魔法少女リリカルなのはFROZEN 第1話「流転-Returning End-」(4)
2008.04.15 Tuesday | category:投稿SS(FROZEN)
*注意*本作は「魔法少女リリカルなのはBURNING」の三次創作です。本編のネタバレを大いに含むため、先に「なのはBURNING」を読まれることを推奨致します。
沈月さんより、「なのはFROZEN」第4回が届きましたよー。
沈月さんより、「なのはFROZEN」第4回が届きましたよー。
目覚めた……と、そう言っていいのだろう。この覚醒は。
重しの詰まった帽子を被せられたような鈍痛。深い海の底で遠い波の残響が響くような、きぃぃん……という音叉めいた透明な耳鳴り。目蓋越しにも否応無く伝わる、押し潰されるような昏く濁った泥にも似た暗闇……それら全てから突然不意に、ふ……と浮き上がるような感覚と共に、気付けば彼女は瞳を開いていた。
……例え、その瞳に映る風景が、体を支配する重みが、痛みが、目覚める以前と何ら変わることがなかったとしても。全く同じ苦痛を与える、自分を取り巻く世界が、夢から現実に変わっただけだとしても。
彼女――アリサ・バニングスが今この瞬間目覚めたということは、紛れもない事実であるはずだった。
そう……、
「――おはよう、あたし」
例え彼女の目の前に、自分と全く同じ顔をしたもう一人の人間が、妖艶な笑みを湛えて立っていたとしても、だ。
◇
あまりに突然の事態だった。現れた凶器、襲い掛かる凶手、振り下ろされる凶刃……何もかもが唐突過ぎて、成す術も無く呆然と立ち尽くしていたすずかが唯一できた反応といえば、身を強張らせ目を瞑る程度だった。
「――――っ!」
点滴の袋を吊るスタンドが倒れる、がしゃーんという派手な金属音。刃物のように鋭い何かが目の前の空気をかまいたちのように切り裂いていく、疾風めいた音。それが、目を閉じた暗闇の中ですずかが辛うじて知覚できた全てだった。
(……あ、れ?)
だが、覚悟していた痛みは一向に訪れない。訝りながら、すずかは固く閉じていた瞳を恐る恐る開いた。その視界に飛び込んでくる、幸運にもすずかを傷つけることなく空を切った――凶器。
「ひっ……!」
それは木の根だった。植物では有り得ない速度で伸びてすずかに襲いかかったそれは、今は触手のように蠢きながら、けれども再び襲いかかるでもなくゆらゆらとすずかの目の前でその先端を揺らしている。
「……?」
だが、あれだけ素早い動きで襲い掛かってきた根は、今こうして無防備を晒すすずかを前に、何の行動も起こさない。いや……何もしていないのではなく、それはむしろ、獲物を探しているように見えた。
目と鼻の先にいるというのに、その木の根はすずかを見失っているらしい。
――いや、考えてみれば当然だ。生き物のように見えても、所詮は木の根。物を見る目もなければ、匂いを嗅ぎわける鼻もなく、音を聞く耳さえなければ、考える知能など望むべくも無い。手を伸ばせば触れられるほど近くに居ても、向こうがこちらの位置を知る手段はないはずだ。
「……は、ぁ…………」
その事実が、ほんの少しすずかの心を落ち着かせた。息をついて乱れた呼吸を整え、幾ばくか冷静になった頭で、ともかくこの場から離れなければと思考を巡らす。
と、そこでようやく、すずかは今の自分の体勢に気が付いた。
――何のことは無い。自分に襲い掛かってきた木の根が空を切ったのは、驚いて後退ったすずかが石か何かに躓いて尻餅をついたことで目測を誤ったと、それだけのことだったのだと理解した。
だが、それがいけなかった。逃げようと、この場から離れようと、そのためにまず立ち上がろうと地面に突いた手が
「あ……っ!」
確信があった。それは、薄膜一枚隔てた先の身の危険に晒されているすずかが、今最も犯してはいけないミスだった。
目も鼻も耳も知能も無い木の根が、一番初めにこちらの居場所を掴んで襲い掛かってきた理由。地面の中を這い進み地表にまで浸出しているそれらが最も深く繋がり、接しているもの。地中へ伝わる、振動。
恐らくはそれが、それらが知覚でき反応できる唯一の感覚なのだと、すずかは直感的な確信を抱いていた。
というのに、自分はそれを、ミスを、自らを身の危険に晒す愚考を、犯してしまった。
「――! きゃあっ!」
かくして、すずかの予感は的中した。ゆらゆらと蠕動を繰り返していた根は弾かれたようにこちらへ向き直り、その槍のような先端を突き出してきた。
◇
「気分はどう、爽快?」
口元に手をやって、くすくすと笑うもう一人の
「っ、――っ!」
その口をついて出るはずだった誰何の声は、なかった。
「(声、が……!?)」
声が出なかった。発するだけの力がないとか、息が詰まったとか、そういう問題ではない。それはあたかも『発声』という行為そのものを封じられた――いや、
「心配しなくてもいいわ。少なくともあたしにはちゃんと聞こえているから」
狼狽するアリサに投げかけられる、淡々とした声。この異常な状況下において、もう一人の
「(何なのよ、アンタ……)」
なんて、ワルいユメ。突然自分と違う動きをした鏡像を見るような目で、アリサは目前の自分に問う。
対して答える『アリサ』の声は、さながら学校の授業で教師に指されたときのような、模範的な響きをしていた。
「そんなの見ての通りよ。あたしは、あなた。“アリサ・バニングス”であったあなたが喪ったカタチを得た、別の、もう一つの、そして同じ――“アリサ・バニングス”よ」
「――!」
その『アリサ』の口にした言葉はほとんど理解できるようなものではなかったが……しかしアリサは、知識ではなく感覚で、その言葉を理解していた。声を発することが出来なかったときに感じた、あの『奪われた』という感覚。それが、全てを物語っていた。
同時に、昏く濁った泥の中に沈むような、暗闇、静寂、息苦しさ、身動きの取れない体……今の自分を取り巻く現状、惨状にも、アリサは全て合点がいった。
――『奪われ』ているのだ。“自分”が。“アリサ・バニングス”を名乗る、この目の前の存在に。殺されたのではない。ただ……自分を“自分”足らしめていた全てが今の自分から喪われ、代わりにその全てを奪い取った目の前の存在こそが、今や正真正銘の“アリサ・バニングス”なのだと……そう、理解した。
「あは、さすがあたし。理解が早いわね」
手足を動かす、物を見る、音を聞く、声を発する――行動という名の全ての可能性を奪われ、残された『生』にしがみ付いて生きる存在。それが、今の自分だった。
「わかった? 声を持たないあなたの声があたしに届くのも、聴覚を持たないあなたにあたしの声が聞こえるのも、同じ理由。空っぽのあなたには、あたしが持つ“アリサ・バニングス”を受け入れるだけの間隙がある。だから、伝える手段を持たずとも互いの意思を疎通という形で共有することができる。自分の思考を手紙にしたためてやり取りするようなものね。……こう考えると、この関係って結構ロマンチックって言えるのかもね?」
道化のように笑う『アリサ』。そのおぞましい姿から逃げ出すことも、掴みかかることも、目を背けることさえ、今のアリサにはできなかった。
それはまるで、いつ終わるとも知れない、けれども絶対に終わらない死刑執行のようなもの。磔刑に処され、決して勢いの増すことがない火に炙られるような拷問だった。
だが。
「(……で?)」
恐怖、嫌悪、無力感……あらゆる負の感情に苛まれ、アリサが搾り出すように
「?」
「(なんで、あたしは生きてるの?)」
弱音ではない。虚勢ではあったかも知れないが、はっきりと口にしたその問いかけは、闘志に満ちた
「な、にを……」
意味がわからないとでも言いたげに、『アリサ』が呟く。その様子に明らかな困惑が見て取れて、アリサは更に一歩踏み込んだ。動かす足などなかったが、だがそれよりも強く。自分に『生』だけが残されているというのなら、その『命』で。アリサは詰め寄る。
「(わからないなら質問を変えてやるわよ。アンタがあたしから全てを奪ったというのなら、それができたのなら――なんで、こうしてあたしを生かしてるのよ)」
「――ッ!」
そう、知らなくてはならない。自分はまだ全てを喪ったわけではなく、ただ一つ――生という名の可能性を残されている。そしてそれは、ただ生きているだけの生ではない。決して諦めないという不屈の意思を顕す、真紅の灯火を宿した命だ。それさえ残っているのならば、アリサは決して、あの日の誓いを覆すことはない。
――そのために。
「(さあ、答えなさいよ、“アリサ・バニングス”。元が何であったか知らないけど、アンタって存在があたしを生かした、その理由を!)」
無様だろうと生き汚かろうと構わない。それが誓いだ。そのためならばアリサは、なんだってする。
――そう、それに。
目の前にいるソレが“アリサ・バニングス”だと言うのならば、尚更アリサは負けるわけにはいかないのだ。
“自分自身に負ける”なんて……そんなこと、アリサが最も嫌う弱さなのだから――!
「く、ぅ……っ」
その気迫に、目の前の『アリサ』はたじろいでいた。全てを喪ったはずの、何も無く、何をすることも出来ない目の前の存在に、一抹の恐怖を覚えていた。“アリサ・バニングス”であれば必ず持っているはずの自分にはない何かを、彼女が持っているという錯覚に――その器の違い style='font-size:6.0pt'>・・・・に、気圧されていた。
「ッ――!」
睨み付ける眼差しからひしひしと伝わる、言いようのない威圧感。プレッシャー。気付けば『アリサ』は、その足をほんの半歩、後退らせていた。その事実が、余計に彼女を焦らせる。
「(――――)」
アリサ――言わばオリジナルとも言える彼女は、そんな『アリサ』に対して何をするでもない。いや、何一つとして、出来るはずが無い。ただ、じっと、互いに共有している“アリサ・バニングス”の姿を、残された『生』の視覚で見据えているだけだ。今のアリサに許された行為など、その程度のものでしかない。
「……そうよ」
そうだ。目の前のコレは、ただそれだけのモノだ。いかに気迫があろうと、この自分を気圧させるだけの威圧感があろうと、他には何もできない、路傍の石に劣る価値無き概念だ。何を恐れることがある。
そう思い直して、『アリサ』は焦燥に駆られかけていた自身を取り直した。
「あは、は……いいわ、そんなに知りたいなら教えてあげるわよ」
愚者を哀れむような瞳で。己の優位を疑わない、優越感に浸る声で。どうせ知ったところで何もできないだろうと嘲るように。『アリサ』は口にする。
「アンタはね、ユミルになるのよ」
◇
「――!?」
ぞわり、と。背中に氷のように冷えたべとつく粘液を入れられたような言い様のない悪寒に、彼は空を翔ける足を止めた。
「変わっ、た……?」
その感覚を何と評するべきか、彼はそれに値する言葉を思い浮かべることができなかった。
そう、強いて言うなら――変質した。何が、と言われれば、世界が、としか言いようがない。
空間に満ちる大気、魔力、存在感とでも言うべき何かの気配。魔導師たる自分が感じることのできる様々な何かが、今の一瞬でまるで別物のように様変わりしていた。
めくっていた本の紙質が、ある1ページで唐突に違うものになったような……それがまるで、人の皮のような手触りをしていたような、気味の悪い違和感……。
それが何なのかを確かめるべく、彼は上空から眼下を見下ろした。
「…………」
目に見える変化は、
「……糞ッ!」
自分だけが蚊帳の外に置かれたような、奇妙な孤独感だった。すぐそこで演技が繰り広げられている舞台の上に立っているのに、役者も観客も誰一人として其処にいる自分に気付かない……そんな疎外感。まるで幽霊にでもなってしまった気分だった。
さきほどの広域探査の余韻か、未だちりちりとこめかみを刺激する湿疹のような感覚が、余計にその不機嫌を加速させていた。
苛立たしげに舌を鳴らし、彼は再び学校へと足を向けた。
◇
「(ユ、ミル……?)」
聞き慣れない単語に、アリサは首を傾げた。
「そう、ユミル。知らないはずはないわよ、何せあたしが知っているんだから。あたしの記憶は全て、“アリサ・バニングス”が今まで得てきた知識と経験で構成されているんだから」
つまり知らないのではなく思い出せないだけだ、と。『アリサ』は語る。
「まあ、それが人間の頭脳の限界よね。必要のない情報はすぐに記憶の引き出しの奥底に仕舞われて、ついにはその開け方さえわからなくなる。それがつまり、忘れるってこと。ときに大切な何かさえわからなくなる、人間が持つ最大の欠点のひとつ」
それは、まるで自分は人間ではないと明かすような口ぶりだった。いや、事実証明していた。同じ“アリサ・バニングス”でも、自分はその存在を得た、けれども人間ではない別の存在だと、『アリサ』は誇るように口にしていた。
「(……自分で言い出しておいてはぐらかすワケ? いいから質問に答えなさいよ)」
だが、そんなことは今はどうだっていい。例え『アリサ』が“アリサ・バニングス”の皮を被った別の何かだとしても、それは少なくとも今重要では事柄ではないはずだ。
「我ながら気が短いわね……ふん、いいわ。じゃあもう少しだけヒントをあげる。いい、これはただの喩えよ。あんたがユミルなら、あたしは謂わばオーディンになるの。……どう、わかるでしょ?」
「(オーディン……?)」
オーディン。その言葉には聞き覚えがあった。それは確か……そう、北欧神話における最高神の名。
「(……あ)」
その名を聞いて、思い出した。いつだった暇を持て余していたすずかと一緒に行った図書館で、何気なく手に取った一冊の本。それは確か、北欧神話の天地開闢から
子供ながらに背伸びをして難しい本を手に取って、読めない漢字も多かったけれどいつしか引き込まれて、わざわざ借りて持ち帰り一週間ほどで読破した、あの本だ。
オーディン、ユミル、そして……
ユミル。またの名を、アウルゲルミル。創造の力を持つ、原初の巨人。神の系譜であるオーディン三兄弟よって殺害され、彼らの都合の良い世界を創造するための礎となった者。
肉体からは大地を、骨からは山脈を、血潮は海へ。ユミルは謂わば北欧神話における世界そのものの元となった存在であり、最後にその死体からはトネリコの大樹が生え、神界を含む宇宙全体の軸となった。
そう、そのトネリコの大樹こそ『世界樹』。別名――ユグドラシル。つまり、今の自分。
「わかったみたいね?」
「(…………)」
何ということは無い。『アリサ』は喩えと言ったが、その喩えはむしろ現実以上に真実に近かったのだ。
ユミルに喩えられた自分は、『アリサ』を名乗る彼女に全てを奪われ、ユグドラシル――世界の中心の糧となり、そして彼女は、その世界の調律を守る最高神オーディンとなる。世界が、創り替えられる。
「でも……」
そんな、アリサにとって絶望的とも言える状況、『アリサ』にとっては最も都合の良いこの段階で、彼女は不意に表情を翳らせた。まるで部屋の中を煩わしい蝿が飛び回っているような、苛立ちを含んだ表情。
そんな顔で彼女が口にしたのは、ユミル、オーディンに続く第三者の名だった。
「別に好んで神話をなぞらえたわけじゃないけれど……運命ってものは、何処までも物語に忠実なのね。これから全てが新しくなろうとしているのに……この世界樹の外では、一足早いロキがあたしの邪魔をしようとしてる、なんて」
「(ロキ……)」
ロキ。邪神ロキ。ラグナロクの発端となった、忌むべき者。オーディンに敵対する唯一の神。だとすれば、それは……、
「(…………そ、っか)」
誰か……などと、今更考えるまでもない。ほんの少し考えを巡らせれば、すぐにでも目に浮かんでしまう、姿がある。清廉な白い装束に血を滲ませながら、けれども強い意志を瞳に宿して立ち向かう、あの姿が。
「(そう、そうよね……)」
決まっている、彼女たちだ。
いつだってどんなときだって、アリサの内なる叫びに応え続けてくれた少女。
どれだけ自分が非道に堕ちても、変わらぬ不屈の意思で救いの手を差し伸べ続けてくれた少女。
親友……と。そう呼べた、そう呼んでいた、そう……呼べなくなった、大切な……大切な……――。
だというのに。それでもやっぱり、不器用なあの子は、歯を食いしばって立っているのだろう。こんな無様な自分を助けるという、ただそれだけのために。
だが、それを、
「――馬鹿ね、違うわよ」
『アリサ』は事も無げに否定した。
「(…………え?)」
「――ふふ」
呆けた顔をするアリサを見て、さも可笑しそうに『アリサ』は笑う。言い知れない邪悪さを漂わせる微笑は、彼女の喩え以上にロキを連想させる不気味なものだった。
「(なのはじゃ……ない?)」
「ああ、やっぱりなのはのこと考えたんだ。――そう、違うわよ。もちろんフェイトでもはやてでもないし、一番ロキが似合いそうなエディックもハズレ。誰だと思う?」
自分が楽しげに談笑するのと同じ、だがそれ故に酷くおぞましい、肌の粟立つような笑顔で、『アリサ』は問う。あまりにも意外な答えに驚く回答者のリアクションを期待する、意地の悪い表情で。
「(ま、さか……)」
それで、わかってしまった。恐らく自分が最も驚愕するだろうその意外な答えに、予想がついてしまった。
「(すずか……?)」
◇
木の根が反応する原因――それがすずかの予想通り、地中に伝わる震動だったのは僥倖だった。ある程度の覚悟があったおかげで、不意のミスで喚起してしまった襲撃にも、なんとか反応することができた。
「くっ!」
尻餅をついている不自由な姿勢ではあったが、咄嗟の判断で真横に転がり、迫る凶刃から難を逃れた。今日ばかりは自分の運動神経の良さに感謝してもいいだろう。
「……ぅ」
槍の穂先めいた根の先端は、転がったすずかの肩を掠め地面に埋没していた。コンクリートを容易く砕いた威力を目の当たりにして、今更ながらにぞっとする。もし直撃を受けていたら、今頃命は無かっただろう。
根の先端が掠めた肩口はじわじわと赤く染まり、管を体の下敷きにしたまま動いたせいで点滴の針が千切れ飛び、針が刺さっていた左腕からは直視したら失神しそうなほどぼたぼたと血が滴っているが、これだけで済んだのならマシな方だ。言い訳がましいかも知れないが、重たいスタンドを引きずって歩く手間が無くなったと考えれば、むしろ幸運でさえある。
それでも、正直立っていられないほど痛い。頬を伝う水が冷や汗なのか涙なのかさえ、わからない。
……だがそんなもの、命の危険に比べれば些細な問題だ。歯を食いしばり痛みを堪え、裂けた右肩の布地を袖ごと破り取り、粗末な応急処置として傷口に巻き付ける。
その間も木の根は、地面に先端を埋めたままじたばたと藻掻いていた。ささくれた表面が返しになっていて抜けないのだろう。そのまま地中を進めばいいものを……やはり知能は無いに等しいようだ。抜けたら抜けたで、またすずかを見失って呆然とするに違いない。
とすれば、
「逃げるなら、今しかない……!」
思うが早いか、すずかは素早く立ち上がり、藻掻く木の根に背を向け駆け出した。そして、
――直後、その判断が油断から生まれた愚行だったことを悟った。
「っ! か――、ふっ……」
みしり、と骨の軋む気味の悪い音。圧迫された肺が無理やりに空気を追い出し、くぐもった声とともに口から漏れる。次いで訪れる、焼け付き腫れ爛れたような胸の痛み。
死角から飛来した鞭のようにしなる根が、胸を強打した――と、そう気付いたのは、弾き飛ばされ、荒れたコンクリートに背中から転がされた後だった。
「ぐ、ぅ……げほっ! げほ……か、っは……!」
相手の行動パターンがわかったことによる油断。激痛による思考の混乱。隣り合わせに存在する命の危険に対する焦燥感。ほんの少しの冷静さがあれば回避できたはずの、二度目の、同じミスだった。
そう、この木の根が、学校を占領しているあの巨大な樹を発端とするものだとすれば……そして、この街を侵食している木々と同じものだとすれば。別のもう一本があったとしても、何一つおかしなことではない。
いや、それどころか……一本や二本だと考える方が無理な話だ。加えて言えば、その長さも。
そうだ。これは地面から顔を出した一本の草木とはワケが違う。巨大な一本の木を発端とする、地面に無数に張り巡らされた根だ。氷山の一角という言葉すら生温い。
そして今すずかは、学校から目と鼻の先にいる。歪に螺子狂た大樹が根を張る地面さえ目視できるほど近くにいる。
ここは。この地面が続く一帯は。地雷原など足元にも及ばない、死地なのだった。
「か……っぁ、あ……」
そして。蹲り、せり上がる血と痰と唾液に喘ぐすずかの周囲、次々と盛り上がる地面から……一本、また一本と、刻々と数を増してゆく、根。
不可避の凶つ死が、
◇
「(すずか……すずかっ!)」
『アリサ』側から強制的に共有された視界の中。目を閉じるという概念すら通用しない、否応無く叩き付けられる、世界樹の麓で繰り広げられている現在進行形の映像。
「(嫌……嫌ぁぁっ!!)」
土に塗れ苦痛に歪む顔。赤く染まる襤褸のような姿。あの日よりも尚赤く、黒く、絶望と呼ぶにはあまりにも凄惨な、地獄と喩えるには安易に過ぎる光景。
わかる。あの根は、世界樹の根だ。つまりは……そう、世界樹と一体化している、アリサの一部だ。
そして、本来ならば自動的なはずのあの根は今、『アリサ』によって操られている。意のままに――ユミルの死体から世界を創った、オーディンのように。
「(やだ……やめさせて、やめさせてよ!)」
虚勢もハッタリも挑発も何もかもかなぐり捨てて、アリサは叫んだ。
嫌だ、こんなもの見たくない。……違う、こんな現実、あっていいはずがない。こんな……。
「(やめて……すずか、すずかが……あ、ぁぁ…………)」
懇願が、いつしか、力無い嗚咽に変わっていた。望みも、願いも、全てが押し潰されていく。現実は、ただ……現実のまま。
奇跡は……――、
「――死ぬわよ」
ぽつりと。ただ淡々と。さもどうでも良さそうに。『アリサ』が呟いた。視界の中で、一際鋭い根が、身動きの取れないすずかに向かって突き出される。避け得ない、それは、死。
それでも、奇跡は……――、
「(――させ、ないッ!)」
刹那。聴覚を失ったはずのアリサの耳に、声が聞こえた気がした。愛しいような、恋しいような……暖かいような、燃えるように熱いようなその声は、
「(こんなの……こんな現実……こんな終わり……これだけは! 絶対に許されない、許さないッ!)」
――なまえをよんで、と。そう……言っていた気がした。
「は、今更あんたに何が――」
「(彼岸の涯に散り逝く華、緋き夢幻――今ひとたび、黄昏に
それは、誓いと共に手にした力を呼び起こす言霊。黄昏に沈む炎が再び燃え上がるための、少女の願いを具現する祝詞。
――今ひとたび、少女は願う。
「(クリムゾン・ローウェル――リ・セットアップ!)」
「な――ッ!?」
力無く、剣無く、その名を冠する宝石もなく。ただ、唯一無二の生――命一つ。切なる願いが、無垢なる望みが、有り得ざる希望を産み落とす。創造する。
現実は、ただ……現実のまま。
それでも、奇跡は……起こる。
◇
迫り来る死の予兆。振り下ろされる死神の鎌。突き付けられる終わり。
それがすずかの見た――、
「……え?」
最後の、絶望だった。
◇
――炎。絶望という名の灰の中から蘇る、真紅の輝き。
「こんな、ことが……」
燃えていた。避け得ぬ死をもたらすはずだった根が。何一つ抗う術を持たなかったはずの、アリサの言葉一つで。
絶対的な死は退けられ、命を連想させる猛き炎が、すずかを包み込むように護っていた。
「(――ユミル)」
「!?」
「(あんたが言ったのよ。あたしはユミル、世界樹の礎となった創造の巨人だって。その上で、全てを奪われたのだとしても……あたしにはまだ、この命がある。何が目的だか知らないけど、そのために残したこの生が)」
世界に捧げられた巨人。肉体は大地を、骨は山脈を、血潮は海を。世界の元となった原初の巨人。
ならば。その全てが創造をもたらすのだとすれば。
「――ッ! 最後に残ったその命で、ユグドラシルにアクセスした……!?」
その命もまた、何かを生み出す糧と成り得る。
◇
懐かしい暖かさに包まれていた。それはとても愛しく、ひどく恋しく、何時如何なるときも絶えず望んでいた、あの闇の中で強く強く願っていた、あの暖かさだった。
すずかは、それを知っていた。それだけを、ずっとずっと、待っていた。求め続けていた。
「アリサ、ちゃん……」
暖かさに。愛しさに。猛き炎の輝きに包まれて。
痛みが引いていく。恐怖が薄れていく。成すべきことを、思い出す。絶望とは違う涙が、頬を伝った。
――立ち上がる。身を包んでいた炎が手のひらに集まり、握り締めたそこには、小さな宝石が息づいていた。あの日二人で手に取った、あの黄昏色の宝石が。
「ありがとう、アリサちゃん……今度はわたしの番だって、そう思ったのに……また、助けられちゃったね」
愛おしむように、その宝石を胸に抱き寄せて、告げる。これから向かうあの場所へ、届くようにと。
「うん、だから、大丈夫。今度こそ本当に、わたしの番だから」
もしかしたら本当に、その声は届いたのかも知れない。緋色と紫色とが混じり合い黄昏色の輝きを放っていた宝石から、不意に熱く燃える彩が薄れていった。
残ったのは、紫紺の輝き。あの日「二人が一緒になったみたいだ」と言った二つの内の、一つ。
――月村すずかが、誓う色。
「――往くよ」
宣言する。絶望には屈しないと、悲しみには折れないと、その先にある希望へ向けて。
学校へ、彼女のいるあの場所へ、世界樹へ、それを護る無数の木の根へ向かって、すずかは駆け出した。
⇒ こじたん (11/17)
⇒ 浅木原 (11/16)
⇒ こじたん (11/16)
⇒ 時の番人 (11/14)
⇒ 置き石 (10/14)
⇒ 葉月 (09/19)
⇒ ろっく (05/17)
⇒ 六仁祝 (08/27)
⇒ はまなす (06/20)
⇒ 橘 奏 (08/10)