって、その笑顔が変になってしまっていないか、心配なのだ。
「……よし」
深呼吸ひとつ。ぎゅっと手を握る。大丈夫、大丈夫……たぶん。……帽子曲がってない。
勇気を出して、ノッカーを鳴らす。……返事はない。ドアを開ける。カラン、と澄んだドアベルの音。顔を覗かせれば、既に見慣れた雛の家の玄関。
「ひーなー」
口にしてみれば、すんなりその呼びかけはこぼれ落ちた。
ほどなく、ぱたぱたと足音。そして、見慣れたひらひらの服が視界に翻る。
『雛の服って、ひらひらしてて可愛いよね』
いつだったか、ぽろっとそんなことを口にした自分がいた。――『雛の方がもっと可愛いけど』という続く言葉を自重できたことは幸いというべきだったかもしれない。さすがにそれはなんというか問題発言だと思うのだ。うん。
ともかく。――その人は、小走りに玄関へと姿を現す。いつものようにくるくる回りながら。
その姿に、きっと自分の顔はまた緩んでいるんだろうと思った。
「あ、おはよう、雛」
口にする言葉は、毎日交わす挨拶。
「おはよう。いらっしゃい、にとり」
彼女の答えは、変わらない優しい声音と、穏やかな微笑。
それがまた、楽しくて幸せな時間の、はじまりの合図なのだ。
◇
「水道が?」
「ええ、水が出なくなっちゃって」
困り顔で、雛はそう言って首を傾げた。そういう話なら河童の技術の見せ所だ。水道関連はとりわけ河童の専売特許。「任せて」とにとりは腕まくりする。
技術屋としてもそうだけど、雛の役に立てるのが何より嬉しいのだ。
ポケットから工具を取り出し、蛇口を手早く分解する。コマかパッキンに問題があるのかと思ったが、そもそも水道管から水が出てきていない。とすると。
「たぶん、ポンプがおかしくなってるんだと思う」
「ポンプ?」
「うん、河から引いた水をそれで汲み上げてるんだ。ちょっと様子見てくるねー」
蛇口を組み立て直して取り付けると、家を出て洗面所の外に回る。水道管に通じるマンホールを開けて覗き込むと、案の定ポンプの渦巻き羽根が止まっていた。渦巻きポンプといって、回転の遠心力で水を押し上げるものだ。その回転が止まってしまっていては水が上がってこないのも道理である。原因は原動機……いや、軸受けだ。錆が浮いている。油を差せばとりあえずは大丈夫だろうが、いずれ交換しないといけないだろう。
ともかく、今はポンプの動作を再開させるのが先決。マンホールから顔を出して、リュックから油を取り出す。何でも背中に入れておいて損はないのだ。重いけど。
ポンプの羽根の回転軸に油を差すと、軋んだ音を立ててポンプは再び動き出した。よし、とりあえずこれで大丈夫だろう。
工具を片づけマンホールの蓋を閉じ、油を拭って立ち上がる。水は出るようになっているはずだ。雛の喜んだ顔が脳裏に浮かんで、また顔が緩んだ。ああ、しっかりしっかり。
洗面所の窓に手をかけて開く。顔を覗かせると、驚いたように雛が顔を上げたのが見えた。
「雛ー、ちょっと蛇口捻ってみてー」
「あ、うん……」
何か息を吐き出して、雛は蛇口を捻る。水音がした。よし、これでOK。
ぱたぱたと家の中に戻る。「ちゃんと直ったよねー?」と確かめるように洗面所を覗き、
足が何か小さいものを踏んづけて、思いっきり滑った。
「はぅぁっ!?」
べしゃ。鼻をしたたかに床に打ちつける。
「に、にとり? 大丈夫?」
駆け寄ってくる雛。ううう、みっともないにも程がある。
鼻をさすりながら、「うう、何か踏んづけた……」と言い訳のように呟いた。踏んづけたのは事実だったけれど。とりあえず鼻血が出ていないのは不幸中の幸い。
「これかしら……?」
雛が足下から何かを拾い上げる。目を細めて、にとりは差し出されたそれを見つめた。
――蛇口の中で水をせき止めるコマの部分だった。
「あぁぁっ! 雛、水止まらなくなってない!?」
思わず素っ頓狂な声をあげる。コマをつけ忘れたら水は出っぱなしだ。雛は困惑気味の表情のまま、こくりと頷く。
「え、ええ……」
「ごめん、部品ひとつ取り付け忘れてた! すぐ直すね!」
見れば案の定、蛇口は水を垂れ流していた。工具を取り出して慌てて蛇口を外し、
「わぷっ」
その瞬間、吹き出た水の直撃を喰らう。まあ、河童だから気にするほどのことはない。手早く蛇口をばらして組み立て直し、水道管に押し込んで水を止めた。
「はふぅー」
脱力してその場に膝をつく。画竜点睛を欠くとゆーかなんとゆーか、全く冴えない仕事をやらかしてしまった。技術屋の名が泣くというものである。猛省。
「たはは……ごめんね。でも、これで直ったはずだよ」
「あ、ありがとう……大丈夫?」
頭を掻きつつ苦笑すると、雛はどこか心配げに首を傾げた。
「ん、大丈夫大丈夫。転ぶのは慣れてるし」
「そうじゃなくて、服。さっきので――」
「ほえ」
言われて服を見下ろす。「あぅぁ」と思わず変な声が漏れた。確かに、いつものスカートはさっきの水の直撃でびしょ濡れだ。いやまぁ、濡れること自体は大した問題ではないのだが、自分の失敗の証拠みたいでみっともないのは確か。
「あー、うん、大丈夫。河童だし」
「駄目よ、着替えないと。乾かしておくから」
雛は心配げにそう言って、こちらの服に手をかけてくる。水に生きる河童にしてみれば、濡れることは問題じゃないし風邪も引かないから本当に大丈夫なのだけれども、
「いや、ホントに平気だから――」
「でも――」
雛に詰め寄られるのが気恥ずかしくて逃れようとするけれど、雛は構わず手を伸ばしてスカートに触れる。い、いやちょっと待って雛、そのままだと何をするの、ねえ雛――
「ひ、ひな」
困惑の声をあげると、はっと雛は顔を上げた。
にとりのスカートにかけた手を見下ろして、雛の顔がぼっと赤くなる。それを見て、にとりの顔までぼふん、と熱くなった。
――雛に服を脱がされかけた。いや、やましい理由があってのことじゃないのは解ってるけど、解ってるんだけど、恥ずかしすぎることに変わりはないのである。それはもう。
「あ、いや、そ、そんなつもりじゃなくて、その、」
「う、うん、わかってる、わかってるよ、うん、あはは……」
しどろもどろの雛に、にとりもどもりつつ答える。うう、何をやっているんだろう本当に。……このまま脱がされてしまっていたらどうなっていたんだろうとちょっと思った。雛に服を脱がされて――脱がされて――ああああうううああああああああ!?
だ、ダメ、それはダメだよ雛いろんな意味で!
「じゃ、じゃあ、私の服、取ってくるから――」
「あ、りょ、了解ー」
反射的にそう答え、ぱたぱた駆け出す雛の背中を見送って、はっとにとりは我に返る。
私の服、取ってくるから?
……それってつまり、雛のあのひらひらの服に着替えろってこと?
「…………え、ちょっと、いや、雛――」
呼び止めようとしても、もう視界に雛の姿はない。
どうしよう。……雛の服? 私が? あのひらひらのに? ……ええええ?
あ、いや、それよりももっと何か重大な問題があったような無かったような、
雛になら見られてもいいかなと思ったことだ。
――何を?
にとりは頭を抱えてうずくまる。ああもうダメだ、色んな意味でダメすぎる自分。
その、友達だからって、何かこう、流石に超えていい一線とそうでないものが、
いやいやいや、友達なんだから別にやましいこと考える方がおかしいのか。恥ずかしいのは仕方ないにしてもそこまで過剰反応することでもないたぶん、いやでもやっぱり恥ずかしすぎて死にそうなのだ、それなのに何というか――ああもう、
近づいた雛の匂いが、どうしようもなくくすぐったくてこそばゆくて、
それだけでにとりは、幸せな気持ちになってしまうのだ。
「うううー……」
制御できない自分の気持ち。暴走する思考。熱っぽいままの顔。
雛のことばっかり、どんどん頭の中を埋め尽くしていって。
友達って大変だ、とにとりはぼんやり思った。
こんなに相手のことで、いっぱいいっぱいになってしまうのだから――。
◇
閻魔と死神が頭の中で囁いている。天使と悪魔ではなく。
目の前には着替えとして渡されたひらひらの服。――雛がいつも着ている服。
手にとって、にとりは煩悶する。
――いいじゃんどうせこれから着るんだし、少しぐらいさ、
怠惰な死神がそう囁いた。
――不健全です、悔い改めなさい!
ちっちゃい閻魔が悔悟の棒を振り上げて睨んだ。
「うううう」
唸る。頭の中では死神が閻魔に叩かれてきゃんきゃん鳴いていた。
いやもちろん腕の中にあるのは雛の服であり、雛本人ではないのだけれども。
――雛。
その服を手にして名前を呟いてみると、本当に腕の中に雛がいるような気がして、
にとり、と困ったような顔で頬を染める雛の顔を幻視して、鼻血が出そうになった。
不健全です、と閻魔が頭の中で悔悟の棒を振り回す。
いやいや四季様、健全な感情ですよ? と死神が閻魔の背後から顔を寄せた。
な、何をするんですか小町、と振り返った閻魔の耳たぶに、死神がふっと息を吹きかける。
ひゃふぅ、と力の抜けた閻魔様を、そのまま死神が押し倒した。――死神WIN。
(……雛の、におい)
石鹸と、ほのかに柔らかな菜の花の香りがした。春の匂いだ、とぼんやり思う。
春の陽気のように穏やかな、雛の優しさみたいな、そんな匂い。
それに包まれているだけで、何かこう、満たされたような気持ちになってくる。
「……にとり?」
背筋に水を垂らされた気がして、にとりは我に返る。
扉の向こうから雛の声。見られてはいない。だ、大丈夫大丈夫、うん。
大げさに息を吐き出して、甘美な妄想は終わり現実が立ち向かってくる。
――着替えるの? この服に?
手の中のひらひらなワンピースを見下ろす。……これを着た自分の姿を想像してみようとしたけれど、全く上手くいかなかった。というか、どうやって着るんだろう、これ。
くるくる腕の中で回してみて、どうやら自分の作業着と同じ、頭からかぶるように着ればいいらしい、と把握する。
さて、では着替えるために今着ているこの服を脱がなければいけないのだけれど。
――扉一枚隔てた向こうに雛がいる。
それを考えただけで、またどうしようもなく恥ずかしくなってきた。
いや、見られているわけじゃないし、雛も覗いたりしないって解ってるけど。……雛の家で服を脱ぐ、という行為が何かこう、非常にいけないことのような気がして。どう考えても意識しすぎなのだけれども、そんな風に考える自分の方が変なのだけれども――。
ああもう、ダメだダメだ落ち着け河城にとり。早く着替えないと雛が訝しむ。
よし、と小さく意気込んで、意味もなく息を止めてばっと脱ぐ。下着姿になっていることを意識の外に全力で追いやって、そのひらひらのワンピースを一気にかぶった。……後ろ前になってしまっていることに気付くまで十数秒。
わたわたと向きを直し、袖を通し、背中のファスナーを手探りで上げて、
自分の姿が、窓に映った。
――泣きたくなるほど似合っていなかった。
「にとり?」
扉の向こうから雛の声。……この格好で雛の前に出るの? マジで?
「ううー……絶対変だってー」
「そんなことないわ、きっと」
呻いてみるけれど、扉の向こうから雛はそう言う。いや、変だから本当に。
きっと笑われる。絶対笑われる。それはもう完璧に大爆笑される。そのぐらい変だ。
「……笑わない?」
「笑わないわ」
だけど雛はきっぱり断言。……ううう。どっちにしても出て行かないわけにはいかないのだ。自分で着替えは持ってきていないし、雛の服はこういうのしかないし、下着姿でいるわけにもいかないし。ええい、ままよ。
おそるおそる、扉をゆっくりと開く。顔を出せば、すぐに雛と目が合って。
「…………」
「…………」
沈黙。――のち。
「あーうーあーっ、やっぱりダメ! 濡れててもいいから元の服に戻すーっ!」
雛の反応を待たず、にとりは扉の向こうに隠れた。ううう、ダメ、恥ずかしすぎる。こんな変な格好で雛の前に出るなんて拷問だ。
「にとり」
雛は笑う様子もなく、困ったように声をかけてくる。
「……うー、」
呻きながら、こそこそと顔だけ出してみる。……雛の顔が笑うように緩んでいた。
「あー、笑ったーっ! 笑わないって言ったのにー!」
「わ、笑ってないわ」
「笑ってるじゃないのー!」
半眼で睨む。というか涙目だ。ううう、だから嫌だったのに。
「えっと……帽子」
「ほえ?」
雛が首を傾げながら、そんなことを口にする。
「帽子、外せば、きっと、似合うわ」
何か確かめるようにそう言って、雛はこちらに手を伸ばす。
にとりの頭に乗ったままの、トレードマークのあの帽子に、
「――――――ッ!?」
どかん、と頭の中で何かが爆発した気がした。
思考が全部吹っ飛んで、真っ白になって、何も考えられなくなった。
「だ、だだだっ、ダメーっ! 帽子はダメーっ!?」
気がつけば、帽子を押さえてしゃがみ込んでいるにとり。そんな様子に、雛は困惑したように伸ばしかけた手をさまよわせた。
「に、にとり?」
戸惑いの色を浮かべたまま首を傾げる雛を、にとりは涙目で見上げる。
ううう、いきなりそんなことをされるなんて予想外すぎる。いくらなんでも、ちょっとそれは大胆に過ぎるというか、ううううう――
「…………雛のえっち」
「え、えええええええええっ!?」
にとりがそう呟くと、雛は素っ頓狂な声を上げた。
なんでそうなるのか、という様子でおろおろとする雛の姿に、あ、そうか、とにとりは合点する。……河童の常識は厄神様には通じないのだ。あうあう。
帽子を押さえつつ、にとりは何と説明したものかと口をぱくぱくさせる。
「ええと、そのですね、河童にとっては誰かの前で帽子を外すという行為は大変に恥ずかしいことでありましてですね、その、何と言いますか――」
結局、なぜか役人のような口調になってしまった。
――頭のてっぺんは河童にとって大事なところ。軽々しく他人に見せてはいけないのだ。
見せていい相手は――その。
のぼせそうなぐらい顔が熱くなるのを感じながら、にとりはそのことを説明する。
「……帽子の下は、その、……好きな相手にしか見せてはいけない場所なのですよ?」
それを聞いて、今度は雛の方が真っ赤になった。
――ああ、照れてる雛もやっぱり可愛い……じゃなくて。
「あ、そ、その、ご、ごめんなさい、知らなくて、」
「い、いやいや、うん、別に怒ってるわけじゃなくて――」
お互いろれつの回らない弁解。恥ずかしくて相手の顔が見られない。
ううう、焦った、本当に焦った。いやだって本当、雛にいきなりそんなことされるとは思わなくて、いやもちろん雛は知らなかったからであって他意はないはずで、だけど恥ずかしいものは恥ずかしいわけで――
あれ、とそこでふと思う。今の自分の説明、何か問題があった気がする。
記憶をひっくり返す。自分は雛に帽子を取られそうになって必死で庇った。その理由の説明が、『好きな相手にしか見せてはいけない場所だから』――っていうのは。
それって、雛のこと好きじゃないから嫌だったっていう意味になるような、
うあああ、それは逆! 逆なの! 恥ずかしかっただけで、雛のことは嫌いじゃなくて、
――好き?
その単語に、しゃっくりを飲み込んだみたいににとりは言葉に詰まった。
嫌いの反対は好き。自分は……雛が、好き。
うあ、うあうあうあ? いや、あれ、その、ええと、それはその――あああうううう。
「あ、あのね、」
わけがわからないまま、気がつけばにとりは雛の服の裾を掴んでいて、
「……雛のこと、嫌いなわけじゃない、から」
暴走する思考のまま、雛の背中に顔を押しつけるようにして、そう呟いていた。
「ただその……ええと、いきなりだったから恥ずかしかっただけで、その、ひ、雛なら――」
ああ、何を言っているのか自分でもよく解らない。
ただ確かなのは――その。
雛になら、見られてしまってもいいと思ったのだ。
……い、いや、やましい意味じゃなく。本当に、たぶん……。
「……にとり?」
雛が振り返る。目が合う。どうしていいか解らない。
何か言わなきゃと思うけれど、舌は口の中で空回るばっかりで、思考は痺れたままで、
「ひな、」
「にと……り」
雛の手が、そっとにとりの頬に触れた。
身を竦ませるように、にとりはきゅっと目を閉じる。
どうなるだろう。このままどうなってしまうだろう。解らない。解るはずもない。
ただ、そのままもう、雛に身を任せてしまおうかと思った。
雛になら――これから何をされても喜んでしまう自分がいると、解っていた。
だってほら、こんなにも、どうしようもなく、心臓がドキドキして――
ぽっぽー、と鳩時計が間抜けな声で時刻を告げた。
はっと我に返ったように目を見開き、金縛りにあったように、二人ともそのまま硬直。
お互い、ひどく間抜けな顔で見つめ合っていて。
「……ぷ」
どちらからともなく、噴き出すように笑い出して。
そのまましばらく、何が可笑しいわけでもないのに、ふたりで笑い転げていた。
◇
それから、雛が厄を回収するというので、一緒にふたりでのんびり、川べりを歩いた。
「うう、やっぱり着替えるよー……」
「大丈夫よ。このあたりは誰も来ないし……」
結局あの格好のまま、にとりは雛の後ろに隠れるように歩いていた。川面に映る自分の姿はやっぱり変だ。……というか雛の今の台詞が変な意味に聞こえた自分はどうかしている。
「いや、やっぱりその、こういう服は雛みたいな……綺麗な子じゃないと」
ひらひらのスカートをつまんで、にとりはそう呟く。
雛は帽子がどうこう言っていたけど、そういう問題じゃないのだ。根本的にこう、自分にはこういう服は何か違う。こういう女の子らしい可愛らしい服は、雛みたいに髪が長くて、すらっとして、物静かで綺麗な子でないと似合わないのだ。工房で油にまみれて工具を握りしめる河童に似合う道理は無いのである。
雛は小さく吐息しつつ、口元を覆ってこちらを振り向く。
「……にとりだって、可愛いわ」
「い、いや、そんなことは」
両手と首をぶんぶん振る。いやホント、雛に比べたら全然、天と地ほどの差がある。雛は宝石のような、女の子らしい綺麗さ。こっちはただ子供っぽいだけだ。にとりはそう思うのだけど、雛はそんなことないと言い張るのである。うう、そう言ってもらえるのは嬉しいんだけど、
「それに、この蒼い髪だって、すごく綺麗――」
不意に、雛がこちらの髪に手を伸ばした。ツインテールにその指先が触れて、くすぐったさににとりは目を細めた。……雛の指が髪を梳くように撫でる。照れくさくて、だけど心地よくて、にとりは目を細めて雛の手に身を任せた。
「……ねえ、雛」
「なに? にとり」
「ん……何でもない」
そんな、何の意味もない言葉を交わすだけで、ほっと胸の奥が暖かくなる。
このままずっと、雛に触れられていたい――なんて。
「ひゃうっ」
と、髪を梳いていた雛の指が、そこに隠れていた耳に触れた。びくっと反応して、思わずにとりは数歩雛から離れてしまう。それで、魔法のような触れあう時間はおしまい。
だけど、雛との間に気まずさはなくて、あるのは甘美な気恥ずかしさばかりだった。互いに視線を逸らしたまま、どちらからともなく歩き出す。言葉はないけれど、それはどこか居心地のいい沈黙だった。――何も言わなくても、気持ちが通じているような気がした。
そうだったらいいな、と思う。言葉にしなくても、気持ちが伝われば――
一歩前を歩く足をゆるめて、雛の右隣に並ぶ。
それから……意を決して、左手を雛の方に伸ばしてみた。
少しだけ触れる指先。……そして、雛の右手が、こちらの手を探るように伸ばされて。
一度弾けるように離れた手を、――今度はきゅっと、指を絡めて繋いだ。
雛のあたかかく柔らかな手を、きゅっと握る。指を絡めて、手のひらを重ねて。
触れあったところから、お互いの熱が伝わってくる気がした。
――雛。
囁くような言葉は、口にしなくても届くような気がした。
――にとり。
囁かれるような言葉は、音でなくても届いた気がした。
そうして、手を繋いだまま、川べりの道をゆっくり歩く。
この手から、互いに気持ちが伝わっていくような気がしながら。
……だけど、全部が伝わってしまったら、ちょっと困るかもしれない。
この未整理な気持ちの全部は、まだ胸の奥に秘めておかなきゃいけないのだ。たぶん。
ちゃんと答えが出るときが来るまで、きっと。
ただ、今は。
「えへへ……雛」
「……ん、にとり」
そうやって名前を呼び合うだけで幸せだから、それでよかった。
◇
そうして気がつくと、傾いた日差しが世界を赤く染めていた。
それは、帰る時間の合図。……楽しい時間の終わりのしるし。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るねー」
「……うん」
元の服に着替えたにとりが立ち上がってそう言うと、雛は微笑んで手を振ってくれる。
だからにとりも、笑って手を振り返すのだけど。
――ねえ、雛。本当はもっと、ここに居たいよ。
日が沈んで、夜になっても、雛の隣に居たいんだ。
だけど、そんな子供みたいなわがままは言えなかった。
名残惜しさを振り払うみたいに、にとりは軽い足取りで歩き出す。
夕日がまぶしくて、逆光に自分の姿を隠してしまいそう。
隠してしまってほしい、と思った。自分の目から、今の気持ちを。
そうでないと、足を止めて、振り返ってしまいそうだから――
「にとり、」
それなのに、不意に、呼び止める声。
足は止まってしまう。振り払おうとしたものがまた絡みつく。
「ほえ、なに?」
いつも通りの笑顔を装って振り返るけれど、たぶんうまくいっていなかった。
――ねえ、雛。どうして呼び止めたの?
もし、……もし、雛が、それを許してくれるなら、
この夕日が消えてしまっても、このまま――
「……また、明日」
だけど、続く雛の言葉はそれだけで。
たぶん、それでよかったんだと思う。
引き返してしまったら、雛のところにしか行けなくなってしまうから。
どうしようもなく、雛から離れられなくなってしまうから。
「うん、また明日」
それでもいい、と思う自分を逆光に隠して、にとりは大きく手を振る。
そして、厄神様への通い路を、足早に引き返していく。
逢魔が時の黄昏色に沈む世界で、帰り道は寂しいけれど。
また明日。
明日も、雛と会える。
――その約束があるから、ひとりの帰路も、寂しくない。
雛編Stage3へ
にとり編Stage3へ(coming soon...)
⇒ こじたん (11/17)
⇒ 浅木原 (11/16)
⇒ こじたん (11/16)
⇒ 時の番人 (11/14)
⇒ 置き石 (10/14)
⇒ 葉月 (09/19)
⇒ ろっく (05/17)
⇒ 六仁祝 (08/27)
⇒ はまなす (06/20)
⇒ 橘 奏 (08/10)