にと×ひな! Stage2「厄神様へ続く道」 SIDE:A
2008.07.02 Wednesday | category:東方SS(にとり×雛)
『雛』
彼女にそう名前を呼ばれると、途端に鼓動が早くなる。
その冷たい手で触れられると、その箇所は火傷したみたいに熱くなって。
きょとんとした瞳で見つめられると、気恥ずかしさで彼女の顔が見られない。
――だけどそんな全てが、どうしようもなく愛おしくて、幸せなのだ。
名前を呼んでくれる明るい声も。ひんやりとした手のひらの感触も。大きくくりっとした瞳も。それがすぐそばにあることが、嬉しくてたまらなくて――離したくないと、思ってしまう。
いつまでも、彼女の隣に居たいと、思ってしまうのだ。
それが、友達っていうことなのかしら。
ねえ、――にとり。
◇
妖怪の山、およびその麓では、河童の工業技術がその生活の多くを支えている。特に水と関わりが深い河童は、水道の整備には熱心だ。おかげで妖怪の山周辺は、人里よりもよっぽど質の高い水道網が完備されていたりする。何しろ、麓の厄神の家までもフォローしているのだから大したものだ。
まあ、その家の主である雛は、いつ誰がこの家に水道を配備したのかも、そもそもこの家がいつからここに建っているのかも、よく知らないのだけれども。
ともかく。朝、目を覚ました雛はいつものように洗面台で顔を洗っていた。朝食を摂り、服を着替え、リボンを結び、溜め込んでいた厄をいくつか千切って飛ばし、それから河に厄を回収しに行く。それは雛の毎日繰り返す、生活サイクルの一部である。
まあ、そのサイクルにも最近は少々変化が起きているのだが――その日は、もう少し前の段階でちょっとした異変が訪れた。
「……あら?」
異変と言っても大したことではない。単に、顔を洗っている最中に水道の水が止まってしまったというだけの話である。蛇口を捻っても、うんともすんとも言わない。
「朝から厄いわね……」
桶に溜めておいた分の水で泡を洗い流し、顔を拭きながら雛は呟く。まあ、水道が止まっても河から水を汲んでくればいいだけの話ではあるのだが、面倒といえばその通り。朝食は昨晩の残りだから問題は無いが、このままでは不便極まりない。
まあ今までなら、直してもらう心当たりも無かったから、途方に暮れたかもしれないけれど。
「……後で見てもらわないと」
幸い、今は心当たりがある。ひとつ息をついて蛇口を一度締めると、雛は鏡を覗きこんだ。鏡の中の、まだどこかぼんやりとした自分の顔に、ふっと笑いかけてみる。……何だかぎこちない笑顔になってしまった。どうにもやっぱり、笑顔の作り方というのは、自分ではよく解らない。――彼女と居るとき、彼女みたいに、真っ直ぐに笑えているのだろうか、自分は。それが確かめられないのが、雛の小さな悩みだった。
彼女の笑顔はいつも眩しくて、真っ直ぐにこちらに向けられていて、見ているだけで何だか顔が熱くて、心の奥がぽっと暖かくなる。そんな、とても素敵な笑顔なのだ。
――あんな風に、笑えたらいいのに。
そうは思うのだけれど、やっぱり鏡の中の自分の笑顔はどうも変なのだった。
朝食を終え、いつもの服に着替える頃には、陽も高くなり始めていた。溜め込んだ厄の一部をちぎりながら、雛はそわそわと時計を見る。……いつもなら、そろそろ来る頃だけど。
小さくなった厄が、ふわふわと自分の元を離れて流れていく様を見ながら、雛は吐息。……どうにも落ち着かなくて、また鏡を覗きこみに行く。リボンが曲がっていないか、いい加減何回も確かめたのに、また確認してみたり。
『雛の服って、ひらひらしてて可愛いよね』
この前、にこにこと笑いながら、彼女はそんなことを言ってくれた。その声を思い出すと、また顔が熱くなって、雛は落ち着こうとその場をくるくる回る。……別に、自分のことを可愛いって言ってくれたわけじゃなくて、服のことだって解ってはいるんだけど。照れくさいのは変わらないのだ。
――着てみる? と訊いてみたら、彼女は困ったように苦笑して首を横に振った。
『私には似合わないよ、そういう女の子っぽいのは』
そんなことない、と思う。彼女は元が可愛いのだから、きっと似合う。いや、もちろん普段の彼女の服装が可愛くないとか、そういうわけじゃないんだけども。むしろよく似合ってると思うけど……って、誰に言い訳してるんだろう。そもそもこんなこと、彼女の前で口に出せるわけもないのだ。
「……厄いわ」
ああもう、こんな赤い顔じゃ彼女の前に出られない。落ち着かないと、落ち着いて――
ドアベルの音が、響いた。
『ひーなー』
聞こえてくるのは、現実の彼女の声。ぱっと顔を上げ、雛はひとつ深呼吸。よし、落ち着いた。……よし、大丈夫。うん、たぶん、きっと。
慌てて飛び出すのはみっともないから、逸る気持ちを抑えて、ゆっくり玄関に向かう。ドアを開けて、廊下に顔を出すと――すぐそこに、ぱっと輝く彼女の顔があった。
「あ、おはよう、雛」
そして彼女は、いつもの底抜けに明るい声で、自分の名前を呼んでくれる。
その声に、ほっと心が安らぐのを感じながら、雛も彼女の名前を呼んだ。
「おはよう。いらっしゃい、にとり」
◇
「水道が?」
「ええ、水が出なくなっちゃって」
洗面台の話をすると、「そういう話なら任せて」と腕まくりしてにとりはポケットから何やら工具を取り出す。何に使うのか雛にはさっぱり解らなかったが、手慣れた様子でにとりはそれらを操って、あっという間に蛇口を分解してしまった。
「んー?」
蛇口と繋がった水道管を覗いて、ぽん、とにとりは手のひらを叩いた。
「たぶん、ポンプがおかしくなってるんだと思う」
「ポンプ?」
「うん、河から引いた水をそれで汲み上げてるんだ。ちょっと様子見てくるねー」
また慣れた手際で蛇口を組み立て直すと、にとりはぱたぱたと外に駆けていった。追いかけようかとも思ったけど、自分が居ても役に立たないだろうから、その場で待つことにする。ほどなく外から、何やら工具のたてる金属音と、にとりの声が微かに聞こえてきた。
それを聞きながら、ふと雛は思う。水道からなぜ水が出るのか、当たり前すぎて疑問にも思っていなかった。どんなものも仕組みがあって、それを作った誰かが居るから、そこにあるのだ。にとりが機械を弄っているのを見ていると、そういうことがよく解る。
自分は、知らないことが多すぎる。にとりが色々弄っているのを見るまで、自分の使っているものの仕組みも知らなかった。そんな風に、認識すらしていない不思議なものが、たぶん自分の周りにはまだたくさんあるのだろう。
――それも、にとりが自分に教えてくれたものだ。
「ひなー」
と、窓から不意ににとりが顔を出した。思考を読まれたような気がして、雛の心臓がひとつ大きく跳ねる。当のにとりはそんなことには気付かない様子で、
「ちょっと、蛇口捻ってみてー」
「あ、うん……」
はふ、と息をついて、雛は蛇口に手をかけた。きゅ、と捻ると、溢れだすように水が流れ出す。「よし、これでおっけー」と満足げに頷いて、にとりは顔を引っ込めた。
本当に、あっという間に直ってしまった。河童の技術は幻想郷一と言うだけのことはある。感心しつつ、水を出しっぱなしにするのも勿体ないので、雛は蛇口を締め直す。
――だが、今度は水が止まらなかった。
「あら?」
締め直してみるが、やっぱり水が止まらない。雛が首を傾げていると、「ちゃんと直ったよねー?」とにとりが小走りに戻ってきた。
いや、今度は止まらなくなっちゃったみたいなんだけど――。そう答えようと振り返ると、
「はぅぁっ!?」
ずべしゃ。何も無いところで、突然にとりが転んだ。
「に、にとり? 大丈夫?」
あ痛たたた、と鼻をさするにとりに駆け寄る。「うう、何か踏んづけた……」と呻くにとりの足元を見やると――何か小さな部品のようなものが転がっていた。
「これかしら……?」
雛がそれを拾って差し出すと、「あぁぁっ!」とにとりは突然素っ頓狂な声をあげる。
「雛、水止まらなくなってない!?」
「え、ええ……」
「ごめん、部品ひとつ取り付け忘れてた! すぐ直すね!」
慌ててその部品を取り上げ、にとりは蛇口に駆け寄る。雛が声をかける間もなく、水の流れ続ける蛇口に手を掛けたにとりは、
「わぷっ」
蛇口を外した瞬間、吹き出た水の直撃を喰らった。
「うー」
しかしそれにも構わず、手早く蛇口をばらして組み立て直す。水の出続ける水道管に蛇口を押し込んで、きゅ、と水を止めると、「はふぅー」と脱力したようにその場に膝をついた。
「たはは……ごめんね。でも、これで直ったはずだよ」
「あ、ありがとう……大丈夫?」
頭を掻きつつ苦笑するにとりに、雛はひとつ首を傾げた。
「ん、大丈夫大丈夫。転ぶのは慣れてるし」
「そうじゃなくて、服。さっきので――」
「ほえ」
自分の格好を見下ろして、「あぅぁ」とにとりは呻いた。蛇口を取り外したときの直撃で、いつもの作業着風のスカートはびしょ濡れである。
「あー、うん、大丈夫。河童だし」
「駄目よ、着替えないと。乾かしておくから」
「いや、ホントに平気だから――」
「でも――」
そんな格好のままじゃ風邪を引いてしまう。いや、河童が風邪を引くのかどうかは知らないけれど、ともかくいくら河童でも濡れた服のままでは――と、にとりの服に手を掛けて、
「ひ、ひな」
困ったようににとりが声をあげて、はっと雛は視線をあげる。目の前で、何だかにとりが顔を赤くしていた。……冷静に、自分の手元を見下ろしてみる。にとりの着ている服に手をかけて、自分が何をしようとしていたのか、雛が把握するまで約一秒。
そして悟った瞬間、ぼん、と顔が破裂しそうになった。
「あ、いや、そ、そんなつもりじゃなくて、その、」
「う、うん、わかってる、わかってるよ、うん、あはは……」
真っ赤になって視線を逸らしつつ、しどろもどろの弁解。困ったようなにとりの声に、雛はそのまま穴を掘って埋まりたい気分になる。ああもう、何をやっているのだろう。
「じゃ、じゃあ、私の服、取ってくるから――」
「あ、りょ、了解ー」
にとりの声を背中に聞きながら、雛はぱたぱたと駆け出す。
うう、早く落ち着いてほしい、この心臓。顔の熱いのも。友達、だからって、その、やっていいことと悪いことが――ってだからそういう問題じゃ――ああもう、わけがわからない。
ただ、さっき。一瞬だけ、ものすごく近くににとりの顔があって。
それを思い出すだけで、恥ずかしくて仕方ないのに、どうしようもなく幸せな気分になってしまう自分がいることに、雛は気付いていた。
◇
そんなわけで。
「ううー……絶対変だってー」
ドアの向こうで、にとりが唸るように声をあげる。
「そんなことないわ、きっと」
少なくとも、ドアの向こうから出てきてもらわないと判断のしようもない。
「……笑わない?」
「笑わないわ」
きっぱり断言。するとようやく、おそるおそるといった様子でドアがゆっくりと開き、
――その奥から、いつもとは違う服を着たにとりが、姿を現した。
「…………」
「…………」
沈黙。――のち。
「あーうーあーっ、やっぱりダメ! 濡れててもいいから元の服に戻すーっ!」
真っ赤になって、にとりはまたドアの奥に全速力で隠れてしまう。
そんなにとりが身に纏っているのは、雛の私服。――要するにゴスロリファッションである。
うん、まぁ、何というか。正直に言って、確かにあんまり似合ってはいなかった。いや、にとりが可愛くないというわけではなく。何かこう、兎に狸の尻尾がついているような、根本的な違和感がどこかに漂っている。
何故だろう、と雛は首を傾げ、そしてすぐに原因に思い至った。――帽子のせいだ。
にとりが、家の中でも変わらず被っているあの帽子が、ヒラヒラのゴスロリと致命的に噛み合っていないのである。普段の作業着風のスカートとリュックという出で立ちには、よく似合っているのだけれども。
「にとり」
「……うー、」
ドアの向こうに隠れたままのにとりに、雛は声をかける。こそこそと顔だけこちらに出すにとりの様子が可愛らしくて、思わず頬が緩むと、にとりはぷーっと頬を膨らませた。
「あー、笑ったーっ! 笑わないって言ったのにー!」
「わ、笑ってないわ」
「笑ってるじゃないのー!」
むー、と睨むにとりに、困って雛は首を傾げ、
「えっと……帽子」
「ほえ?」
「帽子、外せば、きっと、似合うわ」
何を言っているのか自分でもよく解らない。しどろもどろになりながら、雛はにとりの頭に乗った緑色の帽子に手をかけ、
「――――――ッ!?」
ぼふん、と音をたてて、にとりの顔が爆発したように真っ赤になった。
「だ、だだだっ、ダメーっ! 帽子はダメーっ!?」
ばっと帽子を両手で押さえて、にとりはその場にしゃがみこむ。
「に、にとり?」
いささか過剰なその反応に、雛がどうしていいか解らずにいると、にとりは涙目で見上げて、
「…………雛のえっち」
「え、えええええええええっ!?」
ちょっと待って、帽子を外そうとしただけで何でそうなるのか。
目を白黒させる雛に、「あうあう」とにとりは帽子を押さえたまま口をぱくぱくさせる。
「ええと、そのですね、河童にとっては誰かの前で帽子を外すという行為は大変に恥ずかしいことでありましてですね、その、何と言いますか――」
何故か役人のような口調になって弁解し始めるにとり。
「……帽子の下は、その、……好きな相手にしか見せてはいけない場所なのですよ?」
その言葉と上目遣いの視線に、今度は雛の方が顔が爆発するかと思った。
「あ、そ、その、ご、ごめんなさい、知らなくて、」
「い、いやいや、うん、別に怒ってるわけじゃなくて――」
お互い呂律が回らず、相手の顔が見られなくて視線を逸らす。
何をやっているのだろう、本当に。顔の熱がなかなか引いてくれなくて、雛は溜息。
……でも。にとりの言葉を思い出す。
『好きな相手にしか見せてはいけない場所なのですよ?』
あれ、それを嫌がられたってことは……あれ?
ううん、その、好きって、ええと、なんだろう、ああもうわけがわからない――
「あ、あのね、」
と、不意にぎゅっと、にとりが雛の服の裾を掴んだ。
「……雛のこと、嫌いなわけじゃない、から」
雛の背中に顔を押しつけるようにして、にとりは囁く。
「ただその……ええと、いきなりだったから恥ずかしかっただけで、その、ひ、雛なら――」
「……にとり?」
振り向けば、真っ赤な顔でこっちを見つめる、にとりの潤んだ瞳。
そこから、雛は目が離せなくなって、
「ひな、」
「にと……り」
頭の奥がじんと痺れて、思考が麻痺してしまった。
ただ雛は、誘われるようににとりの頬に手を添えて、
にとりはきゅっと目を閉じて、雛の手に身を任せて、
ぽっぽー、と鳩時計が間抜けな声で時刻を告げた。
はっと我に返ったように目を見開き、金縛りにあったように、二人ともそのまま硬直。
お互い、ひどく間抜けな顔で見つめ合っていて。
「……ぷ」
どちらからともなく、噴き出すように笑い出して。
そのまましばらく、何が可笑しいわけでもないのに、ふたりで笑い転げていた。
◇
それから、厄を回収するついでに、ふたりでのんびり、川べりを歩いた。
「うう、やっぱり着替えるよー……」
「大丈夫よ。このあたりは誰も来ないし……」
結局ゴスロリ衣装に帽子を被ったままのアンバランスな格好で、にとりは恥ずかしそうに俯いていた。そこまで恥ずかしがることもないと思うのだけども。
「いや、やっぱりその、こういう服は雛みたいな……綺麗な子じゃないと」
ヒラヒラのスカートを見下ろして、にとりはそんなことを呟く。
にとりに、綺麗、と言われるのがくすぐったくて、雛は吐息とともに口元を覆った。
「……にとりだって、可愛いわ」
「い、いや、そんなことは」
照れくさそうに両手を振るにとり。ほら、やっぱり可愛い。
「それに、この蒼い髪だって、すごく綺麗――」
短いツインテールの髪に手を伸ばすと、「ひゃふ」とにとりはくすぐったそうに目を細めた。
しっとりした手触りの髪をそっと梳く。顔を赤くして、けれどにとりは雛の手に任せる。
「……ねえ、雛」
「なに? にとり」
「ん……何でもない」
そんな、何の意味もない言葉を交わすだけで、ほっと胸の奥が暖かくなる。
このままずっと、にとりに触れていたい――なんて。
「ひゃうっ」
と、髪を梳いていた指が、そこに隠れていたにとりの耳に触れた。びくっと反応して、にとりは数歩雛から離れてしまう。それで、魔法のような触れあう時間はおしまいだった。
何だかお互いに気恥ずかしくて、視線を逸らしたままどちらからともなく歩き出す。風にそよぐ木々のざわめきと、河のせせらぎばかりと、ふたりぶんの足音だけがBGM。だけどその沈黙は、あまり気まずくはなかった。むしろ……心地よささえ、覚えて。
不意に、一歩前を歩いていたにとりが、少し歩調を緩めて、雛の右隣に並ぶ。
そして――ためらいがちに、その左手が、雛の右手のあたりに差し出された。
それに気付いて、雛もおそるおそる、手を伸ばす。互いの指先が軽く触れる。そのささやかな感触がひどくくすぐったくて、一度弾かれたみたいに手と手は離れて。
だけど、もう一度伸ばした手は、どちらからともなく、互いの指が絡んだ。
にとりの冷たくすべすべした手を、きゅっと握る。指を絡めて、手のひらを重ねて。
触れあったところから、お互いの鼓動が伝わってくる気がした。
――にとり。
囁くような言葉は、口にしなくても届くような気がした。
――雛。
囁かれるような言葉は、音でなくても届いた気がした。
ほんの少し、視線を交わして。互いに照れくさくて、笑い合って。
きゅ、と繋いだ手をきつく握りしめて。
川べりの散歩道を、一歩一歩を確かめるように、ゆっくりと歩いた。
ときどき、互いの名前を囁きあいながら。
それだけで――どうしようもなく、幸せだった。
◇
そして気がつけば、夕日が森の彼方に沈もうとしていた。
乾いたいつもの服に着替えたにとりは、鴉の鳴き声に顔を上げる。
「じゃあ、今日はそろそろ帰るねー」
「……うん」
立ち上がり、ばいばい、と手を振るにとりに、雛は小さく手を振り返す。
夕日に照らされたにとりの影が、雛の足元まで伸びていた。
――この影を踏んで留められたらいいのに、なんて。
軽いステップで歩き出すにとりの姿は逆光に隠れて、その影もやがて雛の足元を離れて、
「にとり、」
思わず呼びかけた声は、存外に大きく響いてしまった。
「ほえ、なに?」
くるりと振り向いたにとりの表情は、夕日に隠れてよく見えないけれど。
きっと、いつもみたいに底抜けに明るく笑ってるんだと、思う。
「……また、明日」
帰っちゃいや、なんて、子供みたいなことは言えなかった。
手の届く距離だったら、その服の裾をつかんでしまったかもしれなかったけれど。
影ももう、足元を離れてしまったから。
だから雛は、微笑んで手を振りなおす。
……うまく笑えてるのか、自分ではよくわからないけれど。
「うん、また明日」
ぶんぶんと大きく手を振り返してくれるにとりの姿がまぶしくて、雛は目を細めた。
――そして、夕日の向こうににとりの姿が消えて。
夕焼けも宵闇に覆い尽くされて、世界が夜に包まれる。
その闇は深くて、孤独で、だけど。
また明日。
明日も、にとりと会える。
――その約束があるから、ひとりの夜も、寂しくない。
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