ストラトスフィアの少女(3)
2008.01.31 Thursday | category:なのはSS(その他)
◆
それからまた、どれだけの時間が過ぎたのでしょうか。
少女はひとりきりで、歌い続けていました。
その歌声は、寂しく、悲しく。
ラースタチュカ、と呼びかける歌声は、蒼穹の中に吸い込まれ、どこにも届かずに消えていきます。
そんな彼女の姿は、泣いているようにも見えました。
少女の視界に、あれからもたびたび鳥たちが現れました。
しかしその中に、彼女の求める姿はありません。
愛おしい、あのツバメ。ラースタチュカの姿は。
彼女の近くに現れる鳥たちも、何故か彼女を遠巻きに眺めるばかりで、近付いてはきませんでした。
そのことがまた、寂しくて。
けれど、寂しいという気持ちが理解できずに。
少女はただ、歌い続けていました。
……そして。
見下ろす雲のない、よく晴れた日のことでした。
少女の元に、ツバメたちが現れました。
何羽ものツバメが、列をなして飛んできます。
――その中には、あのツバメの姿がありました。
ラースタチュカ。愛おしき、ツバメ。
少女は嬉しくなって歌いました。ひときわ大きな声で、呼びかけました。――ラースタチュカ、と。
ところが。
ツバメたちは、少女の歌声に力を失うこともなく。
――そして、少女に敵意を向けました。
向けられた敵意が理解できず、少女はただ歌います。
ラースタチュカ。
ラースタチュカ。
あなたに会いたかった。
ラースタチュカ。
ラースタチュカ。
ラースタチュカ――
そんな少女へ、ツバメたちは、ただ。
その鋭い嘴を、敵意と共に向け、
一羽のツバメが、ひときわ高く啼きました。
それと共に、群れの一羽が墜ちていきます。
群れが散開し、ただ一羽だけが、少女ではなく――今まで自分と共に飛んでいた群れへ、その嘴を向けました。
その、一羽は。
――あの、少女と最初に出会った、ツバメだったのです。
◇◆◇
それは、酩酊に近い感覚だった。
ぐるぐると視界が回り、意識が攪拌され、認識が溶ける。感覚が拡大し、思考が停滞し、螺旋を描いて――
……気が付けば、なのはの世界は一変していた。
(え……?)
そこは、どこか薄暗い、無機質な空間。
今まで居たはずの、成層圏の蒼ではない。
まるで、どこかの実験施設のような――
(ここ、は……?)
理解が追いつかず、なのはは周囲を見回そうとする。
だが、意志に身体が追いついてくれなかった。
視界はただ一点で固定されたまま。その身体は、なのはの思うままに動いてはくれない。
――と、その視界に、ひとつの影が映った。
それは、白髪と皺の目立つ老爺。老爺はなのはの眼前で目を細め、何かを口にする。
『――――』
その言葉は、どこか異国の響きで、なのはには理解できず。ただ、老爺が何かを操作すると、視界が、
――暗転。
次に目を開けると、そこは蒼だった。
誰も居ない、蒼一色の世界。空の中。
その、絶対的な孤独の中に、なのはは居た。
(ううん、違う。……これは、わたしじゃない)
なのははようやく、そのことを悟る。
確かになのはは、蒼一色の世界を見ている。だが、それはなのは自身の視覚ではなかった。別の誰かの視覚を、共有しているような感覚だった。
故にこそ、その身体はなのはの自由にはならず。
――そして、ただなのはは歌を聴いていた。
その歌は、何の感情もなく、ただ与えられた旋律をなぞるだけの、ひどく無機質な歌。
透き通る歌声は、しかしとても平板で。
歌声は、どこにも届かずに消えていく。
異国の言葉で綴られる歌詞の意味は、なのはには解らず。
ただ、ひどく寂しかった。
彼女は、ひとりきりで歌い続けるだけ。
――彼女とは、誰だろう。解らない。
だけど、ただ、なのはは寂しかった。
蒼の中で――孤独に、震えていた。
(……フェイト、ちゃん)
呼びかける言葉は、声にならず。
(フェイトちゃん……!)
ただ、無限の蒼に閉ざされて、どこにも行けない――
一羽のツバメが、陽光の元に舞い踊る。
いや、それはツバメではない。
無機質な翼。風を切り裂く異音。なのはは詳しくはなかったが、一目でそれが何なのかは理解出来た。
飛行機。それも――いわゆる、戦闘機だ。
翼にツバメのマークを塗ったその機体は、空に漂うなのはの――否、彼女の姿に驚いたようで、その周囲を遠巻きに旋回し始める。
そして、彼女もまた、ふわりと風を切って舞い上がり、歌いながら、その機体に近付こうとして。
……けれど、まるで彼女の歌声で力を奪われたように、その機体は急に制御を失い、高度を下げていく。
彼女はただそれを、歌いながら見送るしか出来ず。
――そしてまた、彼女はひとりになって。
悲しかった。
悲しい、という感情を――なのはは、共有していた。
彼女自身は、それを理解出来ていたのかは解らない。ただ、彼女が悲しんでいることは、なのはには解った。
それを、どうすることも出来なくて。
なのははただ――悲しみに染められて。
……そして、少女はただ飛んでいた。
蒼一色の世界の中を、ずっと飛び続けていた。
◇
『エイミィさん』
入ってきた通信は、無限書庫司書からのものだった。依頼していたのは言うまでもなく、歌姫に関する調査である。
「ユーノくん。歌姫に関して、何か解った?」
『ええと……具体的な歌姫の稼働例は、そちらも既に調べてある程度のことぐらいなんですけど。ひとつ、ちょっと気になるお伽話があって』
「お伽話?」
ユーノの言葉に、エイミィは首を傾げる。
『ええ。ある管理世界のお伽話で――空の彼方で、平和の歌を歌い続ける少女の話なんです』
空、歌、少女。……それらのキーワードは、確かに歌姫と合致する。しかし、平和の歌とはどういうことだろう?
『戦争で息子を無くした博士が、人々の心を優しくする歌を歌う機械人形を作った。人形の少女は、戦争の中で傷つきながらも空高くへと舞い上がり、誰も手を出せない空の彼方から平和の歌を歌った。――そして、世界は優しさで満たされて、平和が訪れた。……そんなお伽話なんですが。調べてみたら、その管理世界の近隣で、旧暦末期の頃にある世界が質量戦争で滅んでいるんです』
エイミィは唸る。ある次元世界での出来事が、近隣の世界で物語として語られる――次元世界間の見えない影響として、そういう事態がままあることは知られている。だとしたら、そのお伽話の少女が歌姫なのだろうか?
『それで今回の件なんですけど、歌姫の歌声が地上の航空隊の計器に影響したんですよね。――それってつまり、戦闘に使用されるシステムに介入し機能を停止させることで、戦争を止めようとした――ってことなんじゃ』
「……けど、質量戦争でその世界は滅んじゃってる」
『はい。……あくまで推測でしかありませんが。それに、歌姫がいくつもの世界に現れては消えているのも気になります。お伽話のように、戦争を止めることが目的なら、消える理由が無いんです。過去の記録からしても――』
そう、ロストロギア《蒼穹の歌姫》は、過去にいくつかの次元世界に出現していることが判明している。特に、航空機による戦闘行為が行われていた世界で、歌姫は何機もの戦闘機をその歌声で無差別に墜とし、それによって第二級捜索指定を受けたのだ。
しかし、その世界でも歌姫はある日唐突に姿を消し、結局その戦争は管理局の本格的な介入まで終わらなかった。もっとも、歌姫が居続けたことで戦争が終わったかといえばそうとは言い切れないのだが――
『ともかく――もう少し調べてみます。あと、なのはたちは大丈夫ですか?』
その問いに、エイミィは思考を中断し、それから小さく額に皺を寄せた。
歌姫の回収任務に出た、なのはとフェイト。彼女たちは今、成層圏で歌姫と対峙しているはずなのだが――
「……通信が、途絶えてる。魔力反応は追えてるから、ジャミングか何かのせいだと思うけど――ごめん。こっちも、状況の把握に今追われてるところ」
『――――歌姫が、デバイスを?』
「その可能性もある。とにかく、そっちも情報収集お願いね。――大丈夫、あのふたりなら何とかしてくれるから」
それは、エイミィ自身もそう信じたいのかもしれない。
通信を終え、エイミィは深く息をついた。
――平和の歌、か。
だとしたら、ひどく皮肉な話だ。次元世界の平和秩序を守る時空管理局が、その歌姫を墜とそうというのだから。
「なのはちゃん、フェイトちゃん……」
砂嵐のモニターを見つめ、エイミィは呟く。
もしも、歌姫が平和を願い歌うなら。
……どうか、ふたりが無事でありますように。
祈るぐらいしか、エイミィに出来ることは無かった。
◆◇◆
時間の経過は、ひどく曖昧だった。
蒼一色の世界に、そんなものは意味を為さない。
時間も、距離も。徹底的に孤独であるということは、全ての関係性が断絶されているということで。時間とも断絶され、距離とも断絶され――それはまさしく、孤独だった。
人間であれば、発狂してしまうかもしれない。
けれど、彼女にはそんなことすらも許されず。
たったひとりきりで、歌い続けていた。
(ああ……)
その少女の中で、なのはは思う。
――これはきっと、歌姫の中の記憶だ。
あの歌を、間近で聴いたせいなのかどうかは解らないが――今、自分は、歌姫の記憶を追いかけている。
それは遠い、悲しみの記憶。
空という奈落に墜ちていく、少女の記憶。
(――空は、どうして、こんなにも)
無限の蒼に。永遠の彼方に。
少女は、彷徨い続けている。
(悲しい、蒼なんだろう――)
少女の孤独に紛れ込む影は、いくつかあった。
たとえばそれは、ハヤブサのマークを刻んだ、あのツバメとは別の戦闘機の編隊。
それは、少女の歌声に悉く墜とされて。
――その後は散発的に、偵察と見られる機体が遠巻きに少女を眺めるばかりだった。
彼女の歌声の届かない距離から、その存在を確認する。それしか出来ない。近付けば墜とされる。機銃も届かない距離では、どうしようもない。
だから、少女はいつまでも、ひとりだった。
歌い続ける限り、ずっとひとりだった。
――それなのに、少女は歌うことしか出来なくて。
どうしようもないほどに、少女は孤独だった。
孤独を理解できないが故に、孤独すぎた。
無限の空の中で、どこにも辿り着けないままに。
少女は――なのはは――ひとりきりで。
ラースタチュカ、と。
愛おしい、ツバメの名を。
少女は、歌い続けていた。
フェイトちゃん、と。
愛おしい、親友の名を。
なのはは、叫び続けていた。
――ラースタチュカ。
――フェイトちゃん。
呼びかける名は、どこにも届かなくて、
……けれど。
また、幾ばくかの時間が過ぎて。
――少女の世界に、それは現れた。
ツバメの、あの戦闘機の編隊。列をなして、少女の元へと舞い踊る、無機質な翼の群れ。
その中に……あの機体があった。
最初に少女と出会った、ツバメの機体。
だから少女は、強く歌い、呼びかけた。
――ラースタチュカ、と。
その歌声が、またツバメたちを墜としてしまうことを、少女は理解していたのだろうか。
ただ、少女は叫ぶように、その名を歌い、
――けれど、そのツバメたちは墜ちることなく。
そして、少女へ、その機銃を向けた。
あまりにも無機質な――殺意を。
少女には、その殺意の意味が理解できず。
理解できたなのはには、どうすることもできず。
ただ――追憶の光景は、起きた事実を紡ぐ。
最初に火を噴いたのは、最後尾の機体の、機銃だった。
それは、少女へ向けられたものではなく。
味方の編隊の、一機を撃ち落とす。
全く無防備だったその機体は、炎を噴き上げて蒼穹の中に消えていき。
散開した編隊に、ただ一機のツバメが、対峙した。
それは――あの、少女と最初に出会った機体。
《――ラースタチュカ8、血迷ったか!?》
無線だろうか、男の焦ったような声が蒼穹に響く。
何故それが聞こえているのかは、解らないけれど。
対する答えは――簡潔だった。
《ああ、血迷ったんだ。僕は――歌姫に!》
そして、殺し合いが始まった。
少女の周囲で、ツバメたちは華麗に踊る。死の舞踏を。
飛び交う弾丸。駆け抜ける翼。そして、炎。
一機、また一機、ツバメが墜ちていく。
最初から背後を取っていた、ラースタチュカ8の機銃が、味方であるはずのツバメたちを、次々と葬る。
それはあたかも――少女を護る騎士のように。
その光景を見つめながら、しかし少女は歌うしか出来ず。
ラースタチュカ、と。
愛おしいツバメへ、呼びかけることしか出来ず。
……そして。
ラースタチュカ8の弾薬は、無慈悲なほどにあっという間に、底をついた。
一機で、少女を護りきれるはずはない。
戦闘機に積まれた弾薬などごく僅かで、編隊を一機で相手にするなど根本的に不可能な話で。
――けれども、そのツバメはそれに挑んだ。
何故か? そんなことはあまりにも自明だ。
血迷ったのだ。どうしようもないほどに。
蒼穹にただひとり、歌い続ける孤独な少女の姿に。
弾薬の尽きた機体は、ただ狩られるだけの獲物。
その直前、コックピットの中で、ツバメを駆るパイロットは、不意に少女を見つめて、笑った。
そして――無線で、叫んだ。
届くはずもない、その言葉を。
《アド・アストラ!》
そして。
少女の騎士たる、そのツバメは。
黒銀の翼から、真紅の炎を噴き上げて。
――蒼穹の底へ、消えた。
そして、少女は。
蒼穹の彼方を目指して、舞い上がった。
騎士は墜ち、歌姫は舞う。
時間も距離も方向も、意味を為さない蒼の世界で。
ただ、目指す場所は。
――ストラトスフィアの、その先へ。
ただ、蒼の中を、少女は――
◆
雲を突き抜けて、音の壁を超えて。
螺旋を描いて、夢を切り裂いて。
風が鳴り止んだ静寂の中に、高く、ただ高く。
僕は忘れない。
地平線を越えて響く、君の歌声を。
だから――越えるんだ。
この、果てのない孤独を蒼を抜けて。
果てしない、星の彼方へ――。
◇
そして、目を開ければ、
やっぱり、空はどこまでも蒼すぎて、
どこにも辿り着けはしないのだと、
無言の蒼が、雄弁に語っていた。
――暗転。
◇
そしてなのはは、瞼を開けた。
最初に視界に入ったのは、金色の輝き。
眩しいほどの金色が、視界を貫いて。
それが、刃の形を為していることを理解するまでに、しばしの時間を要して。
――その、金色の刃が。
目の前で、碧の少女の身体を貫いていることを。
なのはが理解するのには――さらにもう少し、時間がかかった。
「なの、は」
金色の刃を手にした、金色の少女が、なのはを呼ぶ。
その刃が、碧の少女から引き抜かれる。
刃が崩れ、大剣は元の戦斧へと姿を変え。
そして――貫かれた歌姫は。
歌声を失って、蒼の底に墜ちていく。
それはまるで、――あの、ツバメの騎士のように。
「あ―――――」
なのはが、呆然と見下ろす先で。
歌姫は、ただ、虚空へと手を伸ばして。
その唇が、微かに、震えた。
――ラースタチュカ。
最後に、歌姫はその名を呼んだのだろうか。
歌声は、無限の蒼の中に溶けて、どこにも届かず。
そして歌姫の姿も――蒼の中に、消える。
「なのは――」
脇目もふらず、自分を抱きしめる少女の腕。
その感触を、ただなのはは呆然と受け止めて。
「……フェイト、ちゃん」
虚ろな声で、その名前を呼んで。
蒼の中、ただ、墜ちた歌姫の姿を追いかけて。
ラースタチュカ、と。
小さく、呟くように、歌って。
「……なのはっ!?」
大切な親友の、慌てた声を聞きながら。
――なのはの意識は、幾度目かの、闇に落ちた。
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