にと×ひな! Stage1「人恋し河童と厄神と」 SIDE:B
2008.06.12 Thursday | category:東方SS(にとり×雛)
河城にとりには、友達がいない。
ひとりきりだったわけではない。谷カッパの里には、同じ河童の仲間が大勢いる。
だけど、にとりには友達がいなかった。
ひとりも、いなかった。
◇
ここ最近、里での話題といえば、専ら妖怪の山にやって来た妙な神様のことが中心だった。
妖怪の山の古参である河童や天狗に敬意も払わず、山の上の方に居座ろうとしている新参の神様。わざわざ様子を見に行った河童によれば、どうも神様だけでなく、人間も連れているらしい。
里の長老などは、天狗様と対応を協議しているらしかった。我々河童や天狗様と共存する姿勢ならば良し、山を我が物とするようなら如何様にすべきか云々かんぬん。
――まあ、そんなことは、概ねにとりにはどうでもいいことだったけれど。
「人間、かぁ」
漏れ聞こえてくる他の河童の声に、にとりはふと呟く。古来から河童の盟友であるという人間。しかし、にとりはこれまでほとんど人間を見たことがなかった。
興味が無いといえば嘘になる。山に来た神様のところに人間がいるというのなら、見に行ってみたい、とは思う。――それでどうするかは別として。
「こいつも、それに使えるかなぁ」
開発中の光学迷彩スーツを眺めながら、にとりはひとりごちた。
これで身を隠して、人間の姿を伺って。……それでどうするんだろう。
例えば古来からの盟友らしく、コミュニケーションを取ろうとしてみるとか――
「……っと、時間だ」
ふと見やれば、砂時計の砂が尽きていた。河で冷やしておいたきゅうりを回収しに行く時間である。あまり長いこと放置していたら、誰かに盗まれるかもしれない。
ぱたぱたと、にとりは部屋から駆け出す。途中何かを拾ってもいいように、いつも通りリュックを背負って、トレードマークの帽子を被る。準備はOK。
「いってきまーす」
誰に言うでもなく、決まり文句を呟いて。晩夏の陽射しが眩しい中に、にとりは足を踏み出した。
妖怪の山から流れてくる河は、河童の生活の中心を担っている。
魚を捕ったり、川辺にきゅうりを植えて育てたり。河童、というだけあって、河は河童にとってなくてはならないものだ。
だからどんな河童でも、河で泳げないということはないし、溺れるなんてまずあり得ない。
――そのはずなのだけれども。
「うん、よく冷えてる冷えてる」
紐でくくって流れに晒していたきゅうりを回収し、にとりはご満悦の表情でポケットに仕舞った。きゅうりは河童の主食である。よく冷やして食べるのが基本だ。
「……ん?」
と、ふとにとりは川底の一点に目を留めた。何か、陽光を反射している。――何だろう?
川底に、上流から流れてきた変なものが沈んでいるのは珍しくない。そういうものを拾って帰るのは、にとりの趣味のようなものだ。だからにとりは、いつものように河に足を踏み入れて、川底へと手を伸ばし、
――お約束のように、藻に足を滑らせた。
「あわっ――」
両手を振り回すが、崩れたバランスは取り戻せず、尻餅をつくようににとりは倒れ込み、
その勢いのまま、近くの岩に後頭部を思いっきりぶつけた。
「――ぎゃふん」
幻想の音を呻いて、そのままにとりは目を回す。ぐったりと水に浮いたその身体は、ゆったりとした河の流れに乗って、下流へと流されていった。
◇
普段から機械いじりばかりしているから友達がいないのか、友達がいないから機械いじりばかりしていたのか、今となってはよく解らない。
ただ事実として、にとりには同じ河童の友達はおらず。もちろん、別の妖怪や妖精、八百万の神の友達もいなかった。
――そのことを、寂しいと思ったことが、無いと言ったらきっと嘘になる。
だけど今更、同じ里の河童に「友達になろう」とは言い出せなかった。
そして、河童の里からほとんど出ることもないにとりは、他の妖怪と出会うこともなかった。
だからにとりは、ときどき空想で遊ぶのだ。
河童の盟友であるという、人間と出会い。そして一緒に機械をいじって遊ぶ日を。
――友達が、出来る日を。
◇
夢を見た。
夢の中で、あの河が盛大に逆流していた。それはもう猛烈な勢いで。
にとりはその流れに乗って、風を切って山を登っていく。
そして辿り着いた先は、山の頂上で噴き上げる巨大な噴水だった。
その噴水の上で、にとりは笑いながら叫ぶ。何か、楽しくて仕方なくて、元気いっぱいに、
「――びっくりするほどポロロッカッ!」
そこで目が覚めた。
「……あれ? ここは?」
勢いよく跳ね起きて、しかし意識はまだ茫漠としていた。にとりはぼんやりと周囲を見回す。見覚えのない景色。振り向けば、近くを河が流れていた。夢にも見た、あの河だ。
そこでようやく、脳が正常に稼働し始める。河童の頭脳が記憶を探索、現状を認識。
「そうだ、確か河で足が滑って……って、あわわわっ」
ぽんと手を叩き、それから慌ててにとりは背中のリュックを開く。中に詰め込まれたガラクタ一式は、特に濡れた様子もなかった。どうやら無事らしい。
「はぁ〜、良かった、リュックは無事だぁ……」
安堵の溜息をついて、にとりはリュックを抱く。……河で気絶して流されるなんて、河童の川流れとはよく言ったものだ。念のためポケットを探ると、入れておいたきゅうりも無事だった。不幸中の幸いである。
はて、しかし、自分が河を流されたのだとしたら、どうして地面に寝かされていたのだろう? ふとその疑問が頭をよぎり、にとりは顔を上げる。
――そして、そこにいた少女と目が合った。
ひらひらとした服とリボンを身に纏った、どこか不思議な雰囲気の少女。
何か困ったような表情で、座り込んだままこちらを見つめていた。
にとりは目をぱちくりさせる。少女は何か気まずそうに、ふっと視線を逸らした。
……え、ええと、えとえと。
それまで割合冷静に状況を把握していたにとりの脳も、急にオーバーヒートしたように動作が鈍くなる。何か顔が熱かった。何故だかはさっぱり解らないのだけれど。
「えーと……ひょっとして命の恩人さん?」
確かめるように、にとりはそう口を開く。そう、そうだ。流された自分が地面に寝かされていて、そばに誰かが居たとなれば、それはたぶん、自分を拾ってくれたのだ。
この、綺麗な女の子が。
――そう、綺麗だった。少なくとも、にとりは目の前の少女をそう思った。
困ったようにこちらに向ける視線が、ひどくくすぐったくて。
何だかもう、それでわけがわからなくなってしまった。
「え」
「助けてくれたのかな。ありがとねっ」
このまま黙っていたら、少女がどこかに行ってしまいそうな気がして、気が付いたらにとりは少女の手を掴んでいた。――すべすべした、あったかい手だった。
近付く顔。視線を彷徨わせる少女の顔から、にとりは目を離せなくて。
――あ、そうだ、お礼。助けてもらったんだから、お礼しなきゃ、
「えと、これあげる」
慌ててポケットをまさぐり、きゅうりを取り出す。あげられるものは咄嗟にこれぐらいしか思いつかなかった。
「美味しいよっ」
「は、はぁ」
戸惑い気味に少女がきゅうりを受け取った。何かそのことがすごく嬉しくて、にとりは顔が緩むのを抑えられなかった。
――自分でも、本当によく解らない。どうしてこんなに、鼓動が早いのか。
心臓の音が聞こえて、息が詰まりそうで、だけど何故か苦しくはなかった。
俯き気味にきゅうりを見つめた少女が、ふと上目遣いでこちらを見つめる。
その視線に、また一段と強く心臓が跳ねた。
ああ、なんだろう、この場に居たいのに、逃げ出してしまいたいような、矛盾する感覚。
それが何か怖くなって、にとりは慌てて立ち上がる。
「っと、里に戻らなきゃっ。じゃあね、ありがとっ!」
まるで言い訳のように早口で呟いて、にとりは駆けだした。
心臓がばくばくで、頭がぐるぐるで、何が何だか解らなくて。
このままあの少女の視線に見つめられていたら、おかしくなってしまいそうだった。
だから逃げ出すように、にとりは足を速めて、
――なのに、思いっきり足を滑らせる。
「はぅぁっ!?」
前のめりに派手にすっ転び、鼻を打ってにとりは呻いた。うう、なんでこんな……。
「あ痛たたた……」
鼻をさすりながら顔を上げる。――と、不意に背後に気配がした。
振り向くと、あの少女がこちらに歩み寄っていて。自分の足元にかがみ込んでいる。
「じっとしていて」
涼やかな声。冷静なようで、どこか優しさの滲むような、そんな声だった。
少女が何をしているのか、にとりにはよく解らなかった。ただ、にとりの足元から、何かをすくい上げるような動作をする。
――それと同時、何かふっと、身体が軽くなった気がした。
「これで、大丈夫」
「ほえ」
にとりはただ目をしばたたかせる。少女が何をしたのかは解らない。けれど、何か憑き物が落ちたような感覚があったのは確かだった。――少女のおかげ、なのだろうか。
首を捻るにとりに、少女はふっと微笑んだ。
その笑顔がとても綺麗で、またにとりの顔は爆発したように熱くなる。
「んーと、よくわかんないけどありがとねっ。じゃっ!」
立ち上がり、にとりは再び駆けだした。今度は転ぶこともなく。
――そして、ようやく気付いた。
あの少女のそばにいるのが、ひどく気恥ずかしかったのだ、ということに。
そのまま、河を遡って走り、走り、もう少女のいた場所も見えなくなった頃、にとりは足を止めて、大きく息を吐き出す。そして、近くの樹にもたれて、その場に座り込んだ。
「……はふぅ」
漏れるのは、溜息ともつかない妙な声だけ。
脳裏に浮かぶのは、先ほどの少女の姿ばかり。
人間……では、なかったと思う。河童や天狗でもない。妖怪か、あるいは八百万の神様だろうか。いずれにしても、にとりには馴染みのない相手だ。そもそも同じ河童でも似たようなものだけれど。
「綺麗……だったなぁ」
ぽつりと漏れたのは、そんな言葉。見たこともないほど、綺麗な少女だった。特に、最後に自分に見せたあの微笑みが。……どうしようもなく、顔が熱くなるほど。
ただ……ひとつ、気になったのは。
思い返す、彼女の表情が。どこか寂しそうだったような、そんな気がするのだ。
「うー」
胸元に手をやる。呼吸は落ち着いたのに、動悸はまだ速いままだ。
視線を走り去ってきた方に向ける。この河をくだっていけば、また彼女に会えるだろうか。
……会って、どうする?
「お礼……ちゃんと、言わなきゃ」
そうだ。きゅうりは渡して、『ありがとう』も言ったはずだけれど。あんな忙しないのじゃなく、もっとちゃんとお礼を言わなきゃ。長老も言っていた。いいことをされたら感謝を忘れてはいけない、と。
改めて、きゅうりを持って。『助けてくれて、ありがとう』と。
微笑みが綺麗な、だけど少し寂しそうな、彼女――
「あ」
そこで肝心なことを思い出して、にとりは溜息をつく。
「……名前、聞いてなかった……」
◇
「そりゃ、厄神様じゃないのかね」
里の長老に聞いてみたら、そんな答えが返ってきた。
「厄神様?」
「左様。厄を祓ってくれる神様よ。河の下流におる厄神様は、あまり人の厄を祓ってやったりという話は聞かんがの」
ふぅん、とにとりは首を傾げる。だとしたら、彼女はあのとき、自分の厄を祓ってくれたのだろうか。確かに、何だか身体が軽いのは事実なのだけれど。
「まぁしかし、あまり厄神様に近付かん方がええぞ」
「え、なんで?」
「厄神様は祓った厄を溜め込んでおるからの。近くに長くおると、それだけで不幸になるという話よ。また河に流されたくはなかろ?」
――そりゃまあ、そうだけど。
長老のところを辞して、にとりは小さく溜息混じりに、日の沈み始めた空を見上げた。
夕暮れは長く影を伸ばす。家に帰る時間。――彼女も、家に帰っているだろうか。
『あまり厄神様に近付かん方がええぞ』
長老の言葉を思い出す。……それに重なったのは、彼女のどこか寂しげな顔だった。
ひょっとしたら、彼女も自分と同じように、友達がいないのだろうか?
近くにいると不幸になるから、誰も近付いてくれない厄神。
――だけど、彼女に触れたこの手はあたたかくて。
「……やっぱり、明日行こう」
河の方を見やって、にとりは決意を呟いた。
そうだ、会いにいこう。もう一度、彼女に。ちゃんとお礼をしに。
不幸になる? 気にするもんか。会うなと言われれば会いたくなるものだ。
そうと決まれば、早く寝て明日に備えよう、うん。ぎゅっと拳を握って、にとりは家路を急ぐ。その脳裏に、彼女の見せた微笑みが浮かんで、また顔が熱くなるのを感じながら。
――ちなみに、目が冴えてなかなか眠れなかったのは言うまでもない。
あと、すっかり忘れていたけど、河でぶつけた頭も痛かった。
◇
そんなわけで、翌日。
光学迷彩スーツを着込んで、にとりは川べりを下っていた。試運転も兼ねるという言い訳は誰に向けたものか。――単に小心者なだけである。
河のせせらぎを聞きながら、にとりは軽快な足取りで進んでいく。晩夏の陽射しは眩しい。今、自分の姿はちゃんと隠れているだろうか。自分では確認出来ないのが問題だった。
ともかく。ポケットに入れたきゅうりを気に掛けつつ、にとりは視線を彷徨わせながら歩いていく。里を離れたこと自体ほとんど無かったし、昨日の帰り道は彼女のことで頭がいっぱいだったから、景色を見ている余裕なんて無かったのだ。
砂利の敷き詰められた川べりを少し離れれば、鬱蒼とした林が広がる。陽光を遮るその梢のざわめきは、何か自分に囁きかけているようにも聞こえた。
――勝手に会いに行って、かえって厄神様は迷惑じゃないのかね?
――近付けば不幸になると解っているから、人も妖怪も遠ざけているのではないかね?
――それなのに、会いにいってどうするというのだね?
ふるふると、にとりは首を横に振ってその囁きを打ち消した。
それを聞くのは、厄神様本人の口からでいい。本当に迷惑に思われていたり、近付いて欲しくないと思われているなら、そのときはちゃんと引き下がる。
だけど。――だけど。
心からそう思っているなら、あんな寂しそうな顔はしないと、思うのだ。
「……あ」
そうして、流れに沿って下り続けること、しばし。不意に傍らの林が途切れて、開けた草むらが見えたその場所に。――川べりに佇む、彼女の姿を見た。
翻る真紅のスカート、大きなリボン。鮮やかな翠緑の髪。遠目にも明らかなその姿。
慌ててにとりは、近くの木の陰に隠れる。……何をやっているんだろう、どうせ光学迷彩で向こうには見えていないはずなのに。
問題は、いつどのタイミングで迷彩を切って彼女に声をかけるのか――
全く唐突に、彼女がこっちを振り向いて――思いっきり目が合った。
「はぅっ」
ま、まさか気付かれた? 小さく悲鳴をかみ殺して、にとりは足音を忍ばせながら別の木の陰へ移動する。――気のせいだよね、うん。たまたまこっちを振り向いただけ。そう確かめるように、再びにとりは彼女の姿を伺い、
再び、視線が交錯した。
「あぅぁ」
にとりは天を仰いで呻く。こちらを見つめて目をぱちくりさせる彼女の視線は、完全にこちらに気付いていた。――迷彩が上手く機能していなかったらしい。実験失敗、ってそうじゃない。問題はそっちじゃないのだ。
「……何をしているの?」
おそるおそるといった様子で、彼女が声をかけてくる。もう誤魔化しようがないと悟って、にとりは乾いた笑いを漏らしながら頬を掻いた。「おかしいなぁ、なんで見つかっちゃったんだろう」とわざとらしく呟いて、動悸の速くなったのを隠してみたり。
首を傾げる少女の視線に、身体が火照ってくるのを感じる。ああ、もう、どうしよう。自分の身体が自分のものじゃないみたいだ。落ち着け河城にとり。落ち着け――。
「えーと、こんにちはっ」
頑張って笑顔を作りつつ、にとりは彼女の顔を覗きこんだ。上手く笑えたかどうか自信はない。彼女が驚いたように後じさったのを見ると、上手くいかなかったかも。うう。
「とりあえず、これ」
ともかく、今はすべきことを済ませてしまおう。痺れたような思考の片隅でそんなことを思い、にとりはポケットからきゅうりを取り出す。
「改めて昨日のお礼。助けてくれてありがとねっ」
いっぱいいっぱいの笑顔で差し出してみたけれど、彼女は困ったようにきゅうりとにとりの顔を見比べた。……ひょっとして、きゅうり、嫌いだっただろうか。にとりは急に不安になる。
「……きゅうり、嫌いだった?」
ああ、やっぱり迷惑だっただろうか。来ない方が良かったのだろうか――そう、ネガティブな思考がぐるぐると渦巻くけれど。
「あ……別に、そういうわけじゃ、ないけど」
彼女はそう言って、差し出したきゅうりを受け取ってくれた。
なんだか胸の奥から嬉しさが込み上げて、にとりは頬が緩むのを押さえられない。
「きゅうり、美味しいよねっ」
何度も頷いて、彼女を見つめる。近くで並んでみると、少し彼女の方が背が高い。上目遣いにその綺麗な顔を見上げていると、彼女は不意に照れたようにくるりとそっぽを向いた。そんな仕草も可愛らしくて、にとりの胸はまたどきんとひとつ跳ねた。
――えと、そう、何か言わないと。ええと、えと、
「そういえば、昨日から何だか身体が軽いんだけど、ひょっとして何かしてくれたの?」
しばし口をぱくぱくさせた挙げ句、結局出てきたのはそんな言葉だった。彼女が長老の言う通り厄神様なら、そんなのは解りきった問いだったけれど。――そんなことしか口に出来ない自分が少し情けない。
「……厄が憑いてたから、祓ったのよ」
彼女は振り返らないまま、ひとつ息を吐き出して答えた。
「厄? あ、このへんに厄神様がいるって聞いてたけど、やっぱり君のことだったんだ」
ああ、なんてわざとらしい言葉だろう。にとりは軽く自己嫌悪する。
もっとこう、言わなきゃいけないこととか。言いたいこととか。いっぱいあるはずなのに、彼女の姿を見ているだけで、頭がぐるぐるで、舌が上手く回ってくれないのだ。
「知ってるなら……早く帰った方がいいわ」
「ほえ?」
不意に俯きながら呟かれた言葉に、にとりは目を見開いた。
「私のそばにいたら、厄が移るもの。……また不幸になるわ」
そんな、微かに震える唇から吐き出される言葉は、ひどく――悲しい色をしていた。
俯いた表情は見えないけれど、にとりは悟る。きっとまた、寂しそうな顔をしているのだと。
――近くにいる者は不幸になるから、孤独でなければならない厄神。
ああ、とにとりは何か、すとんと胸に何かが落ちるのを感じた。
そうか。そうだったんだ。――ひどく、単純なことだったんだ。
もう一度彼女に会いたいと思ったのは、ただ。
彼女にこんな、寂しそうな顔をしてほしくないと、思ったからなんだ。
「んー?」
だからにとりは、腕を組んで唸る。
どうにかして、彼女のその寂しげな表情を消したかった。
「えーと、昨日、私に憑いてた厄を、君が祓ってくれたんだよね」
「……ええ」
「で、君の近くにいると、厄が移るの?」
「そうよ。……目に見えるぐらい、厄が溜まってるでしょう」
彼女の言う通り、彼女の周囲はどこか空気が薄暗い。この障気のようなものが、彼女の溜め込んだ厄の塊なのか。……だけど。
昨日のことを思い出す。転んだ自分から、何かをすくい取ってくれた彼女のことを。
「んー? よくわかんないけど、厄が憑いたらまた君が祓ってくれればいいんじゃないの?」
「……え?」
ふっと浮かんだ思いつきを、にとりは口にする。その言葉に、彼女は振り向いた。
「だから、君の近くにいて新しい厄が憑いても、帰るときに君が昨日みたいに祓ってくれれば、何も問題無いよね? ……何か間違ったこと言ってるかな?」
そう、そのはずだ。だって実際、彼女は昨日、自分の厄を祓ってくれた。彼女のそばにいたけれど、不幸になんてならなかったのだから。
――むしろ、こんなに甘酸っぱい、幸せな気持ちを、くれたのだ。
「え? え、……でも、」
彼女はパニックを起こしたように、目を白黒させる。――彼女自身も、ただ思いこんでいただけなのだろうか? 自分は他人に不幸を呼ぶと。だとすれば、
「で、でも、これだけの厄が近くにあれば、それだけで不幸になるわ」
「んーと、じゃあ厄神様は? その厄の真ん中にいて、不幸なのかな?」
「――――」
彼女は息を飲んで。それから、つっかえつっかえ何事か、早口で喋り出した。いわく、厄は自分の周囲をぐるぐる回っていて、自分にまとわりつくことはないから、台風の目のように自分に厄の影響が及ぶことはない、とか何とか。
――なんだ。やっぱりそうなんだ。
河童の頭脳が答えを導き出し、にとりは笑った。今度はちゃんと、笑えたと思う。
「じゃあ、厄神様のすぐそばにいれば安心だねっ」
そして、ぎゅっと彼女の腕を掴んで、身体を寄せた。ぴったりくっつくように。
上目遣いに見上げれば、彼女は顔を真っ赤にして、また視線を逸らす。そこでようやく、にとりも自分が何をしているのか思い出した。――半ば彼女に抱きついているのだと。
そのことを改めて認識すると、にとりの顔も沸騰したように熱くなる。ああ、もう、テンションが上がったからといって何をしているんだろう自分、いきなりこんな――
「……それとも、迷惑かな」
真っ赤な顔を俯けて、にとりは身体を離す。流石に、馴れ馴れしすぎる。こんなだから、友達も出来なくて。厄神様にも迷惑をかけて――。だけど、掴んだ彼女の腕を放してしまいたくない、と思っている自分が居て。
――不意に自分の手が、彼女に握りしめられた。
「ほぇ」
はっとにとりは視線を上げる。彼女は何か、困ったように口をぱくぱくさせていて。
だけど、どんな言葉よりも、手のひらに感じる彼女の手の温もりは、確かだった。
それが答えなのだと、雄弁に教えてくれていた。
「……そんなこと、ないわ」
結局、彼女が口にしたのはそれだけだったけれど。
それは、にとりを受け入れてくれる言葉だった。
河城にとりという河童を、厄神様が受け入れてくれたという、証だった。
――だから、にとりは。
「なら、友達になろう」
今度こそ、本当に、心の底から笑って。その言葉を、口にした。
今まで誰にも言えなかった言葉。言い出す勇気の無かった言葉。
その勇気をくれたのは、彼女の握ってくれた手の感触だった。
「友達。ね?」
首を傾げてみせると、彼女はその綺麗な瞳をしばたたかせて。
「とも……だち」
確かめるように、その単語を呟いた。
彼女の声で響いたその単語がくすぐったくて、にとりははにかむ。
友達。そう、友達だ。友達になりたいんだ、君と。
それはとても甘美で、柔らかくて甘いマシュマロのような言葉――。
「私で……いいの?」
戸惑ったような、彼女の答えに。――嬉しさが爆発するという感覚を、にとりは生まれて初めて味わった。本当に、飛び上がりそうなぐらいに、嬉しかった。
「うんっ」
迷いのない即答で、にとりは彼女の手を握りしめる。
「えへへ、友達っ。よろしくね、えと――」
そして、にとりは彼女の名前を呼ぼうとして、肝心なことを思い出した。
――そうだ、名前、聞き忘れてたんだった。
ああもう、何をしているんだろう。一番大事なことじゃないか。
ばかばか、と自分を殴りたくなる衝動を抑え、にとりは苦笑する。
「えと、……名前、聞いてなかったや」
たはは、と頬を掻いてみせる。こんなので本当に友達になっていいものか、自信がなくてビクビクだったけれど。彼女は小さく、笑みを見せてくれた。
それは、にとりの鼓動を速くする、世界で一番綺麗な笑顔。
「……雛。鍵山、雛」
きゅっとにとりの手を強く握って、彼女はそう名乗った。
鍵山、雛。にとりはその名前を、刻み込むように頭の中で繰り返して。
「ひな。……雛」
確かめるように口にしたその二文字が、どうしようもなくこそばゆかった。
言葉って不思議だ。ただ二文字で、なんでこんなに幸せな気分になれるんだろう。
「私、にとり。谷カッパの河城にとり。――よろしくね、雛っ」
そして、にとりも名乗る。自分の名前を。きっと、今までで一番の笑顔で。
「……にと、り」
彼女――雛も、その三文字を確かめるように呟いて。
「うんっ」
耳朶をうつその響きに、にとりはもう溶けて消えてしまいそうだった。
――ああ、名前ってこんな風に、呼び合うためにあったんだ。
ひな、と呟くだけで。にとり、と囁かれるだけで。
発明品の完成よりも、よく冷えたきゅうりを食べているときよりも。
どんなときよりも、こんなに、幸せな気持ちで満たされるから――。
「雛」
「……にとり」
えへへ、と笑って。にとりは何度も雛の名前を呼んだ。
雛も、はにかみながら何度も、にとりの名前を呼んでくれた。
たったそれだけの幸せを、ふたりでずっと噛みしめていた。
◇
それが、始まり。孤独な厄神と、人見知りな河童の出会い。
幻想の片隅の、語るまでもない小さな恋物語を始めよう。
面白味も何もないけれど、ほんの少し幸せな、優しい厄神と河童のお話を――。
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にとり編Stage2へ
⇒ こじたん (11/17)
⇒ 浅木原 (11/16)
⇒ こじたん (11/16)
⇒ 時の番人 (11/14)
⇒ 置き石 (10/14)
⇒ 葉月 (09/19)
⇒ ろっく (05/17)
⇒ 六仁祝 (08/27)
⇒ はまなす (06/20)
⇒ 橘 奏 (08/10)