魔法少女リリカルなのはCHRONICLE 第三章「聖王の福音」(3)
2008.01.22 Tuesday | category:なのはSS(CHRONICLE)
◆
この街には、空がない。
世界の色は、ただ仄暗いモノクローム。埃の舞う薄汚れた空気が、淀んで腐っていく。
希望などという言葉は、とうの昔に失われて久しく。
幸福などという言葉は、遥か彼方に閉ざされて久しい。
それも、至極当然のことなのだろう。
――ここは、聖王から見捨てられた場所なのだから。
「聖王の加護、か」
薄暗い闇の向こう、ドームの天井を見上げ、サイノスは小さく呟いた。
廃棄区画。この街に、それ以外の呼び名は無い。棄てられた場所、という以上の意味など存在しない。――ここにあるのは全て、見捨てられたものだ。
廃墟にも似た、薄汚れた街並み。行き交う人々の瞳は濁り、その顔に生気は無い。
襤褸を纏い、道ばたにうずくまる女と小さな子供。生きているのか死んでいるのかも定かでなく、その存在に誰も興味など覚えもしない。
どこからか響く咳の音。今もまた、どこかで誰かの命が尽きているのだろう。
希望など無い。あるはずもない。
ここは檻。永遠に閉ざされた監獄。その中で、咎人はただ緩やかな死を待つだけ。
――ああ、されどそんなものが、かつては加護と呼ばれていたのだ。
「く、くくく……」
自重するように、サイノスは小さく笑みを漏らした。
全く、実に滑稽。それが道化でなくて、何だというのだ。
鳥籠の中の世界しか知らぬ小鳥は、空を知らないが故に幸福だ。悲しいほどに。
全ては哀れな道化でしかない。――真なる希望を知らぬが故の。
微かな笑みを漏らしたまま、サイノスはゆっくりと、通りを歩いていく。
杖のたてる固い音。すれ違う誰かの咳の音。
静かに死んでいく通りを抜けると――彼の目的地が、眼前に姿を現した。
それは、聖堂。かつて、聖王教会の第六聖堂と呼ばれていた場所。
――そして、今は、彼らの聖堂である。
彼はゆっくりと、その門をくぐる。それはこのドームが棄てられるよりも以前から、彼が繰り返してきた日常の一部。
本当に、滑稽な話だ。サイノスは小さく哄笑する。
聖王教会枢機卿。かつて自らの名前に付随した、権力の証。
それを失って、聖王に見捨てられ――そして手にしたのは、真実だったのだから。
聖堂の扉を開く。重々しく軋んで開く扉。――それと同時。
そこに集う人々の視線が、彼に突き刺さった。
百人、いや二百人。年齢も性別も、何もかもばらばらの集団。老爺がいれば、サイノスの娘と変わらぬ幼き少女がいる。若き女も、壮年の男も。皆一様に、サイノスを見つめる。
――かつて、サイノスに向けられる視線は、苛烈なものだった。
聖王教会枢機卿。その肩書きは、この街の人間にとっては仇と同義だ。
ここは、その聖王教会によって、楽園から追放された者たちの街なのだから。
故に、楽園を追われてなお、サイノスは罵倒され、蔑まれ、石を投げられた。
娘とともに、それに耐えて暮らした。――だがそれも、昔のことだ。
今、サイノスに向けられる視線は。
無数の視線に宿るのは――希望だ。
それはひどく、この滅びた世界に不釣り合いな光。
間近にある幸福にすがりつく、希望の光だ。
その光を、ここにいる皆に宿したのは――紛れもなく、サイノス・クルーガーなのだ。
集まった者たちの間を、サイノスはゆっくりと抜けていく。
そのたびに、皆が祈るように、サイノスへと跪く。
そして、祭壇へと辿りつき、振り返ると、両腕を広げ。――おもむろに、口を開く。
「楽園は、また一歩、近付いた!」
――歓声が、サイノスの言葉に応えた。
それを聞きながら、サイノスは思う。――家に残してきた、娘のことを。
この場所に集まった皆の目にある、希望の光。
それを、宿してやらねばならぬのは、誰よりも、あの子だ。ノアだ。
「守護者ファブニールの目覚めは、近い!」
聖堂に響き渡る声で、サイノスはいつもの言葉を繰り返しながら。
――ああ、ノア。愛おしい我が娘。
苦しみも悲しみもない楽園で、今度はお前と、幸せになろう。
お前を泣かせはしない。悲しませはしない。父として、今度こそお前を愛するから。
だから――楽園まで、あと少しだから。
「聖王の名を騙る邪教徒は、知るだろう! 真実の楽園が何処にあったのかを!」
サイノスの言葉に、人々は歓声をあげ、跪き祈る。
希望と幸福の失われた世界で、淀み朽ちていくだけの生は、もうすぐ終わるのだ。
「求めよ、真実の楽園を! 祈れよ、真なる聖王の加護を!
さすれば与えられよう! 慈悲深き聖王の守護者が導く、永劫の幸多き未来が!」
そしてサイノスは、杖を持たぬ手を高く天へと掲げ、握りしめる。
その手に、失った全てを握りしめようとするかのごとく。
人々の祈りの声が、聖堂を揺るがす。
――その場所には確かに、希望というものが、存在したのかもしれなかった。
◆
母親の顔を、自分は知らない。
記憶の片隅に残っているのは、ただ、温かくて大きな腕の感触と。
――囁かれるような、旋律の断片。
それは、きっと、子守唄と呼ばれるメロディ。
見知らぬ母親の腕の中で聴いた、その旋律。
歌詞は知らない。ただ音階だけを、覚えていた。
まだ、声を失う前。……その旋律をよく、ひとりで口ずさんでいた。
父の前で歌うと、どうしてか怒られるから。――ひとりきりで歌っていた。
ずっと、ひとりだけで。
――いや、違う。
ただひとり、その歌を聴いてくれた人が、いた。
その歌を聴いて――頭を撫でてくれた人が、いた。
『上手だね』と褒めてくれた人が、いた。
その人の名前を、自分は、知らない。
◆
「……主ノア。いらっしゃいますか」
ノックの音と、ドアの向こうからの声に、ノアは枕から顔を上げた。
シグナムの声だった。ベッドから降り、ドアを開けると、烈火の将は一礼して入室し、そのままそこに傅いた。
「先ほどは、ヴィータが失礼を致しました」
その言葉に、ノアは小さく喉を鳴らす。……ヴィータに払われた手の痛みは、とっくに引いていたけれど、ただノアはぎゅっと右手を握りしめた。
振り払われたことで、ヴィータに怒っているわけじゃない。怒る資格なんて自分にはない。……結局、自分が主として認められていないだけの話なのだから。
だから、ノアはふるふると首を横に振って。声は出せないけれど、唇を動かした。
『きにしないで』、と。
それに対して「しかし……」とシグナムは言いかけたが、それ以上言葉は続かず。
代わりに、烈火の将はひとつ息を吐き出して。
「……ヴィータも、決していつもあのような非礼な態度ばかりではないのです」
そんな言葉を、どこか確かめるように、口にする。
「むしろ、そう、以前の主などには、ヴィータはよく懐い――て、……」
だが、シグナムの言葉は、ひどく不自然に途切れた。
訝しみ、ノアはシグナムの顔を覗きこむ。シグナムは何か、まとわりつくものを振り払うように、数度首を横に振った。
「……失礼しました」
結局、呟くように吐き出されたのは、ただその一言だけで。
途切れた言葉の続きは、まるで存在しなかったように、淀んだ空気にかき消える。
――それが何を意味するのかは、ノアには理解できなかったけれど。
『だいじょう、ぶ?』
ノアはただ唇をそう動かすだけ。けれど、シグナムはそれをちゃんと読み取ってくれた。
「問題ありません、主ノア」
返ってくるのは、どこか機械的な返事だったけれど。
……これ以上、交わす言葉も思い浮かばなくて、ただノアは退出を促す。
疲れているだろうから、自分のことなど気にせずに、休んでいてほしかった。
いや……単に、守護騎士たちと居ることが苦しくて、逃げているだけなのかもしれない。
――詮無い思考。全ては無為だ。ノアはただ、小さく溜息を吐き出す。
その溜息は届かなかったか、あるいは触れずにいてくれたのか。……シグナムは促された通りに立ち上がり、「大変失礼を致しました。――それでは」とだけ言葉を残して、部屋を出て行く。
その姿が消えれば、またノアはひとり。
シグナムを見送って、ノアは再び、ベッドに倒れ込む。
――目を閉じてみれば、浮かぶのは数時間前の出来事。
『はじめまして、主ノア』
そんな言葉と共に姿を現した――闇の書の意志との会話だった。
闇の書の意志であり、闇の書そのものである、と名乗った、銀色の髪の女性は。
ただ、いくつかの事実を、ノアに告げていった。
蒐集が400ページを超えたために、自分が起動したのだということ。
666ページに至れば、真にノアは主として覚醒し、その力を振るえるということ。
そんな、ひどく事務的な言葉を告げるだけで。
――ノアの知りたいことは、何ひとつ教えてくれなかった。
いや、そんなのは当たり前なのだ。ノア自身、何が知りたいのかも解らないのだから。
だから、管制人格の起動によっても、何が変わるわけでもなかった。
本当に、何も変わらなかった。そのときは。
枕に突っ伏した顔を上げてみれば、傍らに闇の書が鎮座していた。
その革張りの表紙に触れて、ノアはふと思う。
――過去の主は、いったいどんな人物だったのだろう。
思い出すのは、先ほどのシグナムの、不自然に途切れてしまった言葉。
過去の主には、ヴィータも懐いていた、と、シグナムは言おうとしていた。
……ヴィータに懐かれる主というのは、きっと立派な主だったのだろう。
自分のように、ひ弱で魔法も使えないような、無力な主ではなく。
強く、たくましく、賢く、優しい、――そんな主だったのだろう。
……ねえ、闇の書。
声に出せずに、ノアは呟く。……教えてほしいことが、ひとつ浮かんだから。
どうすれば、そんな立派な主になれるのだろう。
どうすれば、守護騎士たちに慕われる主になれるのだろう。
どうすれば――守護騎士たちは、自分に笑いかけて、くれるのだろう。
笑って、ほしい。
――何か、ひどく大事なことに気付いたような気がして、ノアは目を見開く。
もやもやと胸の奥でつかえていたものが、すっと晴れたような感覚。
手探りの闇が、微かな光で照らし出されたような、そんな気がした。
――笑って、ほしい。
ああ……そうか。
ノアの脳裏を、いくつかの顔が去来する。
それは、ひどく不鮮明な、自分を抱き上げた誰かの顔であり。
いつも険しい表情しか見せてくれなかった、かつての父の顔であり。
――全てを失ってから、自分に笑いかけてくれるようになった、父の顔であり。
それから、それから。
……いつだったか。自分にあの、うさぎのぬいぐるみをくれた人の。
ひとりで歌っていた自分を、『上手だね』と褒めてくれたあの人の。
優しい、笑顔。
あんな風に、笑ってほしい。
そうだ。そうなんだ。――笑って、ほしいんだ。
この灰色の街に来てからの父のように。ぬいぐるみをくれたあの人のように。
笑ってほしい。守護騎士たちに……笑いかけて、ほしいんだ。
この街に来る前、立派な家と、ふかふかのベッドと、豪華な食事があったけれど。
あの頃は、父が笑ってくれなかった。
この街に来てから、崩れそうな家と、固いベッドと、貧しい食事しかないけれど。
今は父が、笑いかけてくれるから。――ノアは、それが嬉しかった。
笑っていてくれると、嬉しいから。胸の奥が、あったかくなるから。
だから自分も、父に笑いかけていた。父が笑い続けていてくれるように。
――ああ、なんて簡単なことだったんだろう。
主とか、守護騎士とか、よく解らないことが多すぎて、考えすぎていただけだったんだ。
ノアは、ベッドから飛び起きる。そして、部屋を飛び出そうとして、ふと足を止めた。
――ただ笑いかけるだけで、守護騎士たちは笑ってくれるだろうか。
自分の手を振り払う、ヴィータの険しい顔を思い浮かべて、ノアは唇を噛む。
足りない。ただ、自分から笑いかけるだけじゃ、きっと足りない。
それなら、どうしよう。
ノアはきょろきょろと部屋の中を見回す。そして、一箇所に目を留めた。
それは、部屋の片隅に置かれた、不格好なうさぎのぬいぐるみ。
いつだったか――あの優しい男の人からもらった、あのぬいぐるみだ。
思い出す。ぬいぐるみをくれた名前も知らないあの人の、優しい笑顔を。
ぬいぐるみをくれた。『上手だね』と頭を撫でてくれた。……あの人。
あんな風に、自分は笑えるだろうか。
あの人みたいな笑顔を――守護騎士たちに、与えられるだろうか。
ぬいぐるみを拾い上げ、埃を払って、ノアはぎゅっと両腕で抱きしめる。
くたりと力なく頭を垂れたぬいぐるみは、やっぱりあまり可愛くはないけれど。
……これは、頑張っている彼女たちへの、主からのご褒美。
ささやかだけれど、自分があげられるものは、これぐらいしかないから。
また、拒絶されるかもしれない。手を振り払われるかもしれない。
だけど、それ以上にノアは――笑顔が、見てみたかった。
かつての主には懐いていたというヴィータの笑顔が。
いつも真剣な表情だけのシグナムの。あるいは、シャマルの。ザフィーラの。
どんな風に、みんなは笑うのだろう。――それを、見てみたくて。
それが見られれば、きっと自分は、今よりは少し、立派な主になれる気がした。
自らの意志を確かめるように頷いて、ノアは部屋のドアを開け、駆け出す。
父は今、外に出かけていて不在だ。――守護騎士に会いに行っても、怒られない。
きょろきょろと、父が戻っていないことを確かめて。ノアは真っ直ぐに、薄暗く冷たい廊下を駆けていった。
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Comment
ええ娘なんじゃがのぅ、世界はなんとも無慈悲で容赦がないもんですよぅ。まあノアやサイノスの素性もだんだんと明確になってまいりましたし、はてさてどうなるものやら。なにはともあれ、この小さな主にほんの僅かでも感じることのできる幸せを願っております。
Posted by: 緑平和 |at: 2008/01/22 11:47 PM
たった1つの思いを通す・・・それがいかに難しいことか。
壁は大きいですが頑張ってほしいと思ってしまいますね。
壁は大きいですが頑張ってほしいと思ってしまいますね。
Posted by: らさ |at: 2008/01/23 6:33 AM
>緑平和さん
クルーガー親娘の素性に関しては引っぱりすぎた気がして(ry
ノアと守護騎士の物語の続きは次々回(予定)にてー。
>らささん
ノアの想いはやさぐれヴィータに届くのかw どうぞお楽しみにー。
クルーガー親娘の素性に関しては引っぱりすぎた気がして(ry
ノアと守護騎士の物語の続きは次々回(予定)にてー。
>らささん
ノアの想いはやさぐれヴィータに届くのかw どうぞお楽しみにー。
Posted by: 浅木原忍 |at: 2008/01/23 12:08 PM
毎度の事ながら少女の心理描写が絶妙過ぎです。。。涙。
がんばれノアッ
がんばれノアッ
Posted by: izm |at: 2008/01/25 3:20 PM
>izmさん
ノア周りはイマイチどう思われているのか自信が無いのですがw 愛情表現の仕方を知らないだけで、優しい子なんだということが伝わっていれば幸いですー。
ノア周りはイマイチどう思われているのか自信が無いのですがw 愛情表現の仕方を知らないだけで、優しい子なんだということが伝わっていれば幸いですー。
Posted by: 浅木原忍 |at: 2008/01/26 8:14 PM
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