『東方野球異聞拾遺 弐』(1) 霊夢とレティ(一)
2011.02.11 Friday | category:東方SS(東方野球)
博麗の巫女は、恋を知った。
11月8日、博麗神社。
「……さむ」
朝。布団を這い出して、博麗霊夢は肌寒さに小さく身を竦めた。
窓の外を見やれば、紅葉に色づいた葉が境内に舞い散っていた。また今日も掃除が大変だ、と霊夢はひとつ息をつき、また焼き芋でも作ろうかしら、などと思案する。
秋も深まる十一月。季節は少しずつ、幻想郷にも寒の気配を運びつつあった。
いつもの巫女服の上にどてらを羽織り、冷たい縁側の廊下をぺたぺたと歩く。朝の空気は清涼で、陽光と鳥の声が変わりない一日の始まりを告げていた。
萃香はどうせまだ飲んだくれて寝ているだろう。お腹が空けば勝手に起きてくるはずだ。
そんなことを思いながら、霊夢は足を止めた。そこは、もうひとりの居候の部屋。
襖を開ける。ひんやりとした部屋の空気。畳の上に足を踏み出し、
「――――」
レティ、と、居候の名前を呼ぼうとして、けれどそのまま口ごもった。
その部屋は、もぬけの空だったから。
ああ、――そうだ。
もう、レティはこの博麗神社には居ないのだ。
「……何やってんのかしら、毎朝毎朝」
こめかみを押さえ、霊夢は溜息をつく。
昨日も同じ事をやらかした。一昨日も、その前も。――レティが居なくなってから毎朝。
習慣付いてしまっているのだ、既に。朝起きて、台所へ向かう途中で、レティの部屋に立ち寄って声をかけていく。――たった数ヶ月で、それが当たり前になってしまっていて。
そうして今、霊夢は無人の部屋の前で、ひどく間抜けに突っ立っている。
――冷たい風が吹いたような気がして、霊夢は小さく首を竦めた。
それは、いつも通りに戻っただけのこと。
そもそも、居候がふたりも居たことの方が特殊だったのだ。萃香が居座るまでは、この神社にひとりで暮らしていて。――誰かが居ることが当たり前になるなんて、思いもしなかった。
誰かが「居ない」ことを意識するなんて――思いも、しなかった。
「なーにやってんのさ? 霊夢」
声に振り向けば、いつの間に起きだしていたのか、萃香がニヤニヤとこちらを見つめている。
「……別に」
それだけ答えて、霊夢は襖を閉めた。ぐぅ、と小さくお腹が鳴る。――生理的欲求は、気分などとは無関係だ。そのことは、ある意味で救いでもある。
「早起きなんて珍しいわね。どうせなら朝の支度手伝いなさいよ」
「へいへいっと。ま、レティももう居ないしね」
「――――」
軽く言う萃香の言葉に、また何か、胸の奥のどこかがさざめくような感覚。
振り切るように歩みを早めれば、ぱたぱたと追ってくる萃香が、傍らからこちらを愉しげに見上げていた。
「何よ」
「別に〜?」
ぐびり。歩きながら瓢箪を傾け、ぷはぁ、と萃香は酒臭い息を吐き出す。
朝食、豆ご飯にでもしてやろうかしら。霊夢はそんなことを思いながら、庭先に視線を移す。
――かつてそこから見えていた野球場は、今はもう、どこにもなかった。
◇
『レティ』
声がする。それはとてもぶっきらぼうで、だけどとても優しい声。
『ほら、起きなさいってば。いつまで寝ぼけてるのよ』
布団をはぎ取って、身を竦める自分の身体を、彼女は揺さぶる。
『おーきーろー。……うりゃ』
むに。彼女の指が頬をつまんで引っぱった。その痛みで、ようやく意識が覚醒して。
『……う〜。おはよ〜、れいむ〜』
『はい、おはよ。顔洗ってきなさいよ、寝癖ついてるから』
『りょうかいしたわ〜』
目を擦る自分に、彼女は呆れたように言い放って。
『朝ご飯、何か食べたいものでもある?』
『……何でもいいわ〜』
『そ。じゃ、顔洗ったら手伝いなさいよ』
そう言い残して、彼女は台所へと歩き去っていく。
ぼんやりとその背中を見送って、それから自分は彼女のつねった頬に触れる。
いちいちそんな起こし方をしなくてもいいのに、とは思うのだけれども。
――霊夢に触れられたところ、というだけで、なんだかじんわりと幸せな気分になって。
そんな自分自身に苦笑するところから、レティ・ホワイトロックの一日が始まる――。
けれどもそれも、今はただの夢でしかなかった。
「レティ?」
瞼を開ければ、ぼんやりとした視界に映るのは、自分を覗きこむ誰かの顔。
それが一瞬、大好きな人の顔に見えて――だけどそんなのは、ただの錯覚に過ぎなかった。
「……チルノ。……おはよう〜」
目をしばたたかせれば、そこにいるのは氷精の少女。
そして自分が眠っているのも、あの神社の一室ではなく――ひんやりとした洞穴の奥だ。
そこはいつも、春から秋にかけてレティがねぐらにしていた場所。陽の光も遠く届かない、冬妖怪の安眠場所。どこよりも居心地のいい寝室だった、はずなのに。
――どうして今は、その薄暗い岩肌の壁を、ひどく狭苦しく感じてしまうのだろう。
「レティさん。おはようございます」
チルノの後ろから姿を現したのは、大妖精だった。
「ん〜、ふたりともどうしたのかしら〜?」
小さく伸びをしつつ、レティは尋ねる。わざわざ自分が寝ているところまで、このふたりがやってくるなんて珍しい話だ。いつもは――いつもはそう、ひとりで起きて、気が向いたら霧の湖の方まで行って、そうすれば大抵チルノと大妖精が遊んでいるから。
そう、それがいつも通りの、レティの日常だったはずだ。
――ついこの間までの数ヶ月間は、ただのイレギュラーだったはずなのに。
「ええと……レティさんが元気ないから、って、チルノちゃんが」
「チルノが?」
大妖精の言葉にそちらを見やれば、む〜、とチルノは頬を膨らませていた。
「レティが元気ないとつまんないのよう。もうすぐ冬なのに」
――ああ、そうだ。もうすぐ冬だ。自分の季節が来るのだ。
いつもなら、初雪の到来を心待ちにする、気分の沸き立つ時期なのに。
「……心配してくれたのね〜。ありがとう、チルノ」
その頭を撫でると、チルノは照れたようにむずがった。可愛いものだ、全く。
「私は大丈夫よ〜。ちょっと、寝不足なだけ〜」
ふわあ、とあくびをひとつ。――それは確かに、一面の真実ではあった。普段なら春から秋まで、ひたすら惰眠を貪るところを、今年はずっと起きて動き回っていたのだから、寝不足にも程がある。せっかくの冬にも眠くなってしまいそうなほどに。
だけどやっぱり、真実はその一面だけではないのだ。
「む〜、だったら寝てなさいよ。大ちゃん、いこっ」
「あ、うん。……ええと、レティさん、起こしちゃってすみません。おやすみなさい」
ぺこりと大妖精は一礼して、チルノとともに飛び去っていく。
その後ろ姿を見送って、レティは洞穴の壁にもたれて息を吐き出した。
ああ、全く、チルノにも見抜かれるぐらいに、今の自分は弱っているのだろう。
その理由なんて、どうしようもないぐらい明らかだった。
「…………れい、む」
その人の名前を呟いている。小さな言葉は狭い洞穴に反響して――けれど、どこにも届くことなく、やがて薄暗がりの中に溶けて消えていった。
『なによ?』
――そんな風に答えてくれる声なんて、あるはずもない。
右手で顔を覆って、レティは大きく、全身の力の抜けそうな溜息を吐き出した。
それは結局、ものすごくシンプルな話で。
――博麗霊夢という少女が、そばにいないという、ただそれだけのことが。
もっと端的に言えば――恋をした相手と離れてしまったということが。
どんな疲労よりも重く、レティの肩にのしかかっているのだ。
「霊夢」
呟く名前は、どこにも届くはずはない。
この洞穴から、博麗神社は遠すぎて。
――その傍らにあった球場も、今はもうどこにも無いのだから。
瞼を閉じて、レティはまたごろりと身体を横たえた。
くすぶる思いから逃げ出すように、心が眠りを求めていた。
『レティ』
閉じた瞼の裏に、大好きな人の笑顔が浮かんで、どうしようもなく、泣きたくなった。
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